机の横のカレンダーに書きこまれた赤いマル。八月七、八、九日がもうすぐやってくる。弘が参加する「夏休みちびっ子キャンプツアー」の日だ。
(嫌だなあ)
さっきから弘は、何度も横目でカレンダーを見ながら思っていた。
旅行会社のちらしを見て、キャンプに申し込んだのはおかあさんだった。
「男の子なんだから、アウトドアぐらいできなきゃ」
学校のプールにも行かないでブラブラしていた弘に、おかあさんはいった。
「男の子は、体力が一番。勉強なんか、いくらできたってだめだ」
これが、おかあさんの口ぐせだ。そのために、弘をサッカー教室にいれ、スイミングスクールにも通わせている。
でも、サッカーでは四年生以下のチームで、年下の子たちにねらっていたレギュラーポジションを取られてしまった。スイミングも、四年生の今でもまだ十一級で、小さな子たちとポチャポチャやっている。
弘は、スポーツが苦手だった。
どういうわけか、弘が好きなのは、家の中でやることばかりだ。
ゲーム、プラモデル、プログラミング、水彩画、……。
特に、本を読んだり、日記を書いたりすることは大好きだ。お気にいりのファンタジーかミステリーと、おいしいおやつさえあれば、一日中退屈しない。
こんなところは、おとうさんに似たのかもしれない。おとうさんもインドア派で、いつも自分の部屋で本を読んだり、何か書き物をしたりしている。日曜日も、おかあさんに引っぱりだされないかぎり、ネットでどこかの人たちと囲碁や将棋をやっているだけだ。
それに、弘は虫が大の苦手だった。高いお金を払って、クワガタやカブトムシを買う人がいるなんて、とても信じられない。キャンプで山の中にいけば、きっと虫がウジャウジャいるだろう。そう考えただけでも、背中のあたりがむずむずしてくる。
いよいよ、キャンプに出発する朝がやってきた。玄関の鏡に、完全装備の弘がうつっている。
大きなつばのキャップに、半袖の綿シャツ。ジーンズのハーフパンツに、おそろいのベスト。大きなリュックを背負い、モスグリーンの水筒と双眼鏡を、タスキがけにしている。
まるで、アウトドアライフ雑誌のグラビアから抜け出してきたようだ。どれも、おかあさんが、はりきって専門店で買いそろえた物ばかりだった。
専門店には、弘も一緒に連れて行かれた。
おかあさんはザックの売り場をキョロキョロと見まわしていた。
「ザックは何リッターのがいいですか?」
おかあさんは、ザックの売り場のおにいさんにたずねた。
「どちらの山に行かれるのですか?」
おにいさんは、あいそよくおかあさんに答えた。
「いえ、ハイキングなんですけれど」
「お客様がお使いですか?」
「いえ、この子ですけれど」
「なら、そんなに本格的なザックでなくても、お子様用のリュックサックがございますが」
おにいさんは、笑いながら子供用品コーナーを指差した。
「ええ、まあ、……」
おかあさんはそのとき、なんだかがっかりしたような顔をしていた。
「ひろちゃん、早くしなさい」
外から、おかあさんが呼んでいる。自慢の真っ赤なクーペの運転席の窓を下げて、今日も一人ではりきっている。
「それじゃ、行ってくるね」
弘が声をかけると、おとうさんも部屋から出てきた。
「おっ、いよいよか。大変だな」
おとうさんもアウトドアが苦手なせいか、なんだかすまなさそうな顔をしている。
「そうそう、これ持っていかないか」
おとうさんが差し出したのは、手の中にすっぽりと入る小さなハーモニカだった。弘は小さいころに、おとうさんにハーモニカを教わったことがあった。
でも、学校ではピアニカとリコーダーしか習わないこともあって、最近はあまり吹いていない。
「うん」
素直に受け取ったものの、
(こんなの吹いてるひまがあるかなあ)
とも、思っていた。
「ほら、キャンプファイヤーなんかで、歌を唄うことがあるんじゃないか。そんなとき、伴奏にでも使えないかと思って」
そういわれて、ようやく弘は、おしりのポケットにハーモニカをつっこんだ。
集合場所のバスターミナルは、参加する子どもたちや見送りの親たちでごったがえしていた。
キャンプ参加者は、小学四年から六年までの、ぜんぶで八十三名もいる。それが、十二班に分かれて行動することになっていた。
「二班、集まってー」
「五班は、こっち」
各班には、大学生のおにいさんかおねえさんが、インストラクターとしてついている。みんな、大声でメンバーを集めていた。
弘の班は、全部で七人。男の子が弘をいれて四人と、女の子が三人。
「はーい。ぼくの名前は林賢治。きみたち三班の、インストラクターをやります。よろしく」
まっ黒に日焼けして眼鏡をかけたおにいさんが、みんなを集めると元気よくあいさつした。
林さんにうながされて、みんなも自己紹介した。それぞれキャンプへの期待を、楽しそうに話している。
でも、弘は、ぼそぼそと名前をいっただけだった。
「それじゃあ、みんな、これを読んで」
林さんが、キャンプのスケジュール表を配ってくれた。
一日目は、テントの設営、かまど作り、野外料理に、かくし芸大会。
二日目は、カヌーこぎ、魚釣りに、キャンプファイヤー。
三日目は、マウンテンバイクとハイキング。
アウトドア活動のスケジュールが、びっしりと入っている。どれも、弘にとっては、やったことのないことばかりだった。
「じゃあ、ひろちゃん。がんばってね」
バスに乗った弘に、窓の下からおかあさんが声をかけた。なんだか、急に心配そうな顔をしている。不安でいっぱいの弘の気持ちが、伝染したのかもしれない。
そんな二人をよそに、まわりの子たちはもうはしゃぎ始めていた。座席にすわらずに歩きまわっている子たちもいる。
「いてっ」
いきなり何かがぶつかったので、弘は頭を押さえてうめいた。床に、黄色いフリスビーが落ちている。
「あっ、ごめん、ごめん」
同じ三班の勇太が笑いながらあやまると、すばやくフリスビーをひろいあげた。 どうやらうしろの席の子と、投げ合っていたらしい。バスが急に動きだしたので、手もとがくるったようだ。
(なんで、こんな野蛮な連中と一緒に、キャンプに行かなきゃいけないんだろう)
弘は、勇太をにらみつけながら、あらためてそう思った。
窓を開けて外を振り返ると、おかあさんの姿はもうすっかり小さくなっていた。
でも、こちらにむけて、まだけんめいに手を振っている。
弘も、おかあさんにむけて手を振り返した。そうすると、なんだかますますさびしくなってきたような気がした。
川の流れにそって、林の中に木の板を敷きつめた道ができている。
弘たちは二列にならんで、バスの駐車場からキャンプ場へ向かっていた。
三班は、先頭が林さんと六年の大地。次が、五年生の美登里と隆宏。そのあとが、四年生の美紀と勇太。最後が、四年の弘と六年の玲於奈だった。
林の中は、少しうすぐらかった。ところどころにある「マムシに注意!」の看板が、とても不気味だ。弘は、あたりをキョロキョロ見まわしながら、恐る恐る歩いていた。
やっとの思いで林を抜けると、木でできた大きな水車があった。
ゴトン、ゴトン、バシャーン。ゴトン、ゴトン、バシャーン。……。
力強いリズムをきざみながら、水車は勢いよく回っている。
「きゃあー、マムシよお」
いきなり、隣の玲於奈が悲鳴をあげた。木道のすぐそばを、1メートル以上もある大きなヘビが、すべるようにはっている。薄緑色の体をクネクネさせて、みんなを追い越していく。
弘は真っ青になって、その場に立ちすくんでしまった。足がブルブルとふるえて、力がぜんぜんはいらない。
「大丈夫、大丈夫。アオダイショウだよ。毒はないから」
いそいで戻ってきた林さんが、みんなを安心させるようにいった。
「捕まえようぜ」
勇太と隆宏が、木道を飛び降りて、ヘビを追いかけ始めた。
それでも、弘の足のふるえは、まだ止まらなかった。キャンプ場には、虫どころかヘビまでが、ウジャウジャいるのかもしれない。これからどんなことが起こるのか、弘の不安な気持ちは、いっそう高まっていた。
ピリピリピリピリ、……。
インストラクターたちのホイッスルを合図に、各班はいっせいに作業を開始した。
「テントをはったこと、あるかい?」
「もちろーん!」
林さんがたずねると、弘以外の男の子三人が、口をそろえて答えた。
「じゃあ、後でチェックに来るから」
林さんはそういうと、女の子たちのテントの方へむかっていった。
「よーし、始めようぜ」
大地はみんなに声をかけると、慣れた手つきでテントの包みを広げ始めた。
「四人用にしちゃ、このテント、狭いんじゃないかなあ」
テントのフレームを組み立てながら、勇太が文句をいっている。
「場所はこのへんがいいかな」
隆宏はテントをはる場所をきめながら、地面の小石を拾い上げている。
忙しく働いている三人の間で、何をしたらいいのかわからずに、弘はうろうろしていた。
「何か、手伝うことない?」
やっとの思いで、弘は三人にたずねた。
「えっ。うーん、適当に何かやれば」
勇太が、少し馬鹿にしたようにいった。
「……」
「そうだな。テントの方は三人でOKだから、まきを持ってきて、かまどに火をおこしておいてくれる」
リーダー格の大地がそういってくれたので、弘はホッとしてその場を離れた。
しばらくして、まきの束と古新聞を抱えて、弘が戻ってきた。
針金でたばねられたまきは、けっこう重かった。途中からフーフーいってしまい、何度も下におろして、休まなければならなかった。額からじわじわ出てきた汗が、目にしみてくる。夏の強い陽ざしが、真上からようしゃなく照りつけていた。あごから伝わった汗が、びっくりするほど黒い影の上に、ポタリポタリと落ちていった。
もうだめかと思ったとき、ようやくテントのそばにたどりついた。そこには、石を積み上げたかまどらしいものがあった。いつも使われているらしく、石も地面も黒く焼け焦げている。弘はそのそばに、ドサリと投げ出すように、まきと古新聞を置いた。
(うーんと、どうやって、火をおこせばいいんだろう)
どういうわけか、たよりの林さんの姿が見えない。大地たちも、テントの方で忙しくしている。
(えーい。なんとかなるだろう)
束から何本かまきを引き抜いて、かまどの真ん中におき、上に新聞紙をかぶせた。
マッチをする指が震える。弘は、今までに一度もマッチをすったことがなかった。
何本かむだにしたあとで、やっと火がついた。
(あつっ!)
指先がこげるような気がして、あわててマッチを落としてしまった。
でも、運よく新聞紙の上に落ちたので、すぐにメラメラと燃え出した。
(おっ。やったあ)
と、喜んだのもつかのま、火はまきへは燃え移らずにすぐに消えてしまった。
「おい、何やってんだよお」
うしろから、あきれたような大地の声が聞こえた。隆宏も勇太も、さもおかしそうにニヤニヤしている。
「だいたい、かまどを作らなきゃだめじゃないか。こんな崩した跡じゃなくって」
(えっ? これって、かまどじゃなかったの?)
驚いている弘に代わって、大地はすばやく石を積み上げ始めた。かまどを作っているのだろう。
「風はこっちからだな」
隆宏が、指をしゃぶって上に差し上げ、風向きを確かめている。
「本当に、誰かさんは三班のお荷物だなあ」
勇太に、馬鹿にしたようにいわれてしまった。
「もう火をおこしてるのお」
女の子たちも、テントをはり終わったらしく、かまどのそばにやってきた。
「ちょうど、よかった。玲於奈さんも手伝ってよ」
大地がそういうと、玲於奈は隣に並んで手伝い始めた。
「じゃあ。ぼくたちは、晩ご飯の材料を取りに行こうか」
隆宏も、同じ五年生の美登里を誘って、一緒に行ってしまった。
「ぼくたちも、水を汲みに行こうよ。」
勇太も、美紀を誘っている。
「弘くんも、一緒に行かない?」
そばでうろうろしている弘に、美紀が声をかけてくれた。こちらにむかって、にっこりほほえんでいる。
「いいよ、いいよ。二人で大丈夫だよ。それに、弘くんは、三班の大事なお荷物だし」
勇太にそういわれて、二人の方に行きかけた弘は、顔を赤くして立ち止まった。
「えっ、お荷物って?」
美紀は不思議そうな顔をしていたけれど、勇太に連れられて行ってしまった。
しかたなくかまどに戻ると、大地と玲於奈は、いかにも手慣れた感じで火をおこしている。
互いに立てかけたまきに、大地が火のついた新聞紙をくべた。玲於奈は、パタパタとうちわであおいで、空気を送り込んでいる。しばらく白い煙が出てから、うまくまきに燃え移って、赤い火がおこりはじめた。
その間、弘はかまどのまわりをうろうろするだけで、手伝うことを見つけられなかった。
「ちょっと、トイレに行ってきます」
弘は小さな声でそういうと、そっとその場を離れた。みじめな気持ちだった。
トイレは、キャンプ場の中ほどの広場のそばにあった。そこでは、今日はかくし芸大会を、二日目にはキャンプファイヤーをやることになっている。
そのあたりは、キャンプ場の中心地のようだった。まわりには、さっき弘が運んできたまきの置き場や売店、それに、コインシャワーなどもあった。
テントの近くと違って、大勢の人たちが行きかっている。「夏休みちびっ子キャンプツアー」の他の班の人たちも、それぞれの用事で来ていた。
でも、ぜんぜん知らないよそのキャンパーたちもいる。どうやら、このキャンプ場はかなり大きいようだ。
トイレに近づくにつれて、弘はだんだんいやな予感がしてきた。
なんだか、嫌な臭いがただよってきたのだ。
(やっぱり)
ドアを開けて、がっくりした。きれいに掃除されてはいたが、和式トイレ、それも汲み取り式なのだ。
こういうトイレにはいるのは、生まれて初めての経験だった。それに、なんだか、どこからかへびや虫が、出てきそうな気もする。
きついアンモニアの臭いに、涙をにじませながら、
(ああ、早く家へ帰りたい)
と、弘は思っていた。
あんなにギラギラしていた太陽も、今は山のかげにかくれている。キャンプ場の夕暮れは、あっけないほど早くやってきた。
晩ご飯は、おこげご飯と生煮えのじゃがいものカレーライス。
でも、おなかがすいていたせいか、意外においしかった。
といっても、苦手なにんじんとたまねぎは、全部気づかれないようにしてそっと捨ててしまっていたけれど。
後片付けをすませて、みんなはキャンプ場の中心にあるステージにむかっていた。
「だからさあ。三班はさあ。……」
前の方で、勇太や隆宏の話し声がする。どうやら、かくし芸大会の出し物を相談しているらしい。
途中の広場では、よその人たちがキャンプファイヤーをやっていた。井ゲタに積み重ねた太いまきから、真っ赤な炎と黒い煙が吹き出している。強い灯油の臭いが、弘の鼻をツーンとさせた。
「私たちは明日よね。初めてだから、楽しみにしてるんだあ。弘くんは、キャンプファイヤー、やったことある?」
隣を歩いていた美紀が、話しかけてくれた。
「ううん」
弘は首を振った。
「今日のご飯、焦がしちゃってごめんね。水加減、間違っちゃった」
美紀はそういって、ペロリと舌を出した。抜け替わりの歯の隙間が見えて、なんだかちっちゃな子みたいに見えた。美紀もアウトドア活動には慣れているらしく、飯ごうでのご飯炊きを担当していた。
「ううん」
弘は、また首を振った。
「……。そんな、あほな」
「しっつれいしましたあ」
ウワーッ!
二班がやったコントがうけて、かくし芸大会はすっかり盛り上がってきた。木造の高い天井に取りつけられたライトで、ステージは明るく照らされている。
一班の歌といい、今のコントといい、みんなはいろいろな芸を器用にこなしている。
(ところで、三班はどうするのだろう?)
さっき、勇太たちが相談していたけれど、弘は何をやるのかは聞かされていなかった。
「それでは、次は三班の出番です。大きな拍手をどうぞ」
司会役のインストラクターのおねえさんが、大きく手を広げていった。
「三班は、われらがスーパースター、吉岡弘くんがとっておきの芸をやります」
横に座っていた大地に、いきなりいわれてしまった。
(えっ!?)
「わーっ、いいぞお」
隆宏と勇太も大声で叫びながら、弘の両手を取って立ち上がらせた。どうやら、三人ともぐるになっているようだ。
もじもじしているうちに、弘はステージの上に引っぱりだされてしまった。客席のみんなの目が、じっとこちらにそそがれている。
「それでは、弘くん。かくし芸はなんですか?」
司会のインスラクターのおねえさんが、ニコニコしながらたずねた。
(かくし芸だなんて)
何をやったらいいか、ぜんぜん頭に浮かんでこない。歌は苦手だし、ましてコントや物まねなんてできっこない。
(絶体絶命だ)
そう思ったとき、おしりのポケットに、ハーモニカが入ったままなのを思い出した。取り出してみると、久しぶりのせいか、ずいぶん小さく感じられる。
「あっ、ハーモニカなの。なんだかなつかしいわね」
司会のおねえさんは、さっさと一人で決めている。弘は握り具合を確かめながら、ハーモニカをハンカチでていねいにふいた。
「弘、がんばれよお」
林さんの声がきこえた。
「がんばってー」
美紀の声もきこえる。
「……」
勇太や隆宏たちが、がっかりしたような表情をしているのも、チラリと見えた。そうすると、少しだけ愉快な気分になれた。
「それでは、三班は、弘くんのハーモニカの演奏です」
司会のおねえさんが、拍手をしながら紹介した。
パチパチパチ、……。
客席からも、盛大な拍手がおこる。
でも、こちらを見ているみんなの目を意識すると、めまいがしてきそうだ。弘はギュッと目を閉じると、ひとつ大きく息を吸い込んだ。
プァーパパ、プァーププ、プァーパパプー、……。
目をつぶったまま、いっきにハーモニカを吹き始めた。
「風に吹かれて」という曲だ。おとうさんに習った中で、一番好きな曲だ。アメリカの古いフォークソングだって、そのときおとうさんはいっていた。
弘はかたく目を閉じたまま、一所懸命ハーモニカを吹き続けた。初めはぎこちなかったけれど、吹いているうちにだんだん落ち着いてくる。手のひらをこきざみに開いたり閉じたりしながら、音をふるわせる余裕さえ出てきた。
初めはざわついていたみんなが、だんだん静かになってくる。
そーっと薄目を開けてみると、みんなはじっと弘のハーモニカに聴き入っていた。
でも、うっかりみんながこちらを見ているのに気がつくと、またくらくらしてきた。弘は、ふたたびしっかりと目をつぶった。
「きゃあーっ!」
「やだーっ!」
突然、客席から女の子たちの悲鳴がおこった。
思わず目を開けると、びっくりするほど大きな白い蛾が、客席の上を飛んでいる。それも1匹や2匹ではない。10匹以上もの巨大な蛾が、客席のあちこちに乱入してきたのだ。
蛾の動きに合わせて、女の子たちが逃げまどう。
ここぞとばかりに、いいところを見せようとして、蛾に立ちむかう男の子たち。
会場は大騒ぎになってしまった。
ポトッ。
そのとき、弘の肩に、天井から何かが落ちてきた。
(枯れ枝かな)
と、思った。
でも、その10センチ以上はある「ムシ」は、長い足をゆっくりと動かし始めた。
「ギエーッ!」
弘は悲鳴をあげると、けんめいにハーモニカで払い落として逃げ出した。
「あっ、ナナフシだ」
誰かが、うれしそうにいっているのが聞こえてきた。
消灯時間が過ぎても、隆宏と大地がおしゃべりしていて、弘はなかなか寝つけなかった。
「うちの班じゃ。やっぱり美登里が、いちばんかわいいんじゃないか」
「あんなのがきだよ。それより、7班に、亜矢って子がいるけど、なかなかいいんじゃない」
「そうそう」
さかんに、女の子たちのコンテストをやっている。
なんとなくそれを聞いていると、急に美紀の笑顔がうかんできた。ステージからの帰りも、弘は美紀と一緒だった。
「ハーモニカ、とっても良かったね。最後まできけなくって、残念だったけど」
隙間だらけの前歯を見せて、美紀は笑っていた。
「うん」
そのときも、弘はただうなずいただけだった。
「それに、男の子だからって、アウトドアが得意でなきゃいけないってことはないよ」
別れ際に、美紀はそういってはげましてくれた。
そんなことを考えていると、ますます眠れなくなってくる。それに、チャックを開けたままとはいえ、寝袋の中では狭くて寝返りもうてない。小石はすっかり取り除いたはずなのに、背中に何かがあたるような気もする。
でも、いつのまにか、弘は眠りに落ちていた。
ジリジリジリジリ、……。
いきなりすぐそばで大きな音がしたので、弘は眼をさましてしまった。
ジリジリジリジリ、……。
また、目覚ましのような大きな音がした。
「うわーっ」
弘はびっくりしてはねおきた。
すぐそばで、何か虫が鳴いている。どうやらテントの中のようだ。
外でつけたままになっているランタンの明かりで、テントの中もうすぼんやりとは見える。
弘は、キョロキョロとあたりを見まわした。
でも、虫の姿はどこにも見あたらない。隣の勇太も、隆宏と大地も、ぐっすり眠っているのか、起き出してこなかった。
寝袋からはい出て、あたりをひっくり返してみる。
でも、何も見つからない。
弘も、おそるおそるまた寝袋に入って、横になった。
ジリジリジリジリ、……。
虫は、またすぐに鳴きだした。
すぐそばに虫がいると思うと、弘はなかなか眠れなくなってしまった。
長く苦しい夜が、ようやく終わりに近づいた。あれから弘はときどきうとうとしただけで、とうとうぐっすりとは眠ることができなかった。やっと眠りかかったと思うと、また虫が鳴き出すのだ。
ジリジリジリジリ、……。
夜明けのうすあかりの中で、またまた虫が鳴き出した。ようやく慣れてきたのか、あまり怖くなくなってきている。
でも、すっかり目がさめてしまった。
弘は、もう一度虫を探してみることにした。
ジリジリジリジリ、……。
どうやら、隣で寝ている勇太の顔の近くで鳴いているようだ。
(よく平気で寝てられるなあ)
と、思って、しみじみと勇太の顔をながめた。
ジリジリジリジリ、……。
また鳴き出したとき、ようやく気がついた。
ジリジリ虫の正体は、「勇太の歯ぎしり」だったのだ。勇太は、気持ちよさそうな顔をして、歯ぎしりを続けている。
(くそーっ、おかげで、こっちはぐっすり眠ることができなかったじゃないか)
弘は、そばに脱ぎ捨ててあった勇太のパンツを、そっと顔にかぶせてやった。
とうとう弘は、眠るのをあきらめてテントを抜け出した。
川の方へぶらぶら歩いていくと、大きな石がごろごろしている。弘は、川のほとりにあったオムスビのような形の石に腰をおろした。
寝不足でぼんやりした頭が、朝のひんやりした空気でだんだんはっきりしてくる。起きたころには、あたりを取り巻いていた白いもやも、山の上の方に残っているだけだ。
弘は、川の流れる音がすごく大きいのにびっくりしていた。
昨日、みんなと一緒のときは、ぜんぜん気づかなかった。まわりに人がいないせいか、今はあたり一面に響き渡っている。
ペチャクチャ、ペチャクチャ、……。
まるで終わりのないおしゃべりをしているかのようにして、川は流れていた。弘は、一人で川のおしゃべりに耳をかたむけていた。
ガサガサ。
急に物音がして振り返ると、キャンプ場のごみすて場に、何か動物がきている。こげ茶色の背中が見える。
(のら犬かな)
と、思った瞬間、顔を上げた動物と目があって、弘はドキンとした。
(タヌキ!?)
丸々とした体、頭の上にチョコンとつき出た耳。黒くふちどりされた小さな目で、ゆだんなくこちらの様子をうかがっている。
弘は石から腰を浮かして、じっとタヌキを見ながら逃げられるように身構えた。
(かみつかれないかな)
と、思って、内心ビクビクだったのだ。
でも、タヌキは弘から目をはなすと、またゴミすて場の中に顔をつっこんだ。どうやら、夕べの残飯か何かを食べているらしい。
タヌキが危害を加えないことがわかると、弘もまたオムスビ石に腰をおろした。
川は相変わらず、ペチャクチャ、ガヤガヤと、騒々しく流れている。
いつのまにか、もやがすっかりはれて、頭の上には真っ青な空が広がっている。今日も暑くなりそうだ。
川のざわめきをききながら、弘はけんめいに何かを食べているタヌキをながめていた。すると、頭の中がだんだんシーンとして、爽快な気分になってくる。こんなことは、初めての経験だった。
(キャンプも、悪いことばっかりじゃないな)
弘は、そんなことをぼんやり考え始めていた。