冒頭、第一次インドシナ戦争のシーンで始まります。
戦闘機のパイロットだったピエールは、恐怖の表情を浮かべたベトナムの少女らしい子どもの姿を目にしたとたんに撃墜されてしまいます。
この事故により記憶を失った30才のピエールは、病院で知り合った看護婦のマドレーヌと暮らしています。
ピエールは、数少ない理解者の芸術家のカルロスの仕事を手伝ってわずかな小遣いをもらっていますが、生活面でも経済面でもマドレーヌの庇護下で暮らしています。
そういう点では、マドレーヌはこの映画では母性を象徴しているかもしれません。
ある夜、ピエールは、父親に修道院の寄宿舎に預けられる形で置き去りにされた12才の少女と遭遇します。
日曜日、寄宿舎に出かけたピエールは、面会に来た父親と間違えられてしまいます。
それから、日曜ごとのピエールと少女の交流が続きます。
ふたりがいつも散歩する湖の景色が、白黒のスクリーンに本当に美しく描かれています。
特に、少女が湖に小石を投げて波紋が広がる中にふたりの姿が映り、少女が「これが私たちのおうちよ」というところは、ため息が出るほど美しいシーンです。
少女は修道院ではフランソワーズと呼ばれていますが、それは彼女のギリシアの女神から取った名前がキリスト教的でないというので変えられたのだと、彼女はピエールに言います。
そして、教会の屋根の風見鶏を取ってくれたら、本当の名を教えてあげるとピエールに告げます。
ところが、ピエールは記憶を失ったときの後遺症か、高いところにあがるとめまいに襲われてしまうのでした。
二人の日曜日ごとの交流は、子ども同士のようにほほえましいシーンの連続です。
ピエールは、事故のショックで記憶を失うだけでなく、子ども以上に純真な心の持ち主になっています。
そのため、二人の会話は、いつも少女の方がリードして進められます。
「私がお母さんのかわりになってあげる。」
「私が12であなたが30、13で31」と、数えていって「私が18になったら、あなたはまだ36だから結婚しましょう……」
といった会話も交わしますが、二人の交流は子どもたちによる純真なものです。
あとで二人の交流を知って不安を訴えるマドレーヌに、芸術家のカルロスだけはピエールに理解を示します。
戦争で過去を失った男と、家族に捨てられた少女の、孤独な者同士の魂のふれあいという関係は、なかなかまわりからは理解されません。
クリスマスの夜を、二人は一緒に過ごすことになります。
カルロスの家からツリーを持ち出したピエールと、寄宿舎を抜け出した少女の、二人だけのささやかで暖かいクリスマスの晩をすごします。
いたずらっぽくほほえんだ少女がピエールに渡したマッチ箱。
その中の紙切れに、一言「Cybele」と書かれています。
初めてピエールに明かした名前シベール。
これが、少女の心からのクリスマスプレゼントでした。
ピエールは、「あとで僕もプレゼントをあげるよ。」と秘密めかした笑顔で答えます。
そのころ、不安に駆られたマドレーヌが同僚の医者に相談したことで修道院に連絡がとんて゛大騒ぎになり、警察が少女の行方の捜索を開始していました。
カルロスが「なんて軽はずみなことを……」といったのも後の祭りでした。
以前の約束を覚えていたピエールは、少女が眠っている間にナイフを片手に教会の屋根によじ登って、風見鶏を取り外します。
その時、突然ピエールは、今まで自分を悩ませていためまいなどの発作が治っていることに気がつきます。
シベールとの交流で、ついにピエールが戦争で負った心の傷(ベトナムの少女を殺してしまったと思いこんでいます)が癒えたのです。
そして、ナイフと風見鶏を手に、シベールの所へ戻りかけたとき、警官にピエールは発見され、少女に害意を持って近づく変質者と思われて射殺されてしまいます。
警官が無線で報告している声が聞こえてきます。
「危ないところでした。もう少しでナイフで少女を……」
マドレーヌやカルロスたちが、現場に駆けつけたときは全てが終わった後でした。
警官たちに起こされて「君の名前は?」と聞かれたシベールが、あたりの状況を見て、「もう、私には名前なんかないの。誰でもなくなったの!」と泣きながら叫ぶラストシーンが印象的です。
そして、終始静かだった映画で最後のシベールの叫びに、いきなりかぶさってくる音楽が「miserere nobis」(我らを哀れみたまえ)なのでした。
この映画は、1962年のアカデミー外国語賞をはじめとして、数々の賞を受賞しています。
私が今は無きぴあ(当時は100円でした)を片手に、毎日のように都内各地の名画座や自主上映会で内外の名画を見てまわっていた1970年代には、「シベールの日曜日」は雑誌で人気投票すると必ず上位に入る(たしかぴあでは1位になったこともあります)ほどの有名な映画でした。
当時はビデオ・レンタルもなく(だいたい家庭用ビデオレコーダーもありませんでした)、映画を見るためには自分でその場所へ行くしかなかったのです。
その代わりに、フィルムセンターや名画座や自主上映会で、少なくとも都内に住んでいれば毎日どこかで名画を見られたので、商業主義全盛の今よりもむしろ環境は良かったかもしれません。
話は脱線しますが、小劇場の演劇も今みたいに商業主義化していなくて、やはりぴあの情報をもとに毎週のように千円以下の低料金で見にいってていました。
当時は、つかこうへい劇団と野田秀樹の夢の遊眠社(会場は東大の駒場キャンパスが多かったです)が全盛期でした
話を映画に戻しますと、「シベールの日曜日」は2010年にDVDが出ているのですが、どこの宅配レンタルDVD会社も在庫を持っていません。
名画を見る唯一の頼みの綱だったシネフィル・イマジカも、とうとう商業主義に屈して、2012年3月1日に名画専門チャンネルの看板を下ろして、イマジカBSという平凡な娯楽映画チャンネルになってしまいました。
「これはDVDをアマゾンで買うしかない」と思いかかっていたのですが、「第3回午前十時の映画祭」で「シベールの日曜日」を上映することが分かって、立川まで見に行くことにしていました。
ところが、日曜日の朝刊を何気なく見ていたら、スターチャンネルの欄に「シベールの日曜日」の文字がありました。
「第3回午前十時の映画祭」とのタイアップで、なんとその日の午前十時に放映されるのです。
あわてて契約の手続きをして何とか時間までにスターチャンネルが映るようになり、「シベールの日曜日」を録画することができました。
37年ぶりに見た「シベールの日曜日」は、少しも古びることなく二十歳ごろに見たときと変わらない感動を私に与えてくれました。
当時は、冒頭のインドシナ戦争(アメリカでなくフランスとの間でおきました)でベトナムの少女を殺したと思いこんだことから始まっていることで、一種の反戦映画ともいわれていました(当時は日本だけでなく世界的に反ベトナム戦争運動が盛んでしたから、そういった映画もたくさんありました)。
また、キリスト教の閉鎖性に対する批判という解釈もありました(修道院では、シベールがギリシアの女神の名前だという理由で、彼女は別の名前をつけられてしまいます。ラストシーンで、教会の風見鶏をピエールが盗みます。クリスマスの日に、ピエールは殺されてシベールは永遠に名前を失います。ラストシーンで、教会音楽の一節 「我らを哀れみたまえ」が流れます)。
しかし、一番素直な解釈は、シベールとピエールという二つの孤独な魂が邂逅する物語だとする見方でしょう。
その過程で、ベトナムの少女を殺したと思いこんでいたピエールの心の傷が、シベールという自分と同じように孤独な少女と触れ合うことによって癒され、ピエールが自己を回復していきます
しかし、マドレーヌや同僚たちに象徴される世俗の人たちには、シベールやピエールという疎外されている人たちの心情を正しく理解することができません。
ラストのピエールの死とそれによりシベールが永遠に名前を失う結末は、シベールのイノセンス(純真で無垢)な魂がやはりイノセンスなピエールの魂は救済したものの、世俗的な現実には受け入れられなかったことを象徴しています。
イノセンスな魂による別の魂の救済というと、1956年に同じくアカデミー外国語賞をとったフェデリコ・フェリーニの「道」で、ジュリエッタ・マシーナが演じた知的障碍者の女性ジェルミソーナのイノセンスな魂が、アンソニー・クイン演じる凶暴な大男ザンパノの魂を救済したラストシーンを思い浮かべます。
また、このイノセンスな魂による人や社会の救済というのは、映画だけでなく文学、特に児童文学にとって(狭義の現代児童文学だけでなく、近代童話や現在の作品も含めて)重要なテーマの一つだと考えています(ようやくこのブログの主題につながりました)。
私は、イノセンスな魂と、いわゆる童心主義が同じものだと考えていませんし、イノセンスな魂というのは子どもだけに宿るものだとも思っていません。
ただ、イノセンスな魂は、抑圧される側(大人より子ども、健常者より障害者、マジョリティよりマイノリティ)に宿りやすいとは信じています(あるいは、信じたいと思っています)。
最後に余談になりますが、この映画の人気は、シベールを演じたパトリシア・ゴッジのちょっとおませでキュートな女の子の魅力に負うところも多いと思われます。
そして、ピエールは、成熟した女性の魅力にあふれる同棲相手のマドレーヌでなく、まだ未成熟な少女のシベールを選択します。
そのため、近年では「シベールの日曜日」とロリータ・コンプレックスを関連付けて語られることもありますが、実際に映画を見ていただければそんな単純な映画ではないことがよくわかります。