ぼちぼち春めいてきましたが、海は釣れない時期だし、山にはまだ雪が残っています。
それよりも自分にはどうも先日の「唯脳論」が頭から離れません。
「唯脳論」では、視覚系言語と聴覚系言語、そして触角系言語の3つがあるということでした。聴覚系言語はフランス語に代表され、触角系言語はヘレン・ケラーに代表される…。
一方で私たちが普段使っているのは視覚系言語。現代社会は視覚系言語にどっぷりと漬かっているというわけです。
「聞く」という行為は相手が発話するという行為がなくては成立しません。こっちで勝手に「聞こう」と思っても相手が口を開いてくれないと無理なのですね。一方の「見る」の方は相手にその気がなくても見えてしまうわけで、そこに受動と能動という一方的な関係が現れます。そして「見る―見られる」という構図があるから主体と客体という図式が生まれます。
一方で光の働きとして中間がない。つまり対象の輪郭が明瞭になるという作用があります。これによって主体と客体との分離はよりいっそう強められることになります。
見せたくないのに見られてしまう視覚系言語と、話さなければ聞かれることのない聴覚系言語。ここに重大な違いがあると思います。
ところで、「恥ずかしい」という情動はおそらく霊長類にしかない情動だと思うのですが、これは自分が一方的な「見られる人」になりたくないということなのでしょう。なぜなら「見る―見られる」という関係が対等なものであれば「恥ずかしい」という気分は決して湧いてこないですから。そして光の作用である主体と客体の分離。「一方的に見られる」ということは、自分が他の人たちとは別な、独立した存在であるということを自覚させられる瞬間でもあります。
都会生活者がおしゃれや化粧に熱心なのは、そうした独立感を満喫したいと思う一方、他人の視線を過度に気にするからかもしれません。他人の視線を気にするということは、過去に、見られたくなかったのに見られてしまったという体験があって、きっとそれが尾を引いているのでしょう。
これはちょうど知恵の木の果実を食べたアダムとイブが“前”を葉っぱで隠したという話とぴったり一致します。後でアダムとイブが、神様が現れたとき「隠れ」ようとしたことも、そのことを象徴的に表していると思います。
テレビの影響なのか分かりませんが、最近は観光でも料理でも街の作りにしても、きらびやかで恰好のいい、視覚に訴えるような仕掛けや演出ばっかりで、印象に残るキャッチコピーだとか「わびさび」、そういったものはとんと見かけなくなってしまったように思います。「どうしたら最も反響が得られるか」ということをトコトンまで突き詰めた結果がそうなっているわけですが、まあ、その一番最たるものがオリンピックだと思いますね。
最近はこれでいいのかどうかの判断を最終的に他人に委ねてしまう人が増えていますが、これだって、あまりにも視覚系言語に依存し過ぎていることから来ているのではないでしょうか。誰かが「ウン」と言ってくれないとなぜか落ち着かないというニューロンが、すっかり脳の中に構築されてしまっているわけです。なんというか、気が付いてみるといつの間にか娯楽というものが全面的に視覚依存に陥ってしまっている。ですから現代人は必然的に「観る」ことに喜びを見出さなくてはならなくなるわけで、いつもいつも「何かいいものはないか」と探し回るわけです。つまり能動的に生きようという意欲や期待が、視覚入力に依存したものにならざるを得ないだろうと思われるのです。
そういう状態が進行していくと、どうしても他人の表情だとか服装、あるいはおちゃらけ、そういったものに過度な期待をかけるようになっていきます。話しかけて期待したリアクションが戻ってこないと、嫌われてしまったんじゃないかとか、何か気に障ることを言ってしまったんじゃないかというふうに考えます。あるいは自分の芸にますます磨きをかけるとか?
まあ、昔は考えられなかった幼児虐待なんかも、たぶんこうした視覚依存の悪影響だと思いますね。
「唯脳論」が言う「脳化社会」というのをもう少し露骨に表現すると、きっとこういうことになるんじゃないかと。
人間の頭は、動物が進化の過程で獲得した諸々のシステムの寄せ集めなわけですから、いくら絵や風景を見てきれいだなあと思っても全てが満たされるわけではない。むしろ逆の発想で、視覚系言語コテコテで固まった頭をほぐす意味でも、いったん視覚系の愉しみを全部シャットアウトしてしまって、視覚に結びついた欲望をリセットする必要があるんじゃないでしょうか。それにはやっぱり釣りですね。釣りは目の断食ですよ。
というわけで、ぼちぼちサツキ鱒狙いの道具を準備しとかないとね…。
それよりも自分にはどうも先日の「唯脳論」が頭から離れません。
「唯脳論」では、視覚系言語と聴覚系言語、そして触角系言語の3つがあるということでした。聴覚系言語はフランス語に代表され、触角系言語はヘレン・ケラーに代表される…。
一方で私たちが普段使っているのは視覚系言語。現代社会は視覚系言語にどっぷりと漬かっているというわけです。
「聞く」という行為は相手が発話するという行為がなくては成立しません。こっちで勝手に「聞こう」と思っても相手が口を開いてくれないと無理なのですね。一方の「見る」の方は相手にその気がなくても見えてしまうわけで、そこに受動と能動という一方的な関係が現れます。そして「見る―見られる」という構図があるから主体と客体という図式が生まれます。
一方で光の働きとして中間がない。つまり対象の輪郭が明瞭になるという作用があります。これによって主体と客体との分離はよりいっそう強められることになります。
見せたくないのに見られてしまう視覚系言語と、話さなければ聞かれることのない聴覚系言語。ここに重大な違いがあると思います。
ところで、「恥ずかしい」という情動はおそらく霊長類にしかない情動だと思うのですが、これは自分が一方的な「見られる人」になりたくないということなのでしょう。なぜなら「見る―見られる」という関係が対等なものであれば「恥ずかしい」という気分は決して湧いてこないですから。そして光の作用である主体と客体の分離。「一方的に見られる」ということは、自分が他の人たちとは別な、独立した存在であるということを自覚させられる瞬間でもあります。
都会生活者がおしゃれや化粧に熱心なのは、そうした独立感を満喫したいと思う一方、他人の視線を過度に気にするからかもしれません。他人の視線を気にするということは、過去に、見られたくなかったのに見られてしまったという体験があって、きっとそれが尾を引いているのでしょう。
これはちょうど知恵の木の果実を食べたアダムとイブが“前”を葉っぱで隠したという話とぴったり一致します。後でアダムとイブが、神様が現れたとき「隠れ」ようとしたことも、そのことを象徴的に表していると思います。
テレビの影響なのか分かりませんが、最近は観光でも料理でも街の作りにしても、きらびやかで恰好のいい、視覚に訴えるような仕掛けや演出ばっかりで、印象に残るキャッチコピーだとか「わびさび」、そういったものはとんと見かけなくなってしまったように思います。「どうしたら最も反響が得られるか」ということをトコトンまで突き詰めた結果がそうなっているわけですが、まあ、その一番最たるものがオリンピックだと思いますね。
最近はこれでいいのかどうかの判断を最終的に他人に委ねてしまう人が増えていますが、これだって、あまりにも視覚系言語に依存し過ぎていることから来ているのではないでしょうか。誰かが「ウン」と言ってくれないとなぜか落ち着かないというニューロンが、すっかり脳の中に構築されてしまっているわけです。なんというか、気が付いてみるといつの間にか娯楽というものが全面的に視覚依存に陥ってしまっている。ですから現代人は必然的に「観る」ことに喜びを見出さなくてはならなくなるわけで、いつもいつも「何かいいものはないか」と探し回るわけです。つまり能動的に生きようという意欲や期待が、視覚入力に依存したものにならざるを得ないだろうと思われるのです。
そういう状態が進行していくと、どうしても他人の表情だとか服装、あるいはおちゃらけ、そういったものに過度な期待をかけるようになっていきます。話しかけて期待したリアクションが戻ってこないと、嫌われてしまったんじゃないかとか、何か気に障ることを言ってしまったんじゃないかというふうに考えます。あるいは自分の芸にますます磨きをかけるとか?
まあ、昔は考えられなかった幼児虐待なんかも、たぶんこうした視覚依存の悪影響だと思いますね。
「唯脳論」が言う「脳化社会」というのをもう少し露骨に表現すると、きっとこういうことになるんじゃないかと。
人間の頭は、動物が進化の過程で獲得した諸々のシステムの寄せ集めなわけですから、いくら絵や風景を見てきれいだなあと思っても全てが満たされるわけではない。むしろ逆の発想で、視覚系言語コテコテで固まった頭をほぐす意味でも、いったん視覚系の愉しみを全部シャットアウトしてしまって、視覚に結びついた欲望をリセットする必要があるんじゃないでしょうか。それにはやっぱり釣りですね。釣りは目の断食ですよ。
というわけで、ぼちぼちサツキ鱒狙いの道具を準備しとかないとね…。