現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

大野裕「はじめての認知療法」

2024-12-09 08:52:19 | 参考文献

 うつや不安などに有効な治療法(薬物療法と同等またはそれ以上に有効で、薬物療法との併用も可能)である認知療法(最近使われているこの言い方は認知症の治療法だと勘違いされるので、本来の「認知行動療法」を使う方が好ましいと思われます)を、この分野の日本における第一人者である筆者が、やさしく解説しています。
 認知療法が何かから始まって、活動記録表、問題リスト、問題解決技法、注意転換法、腹式呼吸、漸進的筋弛緩法、アサーション、コラム法、スキーマなどの、有効なツールや概念が紹介されています。
 特に、コラム法と問題解決技法は、患者だけでなく一般の人にも有効なツールなので、身に着けると確実に生活の質を改善できます。
 これらを身に着けるには、同じ筆者の「こころが晴れるノート うつと不安の認知療法自習帳」(その記事を参照してください)の方が使い易いでしょう。
 ただし、問題解決技法とコラム法を結びつけるために、「こころが晴れるノート うつと不安の認知療法自習帳」(2003年発行)の「七つのコラム」に対して、「はじめての認知療法」(2011年発行)の「コラム法」は、八番目のコラム(「残された課題」)が追加されていて、改善されています。

はじめての認知療法 (講談社現代新書)
クリエーター情報なし
講談社



こころが晴れるノート―うつと不安の認知療法自習帳
クリエーター情報なし
創元社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森忠明「少年時代の画集」少年時代の画集所収

2024-12-08 10:09:59 | 作品論

 ぼくのおばあちゃんは、ガンで病院に入院しています。
 おばあちゃんが入院する前、家を建て直すために物置小屋を片づけていたおとうさんが、古いスケッチブックを発見します。
 今から三十年以上前のぼくと同じ小学校五、六年生だったころのおとうさんが、クレヨンで描いた数々の絵が画集に載っています。
 そこには、若いころのおばあちゃんがざぶとんで作ったサンドバッグの前で、ボクシングのポーズをとるおとうさんを描いた絵もありました。
 おばあちゃんがなくなり、おばあちゃんの遺体は、そこで暮らすはずだったできたてほやほやの隠居部屋に安置されます。
 おばあちゃんがお骨になって帰ってきた後の親戚だけの会で、おとうさんは十三歳も年上の義理のおにいさんをめちゃくちゃになぐりつけます。
 おじさんが、死んだおばあちゃんが臭かったと、不用意に言ったからです。
 ざぶとんのサンドバッグを前に美しいファイティングポーズをとっていた少年が、おとなになってからは弱い者に馬のりになってでたらめなパンチをあびせています。
 その姿を見て以来、ぼくはおとうさんのにこやかな顔や優しい言葉が信じられなくなります。
 自由画の時間に、ぼくはおばあちゃんの死に顔を描きます。
 しかし、図工の先生に、「おばあちゃんの昼寝顔にのどぼとけがあるのはおかしい」と、指摘されてしまいます。
 実際には、おばあちゃんののどには、死ぬ直前に男の人ののどぼとけのようなとんがりが出てきたのです。
「先生の大事な人が遠くのどこかへ旅立つ日、先生はぼくの絵がうそではないことに気づいてくれるのだろう」と、ぼくは思いました。
 1985年12月12日に発行された「少年時代の画集」の表題作です。
 「少年時代の画集」は、多感な子どもの目に映る世界を様々なタッチで描いた短編集です。
 この表題作は、この本以外にもいろいろなアンソロジーにも収められている、森忠明の短編の代表作です。
 他の作品と同様に、作者の実体験に基づいた独特の視点で、病的までに鋭い少年の感受性と、それに伴う大人たちへの不信感が鮮やかに描かれています。
 ただ、この作品では、おとうさんや先生に対する批判の描き方が、主人公の少年そのものの見方というよりは、大人になった作者の視点も一緒に表れてしまっているようで気になりました。
 おそらく、子どもの時にそのようなことを感じたことは事実なのでしょう。
 でも、この作品では、描き方が少し大人目線が含まれてしまっているような感じがします。
 それは、「きみはサヨナラ族か」(その記事を参照してください)や「花をくわえてどこへゆく」(その記事を参照してください)の主人公たちが、実際に行動として大人世界への拒否感を表したのに対して、この作品ではたんに批判的な視線をおくるだけなので、どこかシニカルな印象を読者に与えてしまうためだと思います。
 森忠明の一連の作品は、このあたりから質的な変化を遂げていきます。
 

少年時代の画集 (児童文学創作シリーズ)
クリエーター情報なし
講談社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森忠明「ふたりのバッハ」少年時代の画集所収

2024-12-07 09:21:20 | 作品論

 小学校の卒業アルバムに、森少年は六年三組のみんなとはべつの丸の中に写っています。
 しかも、お岩さんのように左のほっぺたにあざができています。
 顔面にデッドボールを受けて、学校を休んでいる間に記念撮影があり、森少年だけが自宅で撮影されたからです。
 しかし、デッドボール事件にもいいこともありました。
 保健室で、貧血で隣のベッド休んでいた同じクラスの水町玲子さんと知り合うことができたのです。
 もともと二人は、同じ「つくし」というあだ名がある関係でした。
 二人が休んでいる保健室には、バッハの美しい旋律が流れていました。
 男の子と女の子の淡い恋の想い出を、バッハの旋律、俳句、手紙といった、今の読者からすると本当に古風な小道具を使って描いています。
 森の大きな特長である子どものころの記憶の恐ろしく精密なディテールが、この作品でもいきています。
 「少年時代の画集」の記事で指摘したように、この短編集あたりから森作品はかなり変質してきています。
 現在を生きる子どもたちを描くよりも、過去の自分の少年時代を懐かしむ大人の森の視線がチラチラと現れ始めてきました。
 このノスタルジックな雰囲気は、その後の作品ではさらに顕著になっていきます。
 それにつれて、森作品は、現実に今を生きる子どもたちから離れていってしまったようです。
 

少年時代の画集 (児童文学創作シリーズ)
クリエーター情報なし
講談社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斎藤隆介作/滝平二郎画「八郎」

2024-12-05 09:02:28 | 作品論

 

 

 1967年発行の創作絵本の古典です。
 農民のために海を静かにさせた伝説の山男の姿を通して、民衆のエネルギーや人のために成長する姿を描いたとして、「現代児童文学」の代表作のひとつとされています。
 方言をいかした斎藤の文章と力強い滝平の切り絵が作品の持つエネルギーを巧みに表現しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モスラ対ゴジラ

2024-12-04 09:10:36 | 映画

 1964年に作られた東宝の怪獣映画です。
 2014年は、1954年の作られた「ゴジラ」の60周年ということで、盛んに古い怪獣映画がテレビでも上映されました。
 この映画は、ゴジラシリーズでは第4作目で、先行して1961年に作られた「モスラ」と対決することになります。
 これは、第3作の「キングコング対ゴジラ」が好評だったのですが、キングコングはアメリカ産の怪獣だったので、東宝の自前の人気怪獣であるモスラと戦わせることにしたのでしょう。
 「ゴジラ」「ラドン」「モスラ」などの怪獣が単独で登場する初期の映画では、「核実験反対」「公害問題」「先住民問題」などの社会批判が作品に込められていましたが、対決シリーズになってからは、「人類の敵」ゴジラ対「人類の味方」モスラといった単純な構図になってしまい、娯楽色がさらに強くなりました。
 それでも、この映画のころまでは、ラストシーンなどに「より良い社会を作っていかなければならない」などの理想主義的なセリフがスローガンのように付け加えられていましたが、やがてそれもすっかりなくなりました。
 「現代児童文学」も同様ですが、当初は「社会の変革」などの意志を持って出発したどんなジャンルも、次第に商業主義に負けて娯楽色を前面に出していき、ついには陳腐なものに成り下がるようです。

モスラ対ゴジラ【60周年記念版】 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
東宝
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シベールの日曜日

2024-12-02 18:36:29 | 映画

 冒頭、第一次インドシナ戦争のシーンで始まります。
 戦闘機のパイロットだったピエールは、恐怖の表情を浮かべたベトナムの少女らしい子どもの姿を目にしたとたんに撃墜されてしまいます。
 この事故により記憶を失った30才のピエールは、病院で知り合った看護婦のマドレーヌと暮らしています。
 ピエールは、数少ない理解者の芸術家のカルロスの仕事を手伝ってわずかな小遣いをもらっていますが、生活面でも経済面でもマドレーヌの庇護下で暮らしています。
 そういう点では、マドレーヌはこの映画では母性を象徴しているかもしれません。
 ある夜、ピエールは、父親に修道院の寄宿舎に預けられる形で置き去りにされた12才の少女と遭遇します。
 日曜日、寄宿舎に出かけたピエールは、面会に来た父親と間違えられてしまいます。
 それから、日曜ごとのピエールと少女の交流が続きます。
 ふたりがいつも散歩する湖の景色が、白黒のスクリーンに本当に美しく描かれています。
 特に、少女が湖に小石を投げて波紋が広がる中にふたりの姿が映り、少女が「これが私たちのおうちよ」というところは、ため息が出るほど美しいシーンです。
 少女は修道院ではフランソワーズと呼ばれていますが、それは彼女のギリシアの女神から取った名前がキリスト教的でないというので変えられたのだと、彼女はピエールに言います。
 そして、教会の屋根の風見鶏を取ってくれたら、本当の名を教えてあげるとピエールに告げます。
 ところが、ピエールは記憶を失ったときの後遺症か、高いところにあがるとめまいに襲われてしまうのでした。
 二人の日曜日ごとの交流は、子ども同士のようにほほえましいシーンの連続です。
 ピエールは、事故のショックで記憶を失うだけでなく、子ども以上に純真な心の持ち主になっています。
 そのため、二人の会話は、いつも少女の方がリードして進められます。
「私がお母さんのかわりになってあげる。」
「私が12であなたが30、13で31」と、数えていって「私が18になったら、あなたはまだ36だから結婚しましょう……」
といった会話も交わしますが、二人の交流は子どもたちによる純真なものです。
 あとで二人の交流を知って不安を訴えるマドレーヌに、芸術家のカルロスだけはピエールに理解を示します。
 戦争で過去を失った男と、家族に捨てられた少女の、孤独な者同士の魂のふれあいという関係は、なかなかまわりからは理解されません。
 クリスマスの夜を、二人は一緒に過ごすことになります。
 カルロスの家からツリーを持ち出したピエールと、寄宿舎を抜け出した少女の、二人だけのささやかで暖かいクリスマスの晩をすごします。
 いたずらっぽくほほえんだ少女がピエールに渡したマッチ箱。
 その中の紙切れに、一言「Cybele」と書かれています。
 初めてピエールに明かした名前シベール。
 これが、少女の心からのクリスマスプレゼントでした。
 ピエールは、「あとで僕もプレゼントをあげるよ。」と秘密めかした笑顔で答えます。
 そのころ、不安に駆られたマドレーヌが同僚の医者に相談したことで修道院に連絡がとんて゛大騒ぎになり、警察が少女の行方の捜索を開始していました。
 カルロスが「なんて軽はずみなことを……」といったのも後の祭りでした。
 以前の約束を覚えていたピエールは、少女が眠っている間にナイフを片手に教会の屋根によじ登って、風見鶏を取り外します。
 その時、突然ピエールは、今まで自分を悩ませていためまいなどの発作が治っていることに気がつきます。
 シベールとの交流で、ついにピエールが戦争で負った心の傷(ベトナムの少女を殺してしまったと思いこんでいます)が癒えたのです。
 そして、ナイフと風見鶏を手に、シベールの所へ戻りかけたとき、警官にピエールは発見され、少女に害意を持って近づく変質者と思われて射殺されてしまいます。
 警官が無線で報告している声が聞こえてきます。
「危ないところでした。もう少しでナイフで少女を……」
 マドレーヌやカルロスたちが、現場に駆けつけたときは全てが終わった後でした。
 警官たちに起こされて「君の名前は?」と聞かれたシベールが、あたりの状況を見て、「もう、私には名前なんかないの。誰でもなくなったの!」と泣きながら叫ぶラストシーンが印象的です。
 そして、終始静かだった映画で最後のシベールの叫びに、いきなりかぶさってくる音楽が「miserere nobis」(我らを哀れみたまえ)なのでした。
 この映画は、1962年のアカデミー外国語賞をはじめとして、数々の賞を受賞しています。
 私が今は無きぴあ(当時は100円でした)を片手に、毎日のように都内各地の名画座や自主上映会で内外の名画を見てまわっていた1970年代には、「シベールの日曜日」は雑誌で人気投票すると必ず上位に入る(たしかぴあでは1位になったこともあります)ほどの有名な映画でした。
 当時はビデオ・レンタルもなく(だいたい家庭用ビデオレコーダーもありませんでした)、映画を見るためには自分でその場所へ行くしかなかったのです。
 その代わりに、フィルムセンターや名画座や自主上映会で、少なくとも都内に住んでいれば毎日どこかで名画を見られたので、商業主義全盛の今よりもむしろ環境は良かったかもしれません。
 話は脱線しますが、小劇場の演劇も今みたいに商業主義化していなくて、やはりぴあの情報をもとに毎週のように千円以下の低料金で見にいってていました。
 当時は、つかこうへい劇団と野田秀樹の夢の遊眠社(会場は東大の駒場キャンパスが多かったです)が全盛期でした
 話を映画に戻しますと、「シベールの日曜日」は2010年にDVDが出ているのですが、どこの宅配レンタルDVD会社も在庫を持っていません。
 名画を見る唯一の頼みの綱だったシネフィル・イマジカも、とうとう商業主義に屈して、2012年3月1日に名画専門チャンネルの看板を下ろして、イマジカBSという平凡な娯楽映画チャンネルになってしまいました。
「これはDVDをアマゾンで買うしかない」と思いかかっていたのですが、「第3回午前十時の映画祭」で「シベールの日曜日」を上映することが分かって、立川まで見に行くことにしていました。
 ところが、日曜日の朝刊を何気なく見ていたら、スターチャンネルの欄に「シベールの日曜日」の文字がありました。
 「第3回午前十時の映画祭」とのタイアップで、なんとその日の午前十時に放映されるのです。
 あわてて契約の手続きをして何とか時間までにスターチャンネルが映るようになり、「シベールの日曜日」を録画することができました。
 37年ぶりに見た「シベールの日曜日」は、少しも古びることなく二十歳ごろに見たときと変わらない感動を私に与えてくれました。
 当時は、冒頭のインドシナ戦争(アメリカでなくフランスとの間でおきました)でベトナムの少女を殺したと思いこんだことから始まっていることで、一種の反戦映画ともいわれていました(当時は日本だけでなく世界的に反ベトナム戦争運動が盛んでしたから、そういった映画もたくさんありました)。
 また、キリスト教の閉鎖性に対する批判という解釈もありました(修道院では、シベールがギリシアの女神の名前だという理由で、彼女は別の名前をつけられてしまいます。ラストシーンで、教会の風見鶏をピエールが盗みます。クリスマスの日に、ピエールは殺されてシベールは永遠に名前を失います。ラストシーンで、教会音楽の一節 「我らを哀れみたまえ」が流れます)。
 しかし、一番素直な解釈は、シベールとピエールという二つの孤独な魂が邂逅する物語だとする見方でしょう。
 その過程で、ベトナムの少女を殺したと思いこんでいたピエールの心の傷が、シベールという自分と同じように孤独な少女と触れ合うことによって癒され、ピエールが自己を回復していきます
 しかし、マドレーヌや同僚たちに象徴される世俗の人たちには、シベールやピエールという疎外されている人たちの心情を正しく理解することができません。
 ラストのピエールの死とそれによりシベールが永遠に名前を失う結末は、シベールのイノセンス(純真で無垢)な魂がやはりイノセンスなピエールの魂は救済したものの、世俗的な現実には受け入れられなかったことを象徴しています。
 イノセンスな魂による別の魂の救済というと、1956年に同じくアカデミー外国語賞をとったフェデリコ・フェリーニの「道」で、ジュリエッタ・マシーナが演じた知的障碍者の女性ジェルミソーナのイノセンスな魂が、アンソニー・クイン演じる凶暴な大男ザンパノの魂を救済したラストシーンを思い浮かべます。
 また、このイノセンスな魂による人や社会の救済というのは、映画だけでなく文学、特に児童文学にとって(狭義の現代児童文学だけでなく、近代童話や現在の作品も含めて)重要なテーマの一つだと考えています(ようやくこのブログの主題につながりました)。
 私は、イノセンスな魂と、いわゆる童心主義が同じものだと考えていませんし、イノセンスな魂というのは子どもだけに宿るものだとも思っていません。
 ただ、イノセンスな魂は、抑圧される側(大人より子ども、健常者より障害者、マジョリティよりマイノリティ)に宿りやすいとは信じています(あるいは、信じたいと思っています)。
 最後に余談になりますが、この映画の人気は、シベールを演じたパトリシア・ゴッジのちょっとおませでキュートな女の子の魅力に負うところも多いと思われます。
 そして、ピエールは、成熟した女性の魅力にあふれる同棲相手のマドレーヌでなく、まだ未成熟な少女のシベールを選択します。
 そのため、近年では「シベールの日曜日」とロリータ・コンプレックスを関連付けて語られることもありますが、実際に映画を見ていただければそんな単純な映画ではないことがよくわかります。
 

シベールの日曜日 HDニューマスター版 [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮沢清六「兄、宮沢賢治の生涯」角川文庫版「注文の多い料理店」解説

2024-12-01 13:06:49 | 参考文献

 賢治の六歳年下の弟による評伝です。
 肉親が書いたにもかかわらず、感傷的にならずに淡々と賢治の誕生から臨終までを描いています。
 賢治の生涯については様々な形で書かれていますが、近親者でしか知ることのできないエピソードも描かれていて興味深い内容です。
 文中にも書かれているように、著者は生前からの賢治の理解者であり協力者(賢治の原稿を「婦人画報」に持ち込んだのも筆者です)であり、死後は賢治の膨大な原稿の散逸を防ぐとともに、様々な全集などの編纂にも関わりました。
 生前はほとんど無名であった賢治が、死後日本の児童文学者の中でも最も著名な作家になったのは、賢治作品自身の魅力はもちろんですが、筆者の献身的な努力も大きく貢献したと思われます。
 他の記事にも書きましたが、1974年3月14日に、友人たち(早稲田大学児童文学研究会宮沢賢治分科会のメンバー)と賢治の生家で著者にお話をうかがう機会を得ました。
 大勢で押しかけた若い学生たち(当時の賢治研究の第一人者であった続橋達雄先生の紹介はありましたが)にも、丁寧に対応してくださり、賢治の想い出話を語っていただいた帰りには、この復刻版の「注文の多い料理店」(角川文庫)を記念にいただきました。

兄のトランク (ちくま文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする