現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ガース・ウィリアムズ「くろいうさぎとしろいうさぎ」

2024-12-22 16:25:16 | 作品論

 1958年に出版された絵本です。
 五十年前ごろは、結婚プレゼント(といっても安価な物ですから、結婚式や二次会に呼ばれない程度の軽い知り合いの場合です)の定番でした。
 日本語版は1965年が初版ですが、私の手元に今あるのは1990年1月20日の第74刷ですので、かなりのベストセラーです。
 結婚(特に若い世代の)というものを、このように象徴的に描いた作品は少ないかもしれません。
 出版から70年近くがたち、その間にジェンダー観や結婚観はずいぶん変わりましたが、好きな男の子や女の子と、「いつも いつも、いつまでも、きみといっしょに いられますように」という願いは、普遍性を持っていると思います。
 ただし、日本語訳では、くろいうさぎは男の子、しろいうさぎは女の子と決め打ちした言葉づかいなので、やや古さを感じさせるかもしれません。
 作者のガース・ウィリアムズは私の好きな画家の一人で、マージェリー・シャープのミスビアンカ・シリーズ(その記事を参照してください)の挿絵でも有名です。
 動物の生態と擬人化のバランスが絶妙で、ディズニーのアニメ絵本のような単純にかわいいだけの絵柄とは一線を画しています。

しろいうさぎとくろいうさぎ (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)
クリエーター情報なし
福音館書店
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神沢利子「くまの子ウーフ」

2024-12-12 13:04:27 | 作品論

 1969年6月に出版された幼年童話の古典です。
 私が読んだ本は1989年5月の87刷ですから、今ではゆうに100刷を超えていることでしょう。
 また、「ウーフ」はシリーズ化されていて、いろいろと形を変えて多数出版されています。
 他の記事で紹介したように、日本児童文学者協会では、1979年と1998年の二回、現代日本児童文学史上の重要な作品を100冊選んでいますが、その両方に選ばれている作品は35冊しかありません。
 この「くまの子ウーフ」はその中の一冊ですから、児童文学の世界では評価が定まっている作品といってもいいと思います。
 さらに2010年に出た「少年少女の名作案内 日本の文学 ファンタジー編」(その記事を参照してください)の50冊の中にも選ばれていますから、時代を超えた日本のファンタジーの定番と言ってもいいと思います。
 動物ファンタジーとしては擬人化度が高く、ウーフは両親と一緒にまるで人間のように暮らしています。
 しかし、毛皮とか、ハチミツ好きとか、クマならではの特性もうまく生かされています。
 対象読者と同じかやや幼く設定されているウーフが、9編(「さかなには なぜ したがない」、「ウーフは おしっこでできているか?」、「いざというときって、どんなとき?」、「キツツキの見つけた たから」、「ちょうちょだけに なぜ なくの」、「たからが ふえると いそがしい」、「おっことさないもの なんだ?」、「? ? ?」、「くま一ぴきぶんは ねずみ百ぴきぶんか」)からなるオムニバス風の作品に中で、いろいろな発見をする様子には、読者は感情移入して読んでいけるでしょう。
 でも、この本は単なるかわいいお話ではありません。
 それぞれの話の肝の所には、「生きるとは?」、「自分とは?」、「他者とは?」、「死とは?」といった、作者の深遠な人生哲学の問いかけがあって、大人の読者も思わずうならせられてしまう奥深い内容になっています。
 1998年発行の「児童文学の魅力 いま読む100冊―日本編」で、この本の作品論を書いている詩人の坂田寛夫によると、「北海道や樺太で育った神沢にとって、クマはいのちそのもの」とのことですから、それも当然のことかもしれません。
 児童文学研究者で作家の村中季衣は、「あいまい化される「成長」と「私」の問題」(日本児童文学1997年11-12月号所収、その記事を参照してください)という論文の中で、擬人化された物語の中に「私」が消えずにいる例として、「くまの子ウーフ」の中から「ちょうちょだけに なぜ なくの」をあげて説明しています。
 少し長いですが、この本の本質をよくとらえているので以下に引用します。
「青い羽から光が零れるような蝶にひかれて夢中で追いかけるウーフはあやまって蝶を潰してしまう。泣きながら蝶のお墓をつくったウーフに共感した友だちの(うさぎの)ミミがドロップをお供えする。
 そこへきつねのツネタが(註:作品中でリアリストとしてキャラクター設定されています)やってきて「へんなウーフ、さかなも肉もぱくぱくたべるくせして、は、ちょうちょだけどうしてかわいそうなの。おかしいや。」という。
 ウーフは答えることができずに「うー、うーっ。」という。
 作者は、何も語らない。手を出さない。ウーフたちの論理とその葛藤を、じっと見つめている。
<中略>
 神沢利子は大人である。そしてもちろんウーフではない。だからウーフにじっと寄り添ってみる。ウーフがどんな行動に出るのか、どこで悩むのか、じっと待つことができる。目を凝らすことができる。
<中略>
 「私」がいる物語とは、つまるところ、他者の生命の連続性を見守ることのできる物語なのかもしれない。そこには必ず発見があり、喜びがあり、ひとりずつの、これまで大人たちが啓蒙的に使ってきたのとは違う意味の「成長」があると私は信じる。」
 私もこの村中の意見に全く同感です。

くまの子ウーフ (くまの子ウーフの童話集)
クリエーター情報なし
ポプラ社
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大石真「教室205号」

2024-12-11 09:26:38 | 作品論

 現代児童文学のタブー(子どもの死、離婚、家出、性など)とされていたものを描いた先駆的な作品といわれています。
 1969年に出版されたのですが、その前に坪田譲治が主宰した同人誌の「びわの実学校」に連載されていたので、60年代半ばの子どもたちを描いた物と思われます。
 登場する子どもの死や家出以外にも、障害者、貧困、受験競争など、子どもたちを取り巻く様々な問題点を取り上げています。
 シリアスな題材なのに少しも暗くならずに力強く描いている点が、特に優れた点です。
 私の読んだ本は1992年で33刷ですから、読者にも長く支持されていたのだと思います。
 しかし、売れ筋作品最優先の現在の出版状況では、このような作品を出版することは困難でしょう。


教室二〇五号 (少年少女小説傑作選)
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実業之日本社
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小沢正「目をさませトラゴロウ」目をさませトラゴロウ所収

2024-12-10 09:27:43 | 作品論

 この短編集の表題作です。
 中編といってもいいぐらいの長さがあり、他の短編と違ってかなり風刺性が強く、幼い読者にはやや難しいかもしれません。
 トラゴロウ(実はサーカスのトラであるトラノスケ)を眠らせて、薬に使えるというトラの胆をとろうとする医者や猟師夫婦、さらにはサーカスの団長たちを相手に、トラゴロウをはじめとした森の動物たちとサーカスの動物たちが団結して戦います。
 悪い人間(大人)たちによって、檻(学校?)に入れられたり、搾取されたりしている動物(子ども)たちに、目をさまして戦おうと呼びかけ、最期は動物(子ども)たちの勝利に終わります。
 作者があとがきに述べているとおりに、作者の「ものの見かた・考えかた」が、この作品では特に色濃く表れています。
 その背景については、他の幾つかの記事に詳しく述べているのでここでは触れませんが、作中の「トラゴロウの目をさますうた」や「まちが かわる日のうた(他の記事に全文を引用しています)」の覚醒と連帯を求める痛切な響きは、現在の困難な状況(格差社会、貧困、差別、いじめ、ネグレクト、学校や親の過剰な管理、孤独など)にある子どもたちにとっても力になるものだと思います。
 作者があとがきに述べている「人間の成長とは、その人間のいまだ歳いたらぬ心の中に生れ出た、ものの見かた・考えかたの成長と発展にほかならない」という主張は、児童文学に携わるすべての人間が自覚していなければならないことですが、現在の商業主義に偏った出版状況の中では、「歳いたらぬ心の中に生れ出た、ものの見かた・考えかたの成長と発展」に資する作品のどんなに少ないかを嘆かなければなりません。

目をさませトラゴロウ (新・名作の愛蔵版)
クリエーター情報なし
理論社
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森忠明「少年時代の画集」少年時代の画集所収

2024-12-08 10:09:59 | 作品論

 ぼくのおばあちゃんは、ガンで病院に入院しています。
 おばあちゃんが入院する前、家を建て直すために物置小屋を片づけていたおとうさんが、古いスケッチブックを発見します。
 今から三十年以上前のぼくと同じ小学校五、六年生だったころのおとうさんが、クレヨンで描いた数々の絵が画集に載っています。
 そこには、若いころのおばあちゃんがざぶとんで作ったサンドバッグの前で、ボクシングのポーズをとるおとうさんを描いた絵もありました。
 おばあちゃんがなくなり、おばあちゃんの遺体は、そこで暮らすはずだったできたてほやほやの隠居部屋に安置されます。
 おばあちゃんがお骨になって帰ってきた後の親戚だけの会で、おとうさんは十三歳も年上の義理のおにいさんをめちゃくちゃになぐりつけます。
 おじさんが、死んだおばあちゃんが臭かったと、不用意に言ったからです。
 ざぶとんのサンドバッグを前に美しいファイティングポーズをとっていた少年が、おとなになってからは弱い者に馬のりになってでたらめなパンチをあびせています。
 その姿を見て以来、ぼくはおとうさんのにこやかな顔や優しい言葉が信じられなくなります。
 自由画の時間に、ぼくはおばあちゃんの死に顔を描きます。
 しかし、図工の先生に、「おばあちゃんの昼寝顔にのどぼとけがあるのはおかしい」と、指摘されてしまいます。
 実際には、おばあちゃんののどには、死ぬ直前に男の人ののどぼとけのようなとんがりが出てきたのです。
「先生の大事な人が遠くのどこかへ旅立つ日、先生はぼくの絵がうそではないことに気づいてくれるのだろう」と、ぼくは思いました。
 1985年12月12日に発行された「少年時代の画集」の表題作です。
 「少年時代の画集」は、多感な子どもの目に映る世界を様々なタッチで描いた短編集です。
 この表題作は、この本以外にもいろいろなアンソロジーにも収められている、森忠明の短編の代表作です。
 他の作品と同様に、作者の実体験に基づいた独特の視点で、病的までに鋭い少年の感受性と、それに伴う大人たちへの不信感が鮮やかに描かれています。
 ただ、この作品では、おとうさんや先生に対する批判の描き方が、主人公の少年そのものの見方というよりは、大人になった作者の視点も一緒に表れてしまっているようで気になりました。
 おそらく、子どもの時にそのようなことを感じたことは事実なのでしょう。
 でも、この作品では、描き方が少し大人目線が含まれてしまっているような感じがします。
 それは、「きみはサヨナラ族か」(その記事を参照してください)や「花をくわえてどこへゆく」(その記事を参照してください)の主人公たちが、実際に行動として大人世界への拒否感を表したのに対して、この作品ではたんに批判的な視線をおくるだけなので、どこかシニカルな印象を読者に与えてしまうためだと思います。
 森忠明の一連の作品は、このあたりから質的な変化を遂げていきます。
 

少年時代の画集 (児童文学創作シリーズ)
クリエーター情報なし
講談社
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森忠明「ふたりのバッハ」少年時代の画集所収

2024-12-07 09:21:20 | 作品論

 小学校の卒業アルバムに、森少年は六年三組のみんなとはべつの丸の中に写っています。
 しかも、お岩さんのように左のほっぺたにあざができています。
 顔面にデッドボールを受けて、学校を休んでいる間に記念撮影があり、森少年だけが自宅で撮影されたからです。
 しかし、デッドボール事件にもいいこともありました。
 保健室で、貧血で隣のベッド休んでいた同じクラスの水町玲子さんと知り合うことができたのです。
 もともと二人は、同じ「つくし」というあだ名がある関係でした。
 二人が休んでいる保健室には、バッハの美しい旋律が流れていました。
 男の子と女の子の淡い恋の想い出を、バッハの旋律、俳句、手紙といった、今の読者からすると本当に古風な小道具を使って描いています。
 森の大きな特長である子どものころの記憶の恐ろしく精密なディテールが、この作品でもいきています。
 「少年時代の画集」の記事で指摘したように、この短編集あたりから森作品はかなり変質してきています。
 現在を生きる子どもたちを描くよりも、過去の自分の少年時代を懐かしむ大人の森の視線がチラチラと現れ始めてきました。
 このノスタルジックな雰囲気は、その後の作品ではさらに顕著になっていきます。
 それにつれて、森作品は、現実に今を生きる子どもたちから離れていってしまったようです。
 

少年時代の画集 (児童文学創作シリーズ)
クリエーター情報なし
講談社
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斎藤隆介作/滝平二郎画「八郎」

2024-12-05 09:02:28 | 作品論

 

 

 1967年発行の創作絵本の古典です。
 農民のために海を静かにさせた伝説の山男の姿を通して、民衆のエネルギーや人のために成長する姿を描いたとして、「現代児童文学」の代表作のひとつとされています。
 方言をいかした斎藤の文章と力強い滝平の切り絵が作品の持つエネルギーを巧みに表現しています。

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千葉省三「とらちゃんの日記」講談社版少年少女世界文学全集

2024-11-25 08:25:48 | 作品論

 1925年(大正14年)9月に、自ら編集する「童話」に掲載した大正童心主義童話の代表作です。
 1929年(昭和4年)6月5日に古今書院から出版された作者の童話集「トテ馬車」に、巻頭作として収録されています。
 大正時代の農村(作者の故郷の栃木県だと思われます)を舞台に、夏休み中(八月の一ヶ月間のようです)のとらちゃん(小学六年生)の日記の形を借りて、当時の子どもたちの様子を生き生きと描いています。
 中編(単行本では62ページ)の限られた紙数の中で、村の子どもたちの楽しい遊びだけでなく、豊かな自然、農村の暮らし、子どもたちも担っている村の仕事、東京から病気疎開(肺病との噂がありましたが、その後とらちゃんたちと遊んでいるので、違うようです)してきたお金持ちの子どもとの交流、いじめや弱い者を守る正義感、プチ家出(トム・ソーヤーを想起させます)、さらには、貧困や死などの重いテーマまで、たくみに書き込んでいる筆力は、当時としては傑出しています。
 写生をベースにした豊かな散文、主人公を中心にした子どもたちの正確な心理描写、物語の中での主人公たち(それを追体験する子ども読者たちも)の成長。社会の変革の意志(ささやかですが)など、この作品の持つ多くの特長は、現代児童文学(定義などは関連する記事を参照してください)に引き継がれました。
 児童文学研究者の宮川健郎がまとめた現代児童文学の目指した「豊かな散文性」、「子どもへの関心」、「変革の意志」の三要点(関連する記事を参照してください)を兼ね備えた児童文学が大正期に書かれていたことは特筆すべきでしょう。
 いわゆる近代童話の「三種の神器」、小川未明、浜田廣介、坪田譲治を否定した石井桃子たちによる「子どもと文学」が、宮沢賢治、新見南吉と並んで、作者を肯定的に評価したのも当然のことだったでしょう(関連する記事を参照してください)。




 

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古田足日著・田端精一イラスト「おしいれのぼうけん」

2024-11-16 09:20:28 | 作品論

 日本の物語絵本のロングセラーです。
 初版は1974年で、私が読んだのは2001年の158刷です。
 見開きに描かれた保育園の全景に、「ここは さくらほいくえんです。さくらほいくえんには、こわいものが ふたつ あります。」という文章で、おはなしは始まります。
 次の見開きには、左に押入れの絵があって「ひとつは おしいれで、」の文章が書かれ、右には「もう ひとつは、ねずみばあさんです。」の文章とねずみばあさんの絵があります。
 ラストは、みんなが楽しく遊んでいる保育園の全景が描かれて、以下の文章が書かれています。
「さくらほいくえんには、とても たのしいものが ふたつあります。ひとつは おしいれで、もうひとつは ねずみばあさんです。」
 「こわいもの」から「とても たのしいもの」への変化が、読者が素直に実感できるところが、この絵本のもっともすぐれた点でしょう(もちろん、それが作者たちのねらいなのですが)。
 体罰として閉じ込められる真っ暗な押入れ。
 水野先生が演じる恐怖のねずみばあさん。
 それらが合体して、二人の男の子たちを冒険の世界へ誘います。
 暗闇という原初的な恐怖が生んだ意識と無意識の世界(「かいじゅうたちのいるところ」の記事を参照してください。)、現実と空想の境を超越して、二人の冒険の世界が広がります。
 男の子たちの友情、ねずみばあさんの恐怖、ネズミたちとの戦い、子どもたちの大好きなおもちゃの活躍、「子どもの論理」の「大人の論理(体罰など)」への完全勝利、楽しい思い出の反芻など、子ども読者の立場からはほぼ完ぺきな絵本だと思われます。
また、児童文学者の安藤美紀夫は、「日本語と「幼年童話」」(その記事を参照してください)という論文で、「物語絵本」の成立要件として、以下のように述べています。
「その時、まず考えられることは、長編の構想である。物語絵本は、そこに文字があろうとなかろうと、少なくとも二十場面前後の<絵になる場面>が必要なことはいうまでもない。そして、<絵になる場面>を二十近く、あるいはそれ以上用意できる物語といえば、いきおい、起承転結のはっきりした、ある種の山場を伴う物語にならざるを得ない。たとえそれが<行って帰る>といった一見単純な物語であっても、である。」
 この作品は、安藤の定義する「物語絵本」の成立要件を、完全に満たしています(もしかすると、安藤が1983年に論文を書いた時には、この作品が念頭にあったのかもしれません)。
 最後に、この作品の歴史的および現時点での価値とは無関係なのですが、「押入れに閉じ込める」という設定自体が体罰あるいは虐待と受け取られて、現在の保育園を舞台にした場合には成立しにくいかもしれません(もちろん、作者たちは体罰を明確に否定していますが)。
 古田足日先生は2014年にお亡くなりになりました。
 先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。

おしいれのぼうけん (絵本ぼくたちこどもだ 1)
クリエーター情報なし
童心社

 

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石井桃子「山のトムさん」

2024-11-12 11:37:32 | 作品論

 別の記事で紹介した「児童文学の魅力 いま読む100冊 日本編」に載っている作品で一番古いのは、編集委員たちの定義による現代日本児童文学の始まりである1959年より前の1957年10月に出た石井桃子の「山のトムさん」です。
 他の記事で書いたように、私は現代日本児童文学の出発は1953年だと主張しています。
 編集委員たちがなぜこの本を取り上げたのかは不明ですが、読んでみると私の1953年説を裏づけてくれる作品でした。
 この作品が書かれていたころは、すでに1955年から「子どもと文学」のための討議が開始されていたので、彼らが目指した新しい児童文学(現代日本児童文学と置き換えてもよいと思います)を意識して、創作がなされたことと思います。
 この作品は、作者が戦争直後の食糧難の時代に、東北の村で作者の言葉を借りると素人百姓をしていた時の経験に基づいて書かれています。
 ともすれば、苦労話になりそうな題材を、トムという名の猫を通して明るい筆致で描いています。
 トムは、100パーセント愛玩のために飼われていて家の中に閉じ込められている現代の猫たちとは、まったく違います。
 もともとネズミの被害に苦しんでいた作者たちの家族が、最後の頼みとしてもらってきた猫の子なのです。
 トムは家の中だけでなく、周囲の自然や時には少し離れた集落まで遠征して自由に暮らしています。
 作者の鋭い観察眼を通して、トムの生き生きした姿、そしてそれと関連して周囲に何とか溶け込んで暮らしていこうとしている東京から来た家族(トシちゃん、おかあさん、おかあさんの友だちのハナおばさん(たぶんこれが作者)、おばさんの甥のアキラさん)の様子が明るく描かれています。
 東北の山奥の開墾地で暮らしながら、英米児童文学に造詣の深い作者ならではのモダンな様子(トム・キャット(雄猫)という名前、クリスマスのプレゼント交換など)も随所に現れます。
「児童文学の魅力 いま読む100冊 日本編」で、作家の中川李枝子はこの作品について、
「食べることが容易でなく、日本中が飢えていた戦後のこの混乱期、おばさんたちのような女・子どもだけの寄り合い所帯で、しかも全くの素人百姓が、開墾したり、牛や山羊を飼ったり、田植をしたり、薪あつめをしたりの肉体労働を、万事、村のお百姓と対等にやっていくというのは、並大抵ではなかったはずだ。が、おばさんもお母さんも弱音を吐かず、ユーモアを失わず、助け合ってやっていく。そして山の家の人たちは自然の美しさに目を見張り、感嘆し、いろいろな楽しみを発見する。トムは、その人たちの生活の中心におさまったのだった。」
と、書いていますが、私もまったく同感です。
 この作品は1959年よりも前に書かれていますが、それまでに書かれていた生活童話などとは明らかに一線を画した「現代日本児童文学」です。
 平明で読みやすい豊かな「散文性を獲得」し、戦後の混乱期を生きるために労働する「子どもたちの様子を捉えながらもユーモアを忘れずに描いて子どもの読者も獲得」し、苦しくとも明るさを失わずに新しい時代を拓いていこうという「変革の意志」を備えています。
 上記の文で「」で囲った点は、児童文学研究者の宮川健郎によってまとめられた「現代児童文学」の特徴です。
 もう70年近くも前に書かれた作品ですが、今でも古びずに読み継がれるだけの普遍的な価値を持っています。

 

山のトムさん (福音館創作童話シリーズ)
クリエーター情報なし
福音館書店

 

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モーリス・センダック「かいじゅうたちのいるところ」

2024-11-03 07:24:59 | 作品論

 映画にもなった世界中で読まれている人気絵本です。
 1963年に出版されましたが、日本に紹介されたのは1975年です。
 私の読んだのは1998年4月28日69刷ですから、日本でもロングセラーになっています。
 主人公の少年マックスが家で大あばれして、おかあさんに怒られて部屋に閉じ込められてから、彼の不思議な大冒険が始まります。
 マックスが怪獣の王さまになるストーリー自体はそれほど波乱に富んだものではありませんが、センダックの描く怪獣たちの絵が迫力があり、画面構成の変化にも非常に工夫を凝らしてあって、主人公と読者の、意識と無意識の領域の変化を巧みに表していて、最後までページごとの主人公および読者の意識と無意識の変化を楽しめるつくりになっています。
 児童文学研究者の本田和子は、「境界にたって その3 「自己」の文学 ―― 無意識と意識のはざまに生まれるもの」(「子どもの館」18号所収、その記事を参照してください)という論文の中で、「この物語は、一人の少年の無意識への退行と、新たな統合を成就した上での意識への回帰を、あまりにも典型的に描き出していて説明の要もなく思えるほどである。」と評しています。
 この論文は1974年11月に発表されたもので、日本版が出る前なのでこの本の日本語の題名が違っていますが、すでに海外では評判になっていたようです。
 長文になるので細かい解説は引用しませんが、本田の心理学に基づいたこの絵本の解析は見事ですので、興味のある方は是非雑誌を図書館で取り寄せて読んでみてください。
 ご存知のように、この本は世界中で2000万部以上も売れたベストセラーになりました。
 本田が指摘しているように、意識と無意識が大人より不分明である子どもたちにとっては、両方の世界を象徴的に描いたこの本はすんなり受け入れられる作品なのでしょう。

かいじゅうたちのいるところ
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冨山房
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斎藤栄美「ふたりの秘密」

2024-10-26 16:14:42 | 作品論

主人公の小学生の女の子は、同じマンションに引っ越してきた女の子が、同じクラスになることをきっかけに友だちになります。

しかし、その女の子には秘密があって、なかなかそれを打ち明けてくれません。

主人公の女の子は、その子の気持ちに寄り添って接していきます。

そして、とうとうその子は秘密を明かしてくれます。

それ以来、二人は秘密を共有することによって、ますます仲良くなっていきます。

二人の女の子の気持ちを丁寧に描いていくことによって、人の気持ちを思いやることの大切さを教えてくれます。

 

 

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中川李枝子「いやいやえん」

2024-10-23 08:44:46 | 作品論

 1962年に出版された幼年童話の古典です。
 私の読んだ本は1998年で93刷ですから、今ではゆうに100刷を超えているであろうロングセラーです。
 以下の七つの短編からできています。
「ちゅーりっぷほいくえん」約束が七十もあって、主人公のしげるはいつも約束を守らないので、物置に入れられてしまいます。
「くじらとり」積み木で作った船で海にのりだして、くじらを連れて帰ります。
「ちこちゃん」しげるは、なんでもちこちゃんのまねをしてしまい、大変な目にあいます。
「やまのこぐちゃん」山から来た小熊が保育園に入り、みんなと仲良くします。
「おおかみ」保育園をさぼったしげるは、野原でオオカミに会いますが、あまりに汚かったので食べられずに済みました。
「山のぼり」約束を守らずに果物を食べすぎたしげるは、鬼の「くいしんぼう」と友だちになりました。
「いやいやえん」しげるは、ちゅーりっぷほいくえんの代わりに、なんでもいやだと言えばやらなくて済む「いやいやえん」へ行きます。
 この作品の一番の成功は、作り物でない生身の幼児であるしげるを創造したことでしょう。
 また、大人よりも意識と無意識が不分明な幼児の特質を生かして、現実と空想の世界が入り混じった魅力ある作品世界を作り出しています。
 ただし、この作品のおもしろさは、しげるが幼児らしく約束を守らなかったりいたずらをするところなのですが、どの短編でも作者は教育的なおちをつけてしまっています。
 この本を使って、保育者や親などの大人たちは、幼児たちのしつけをしようとするかもしれません。
 しかし、子どもたちが喜んでいるのはそういった教訓的なところではなく、しげるのいたずらやわがままに素直に共感しているのでしょう。
 おそらくそれは作者たちの意図を超えたところであり、そのためにベストセラーになったのであればやや皮肉な感じもします。
 ただ、作品に出てくる体罰(物置に閉じ込めたり、無理やり女の子の服を着させます)は今の時代にそぐわないので、そろそろ賞味期限が来ているのかもしれません。

いやいやえん―童話 (福音館創作童話シリーズ)
クリエーター情報なし
福音館書店
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安藤美紀夫「でんでんむしの競馬」でんでんむしの競馬所収

2024-10-21 09:16:54 | 作品論

 梅雨で雨が降り続くと、露地の子どもたちは遊びに行けません。
 誰も、雨傘を持っていないからです。
 雨傘は、働きに行ったり、買い物に行ったりする大人の分しかありません。
 それでも、子どもたちには、梅雨時ならではの楽しみもあります。
 雨漏りで腐った畳には、キノコが生えます。
 みんなでキノコを眺めに行って、そこの母親にどやされたりします。
 露地の隅に生えているヤツデの木には、カタツムリがきます。
 想像の中で巨大になったカタツムリにまたがって、子どもたちは表通りで買い食いする夢を見ます。
 この短編の主人公の六年生の男の子は、露地ではめずらしく成績が良く、両親は彼が海軍士官学校か陸軍士官学校へ行って出世して(当時は、貧しい家の子たちには、それぐらいしか出世する方法がありませんでした)、自分たちを露地から抜け出させてくれることを夢見ています。
 本人は、表通りの料理屋の息子が通う海軍士官学校にあこがれています。
 進学のために倹約しているので、主人公はお小遣いをぜんぜんもらえません。
 そのため、メンコやビー玉は、他の子のを借りたり、落ちているのを拾ったりして遊んでいるので、どけちだと嫌われています。
 そこで、主人公は一計を案じます。
 露地の子どもたちで彼だけが遊びに行くことを許されている、表通りの料理屋の庭で、露地のヤツデに来るのとは比べ物にならない大きなカタツムリを手に入れます。
 それを五匹並べて「でんでんむしの競馬」をして、露地の子どもたちにメンコやビー玉を賭けさせたのです。
 とうぜん、胴元の主人公の一人勝ちで、みんなのメンコやビー玉を巻き上げます。
 しかし、そんなあこぎな商売は長続きしません。
 先生にチクられて母親を呼び出された彼は、すべてのメンコやビー玉を失ったばかりでなく、もし内申書に書かれたら海軍士官学校の夢もパーになってしまうのです。
 この作品でも、現実と空想が交錯しています。
 その中で、露地の子どもたちの(いや大人たちも)夢は、一貫して露地(貧困)から抜け出すことです。
 これは、いつまでも終わらないアジア太平洋戦争(十五年戦争とも呼ばれています)の戦時中の閉塞した世の中の比喩でもあり、この作品が書かれた70年代初頭(70年安保闘争の敗北により革新勢力が停滞し、世の中には無力感が漂っていました)ころの閉塞感をも表していたように思えます。
 格差が拡大している現代においても、この作品における登場人物たち(そして作者)の願いは、共通していると思います。

でんでんむしの競馬 (1980年) (講談社文庫)
クリエーター情報なし
講談社
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ようかいばちゃんと子ようかいすみれちゃん

2024-10-17 08:54:07 | 作品論

山の中で一人で暮らす91歳のようかいばあちゃん(不思議なことを起こすので主人公はそう呼んでいます)とひ孫のすみれちゃんとの触れ合いを描いたシリーズの六作目です。

今回も、すみれちゃんは、おとうさんの車でようかいばあちゃんの家に来て一晩だけお泊りします(おとうさんはすみれちゃんをおろすとすぐに帰ってしまい、翌日迎えに来ます)。

今回は不思議なことを起こすようかいばあちゃんに、すみれちゃんが弟子入りします。

そして、ようかいばあちゃんに代わって、八十八歳のおあささんに米寿のお祝いの習字をするための道具を届けるのです。

その途中で、すみれちゃんはピンチに陥りますが、ようかいばあちゃん譲りの不思議な力を発揮して切り抜けます。

そして、帰りに子どもの頃のようかいばあちゃんに出会うのでした。

今回も、現代では関係が薄れてきている、老人と子どもの触れ合いを鮮やかに描いています。

 

 

 

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