世の中は発展し進歩していますけど、どうも知識人、インテリというのは自然や動物を観察することが圧倒的に足りないのではないかと思いますねえ。シミュレーションゲームじゃあるまいし何でもかんでも単純なパラメーターで制御しようとしているように見えます(一方で科学無用論というか「自然科学なんてない方がいい」みたいな人もいますけどね)。
近頃では婚姻数や出生数が減っていて、どうやって子供を増やそうかなどとよく言われますけれども、これってものすごく「脳化社会」だなあと思います。
「脳化社会」、つまり社会が脳化していくという現象は、あからさまに言えば、視覚系言語の働きがますます突出してきているということになるでしょう。
ところで普段、「反対意見もないことだし、いいんじゃない?」というせりふをよく耳にします。
「反論がないから正しい」というのは世間一般では広く浸透した考え方ですが、数学や論理学の世界では(これはものすごく予想外のことなのですが)それ自体無矛盾な命題を用いて論理を構築しようとすると、どんなに頑張っても完全な論理を作ることができないということが分かっていて、「反論がないから正しい」などと簡単にそういうことは言えないという結論となっています(不完全性定理など)。
チャールズ・ダーウィンの「種の起源」が刊行されたのが1859年で、以降、「強い者が生き残る」ということが盛んに言われるようになったわけですけれども、これは当時の人々(商人)が自由市場や事業の盛衰を目の当たりにし、「淘汰」の働きを意識し始めたという事情なのでしょう。市場という仕組みは、より不完全な物が滅んでいき、より完成されたものが生き残っていくわけで、あたかもふるいのような作用をするわけです。
1859年といえば、マルクスの「経済学批判」(「共産党宣言」は1848年)。よく考えてみるとこの時代に新たに登場してきた歴史観、つまり「正しくなければ修正される。時代にそぐわなくなれば自然に修正される」という見方は、これはそのまま世の中の移り変わりを進化論的に捉えたものだということが言えるんじゃないかなと思います。
これらは、
このような当時としては画期的な、新しい認識を代弁したものだったことでしょう。
ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」(1807年)に見られるように、弁証法という時は、「する―する」の相互的な関係ではなく、「する―される」という一方的な関係を考察しています(正反対のものに着目するので)。「する―する」という相互的な関係性においては、そもそも弁証法というものは表れないわけであり、必然的に「する―される」という一方的な関係のみに注目することを要請してしまうわけです。
したがってもし、そこ(だけ)に社会発展の動因が見出されるとすると、「する―される」という関係性だけが重要であり、「する―する」の関係性は無意味であるとする見方が成り立つと思われます。
これはすなわち「おれは相互的な関係を目にしても何も感じない。一方的な関係を目にするときある種の活力が漲ってくる。もっともっと一方的な関係を見出してわくわくするぞ」という感覚が人々の間にできていて、それがインテリ達の言葉によってさらに強められたと考えられます。
そしてそれは相互性と一方性の両面が現れている事柄であっても、「相互的な側面を捨て、一方的な側面だけに目を向ける」傾向を強めます。それがこのような一方性=弁証法的矛盾に目を向ける、興味を抱くということです。それは自ずと「する側」もしくは「される側」のどちらか一方に共感することで見る者にある種の高揚感を引き起こさせることになります。それが太古の「あはれ」ではない「新しい時代の感情」なのであり、この時代が到来しなくては体験することができなかった「個」としての人間的な感動と言っていいかもしれません。
もちろんこのような新しい感動形態は、どちらか一方に感情移入しなければ体験できないのですが、その感動から離れなければ決して見ることのできない違った側面もまたあったのではないかということです。そしてそれこそが「主人と奴隷の弁証法」の教訓なのではないでしょうか?
しかし残念なことにその当時起きてしまったことは「何が起きているのか、それは結局どうでもいいことなのだ。重要なのは自分がどちらに味方するのかということなのである」という気分を人々の間に植え付けてしまったことです。このときから人々の一大関心事は自然ではなくて人間と集団に代わりました。
また、この時代に人々の抑圧が強まったということも、やはり社会の脳化現象が進んだことの別な側面であり、同じ根から出ているとも言えるのではないでしょうか。目の前に苦しんでいる人がいても何も感じなくなった、つまり視覚系言語が強まることにより、「自分は自分だ」「お前はお前だ」という気分が芽生えたと考えられるわけです。さらに一方で目や耳を通して、特定の他人の経験をあたかも自分が体験しているかのように感じる感受性も磨かれ、発達したことでしょう。つまり自分の好きな方を自由に選べるようになったわけです。
ですが、そのようにして「どちらに味方するのがいいのか」を問題にしている間、冷静に考えることができず、そのことに捕らわれ続けるわけです。
先ほどの主人と奴隷で例えますと、奴隷を叱りつけた主人がその後で満足げな表情を見せるのはなぜでしょう? 奴隷は、それは主人が自分の力を誇示できたからだと考えます。けれども、神経科学の側面からは、もうちょっと違った見方ができると思います。
人間は話し相手がいなくなると先の先のさらに先のことまで考えます。人間というのは退屈を持て余すと頭を使わざるを得ない生き物なわけです。頭を使えないときは代わりに目を使います。肉体をアクティブに動かしていないとき、これらの神経(脳)を働かせていないと駄目なのです(ドーパミン)。そこが人間が他の動物と異なるところです。
哺乳類というのは不思議なもので、頭上や背後から「聞こゆる」音には警戒し、自分の正面から「聞く」音には興味を示します。ですから親しい人とはface to faceで向き合うわけです。都会生活者はだんだんと自然との関わり合いが薄れ、こうしたことも次第に忘れていったものと思われます。
人と人が互いに向き合うとき、二人とも同じ声が耳に入ります。一方で目から入ってくる像は一人の見る像と、もう一人が見る像とは明らかに異なります。ですから聴覚系言語は誰でも同じ像を形作り、視覚系言語は一人一人それぞれ異なった像を形作るということになるわけです。
このことは必然的に自分は違うということを意識化することになります。また相手に共感するためには、相手の視点に立ってイメージするという、さらに別な脳の働きが必要になります。このうち片方の働きを意識化し、もう片方の働きを意識外へ追いやることによって、一体何が起きるでしょうか? そして何ができるでしょうか?
他人を見る、観察するということは辛辣なまでに一方的な関係です。「ついつい他人をじろじろ見てしまう」「他人の行動が気になる」というのは、まさしく「退屈した脳」を表しているのであり、そうした習慣が続けばいずれトラブルになるということはむしろ自然なことでしょう。
こうした場合勃発する「注意をする」「叱りつける」という行動は必ずしも理知的な判断に基づくものではなく、むしろ純粋に生理的な欲求から起こって来るものであり、必然的に相手が「いま注意されたら精神的ダメージを受けるであろう」タイミングで発作的に出るものです。これは動物行動学的に優位の個体が劣位の個体に対してとる行動と重なります。
そうすると弱い立場の人間からすれば必然的に「偉い人の機嫌を取る」ということが生じてくるわけであり、次第に「うやうやしくする」という習慣へと発展していくのではないでしょうか。
個々の出来事や体験そのものよりも、むしろこうした歴史的な人間の感受性の転換の方が、もっともっと強烈な一大事件だと思うのですが…。
マルクスやその時代の学者達は抑圧される民衆達を見て胸を痛め、いまの経済学の土台を築き上げたわけですが、動物の基本的な行動を踏まえずに、いきなり市場や個人の購買行動、企業の盛衰をモデルに経済を説明する力学を構築しようとしたことは、実は悲劇の始まりだったんじゃないかと思います。
近頃では婚姻数や出生数が減っていて、どうやって子供を増やそうかなどとよく言われますけれども、これってものすごく「脳化社会」だなあと思います。
「脳化社会」、つまり社会が脳化していくという現象は、あからさまに言えば、視覚系言語の働きがますます突出してきているということになるでしょう。
ところで普段、「反対意見もないことだし、いいんじゃない?」というせりふをよく耳にします。
「反論がないから正しい」というのは世間一般では広く浸透した考え方ですが、数学や論理学の世界では(これはものすごく予想外のことなのですが)それ自体無矛盾な命題を用いて論理を構築しようとすると、どんなに頑張っても完全な論理を作ることができないということが分かっていて、「反論がないから正しい」などと簡単にそういうことは言えないという結論となっています(不完全性定理など)。
チャールズ・ダーウィンの「種の起源」が刊行されたのが1859年で、以降、「強い者が生き残る」ということが盛んに言われるようになったわけですけれども、これは当時の人々(商人)が自由市場や事業の盛衰を目の当たりにし、「淘汰」の働きを意識し始めたという事情なのでしょう。市場という仕組みは、より不完全な物が滅んでいき、より完成されたものが生き残っていくわけで、あたかもふるいのような作用をするわけです。
1859年といえば、マルクスの「経済学批判」(「共産党宣言」は1848年)。よく考えてみるとこの時代に新たに登場してきた歴史観、つまり「正しくなければ修正される。時代にそぐわなくなれば自然に修正される」という見方は、これはそのまま世の中の移り変わりを進化論的に捉えたものだということが言えるんじゃないかなと思います。
これらは、
「正しくなければ修正される」→「正しいものが残る」→「淘汰されないということは淘汰されない理由、つまり正当性を持つはずだ」→「だからこれでいいのだ」
このような当時としては画期的な、新しい認識を代弁したものだったことでしょう。
ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」(1807年)に見られるように、弁証法という時は、「する―する」の相互的な関係ではなく、「する―される」という一方的な関係を考察しています(正反対のものに着目するので)。「する―する」という相互的な関係性においては、そもそも弁証法というものは表れないわけであり、必然的に「する―される」という一方的な関係のみに注目することを要請してしまうわけです。
したがってもし、そこ(だけ)に社会発展の動因が見出されるとすると、「する―される」という関係性だけが重要であり、「する―する」の関係性は無意味であるとする見方が成り立つと思われます。
これはすなわち「おれは相互的な関係を目にしても何も感じない。一方的な関係を目にするときある種の活力が漲ってくる。もっともっと一方的な関係を見出してわくわくするぞ」という感覚が人々の間にできていて、それがインテリ達の言葉によってさらに強められたと考えられます。
そしてそれは相互性と一方性の両面が現れている事柄であっても、「相互的な側面を捨て、一方的な側面だけに目を向ける」傾向を強めます。それがこのような一方性=弁証法的矛盾に目を向ける、興味を抱くということです。それは自ずと「する側」もしくは「される側」のどちらか一方に共感することで見る者にある種の高揚感を引き起こさせることになります。それが太古の「あはれ」ではない「新しい時代の感情」なのであり、この時代が到来しなくては体験することができなかった「個」としての人間的な感動と言っていいかもしれません。
もちろんこのような新しい感動形態は、どちらか一方に感情移入しなければ体験できないのですが、その感動から離れなければ決して見ることのできない違った側面もまたあったのではないかということです。そしてそれこそが「主人と奴隷の弁証法」の教訓なのではないでしょうか?
しかし残念なことにその当時起きてしまったことは「何が起きているのか、それは結局どうでもいいことなのだ。重要なのは自分がどちらに味方するのかということなのである」という気分を人々の間に植え付けてしまったことです。このときから人々の一大関心事は自然ではなくて人間と集団に代わりました。
また、この時代に人々の抑圧が強まったということも、やはり社会の脳化現象が進んだことの別な側面であり、同じ根から出ているとも言えるのではないでしょうか。目の前に苦しんでいる人がいても何も感じなくなった、つまり視覚系言語が強まることにより、「自分は自分だ」「お前はお前だ」という気分が芽生えたと考えられるわけです。さらに一方で目や耳を通して、特定の他人の経験をあたかも自分が体験しているかのように感じる感受性も磨かれ、発達したことでしょう。つまり自分の好きな方を自由に選べるようになったわけです。
ですが、そのようにして「どちらに味方するのがいいのか」を問題にしている間、冷静に考えることができず、そのことに捕らわれ続けるわけです。
先ほどの主人と奴隷で例えますと、奴隷を叱りつけた主人がその後で満足げな表情を見せるのはなぜでしょう? 奴隷は、それは主人が自分の力を誇示できたからだと考えます。けれども、神経科学の側面からは、もうちょっと違った見方ができると思います。
人間は話し相手がいなくなると先の先のさらに先のことまで考えます。人間というのは退屈を持て余すと頭を使わざるを得ない生き物なわけです。頭を使えないときは代わりに目を使います。肉体をアクティブに動かしていないとき、これらの神経(脳)を働かせていないと駄目なのです(ドーパミン)。そこが人間が他の動物と異なるところです。
哺乳類というのは不思議なもので、頭上や背後から「聞こゆる」音には警戒し、自分の正面から「聞く」音には興味を示します。ですから親しい人とはface to faceで向き合うわけです。都会生活者はだんだんと自然との関わり合いが薄れ、こうしたことも次第に忘れていったものと思われます。
人と人が互いに向き合うとき、二人とも同じ声が耳に入ります。一方で目から入ってくる像は一人の見る像と、もう一人が見る像とは明らかに異なります。ですから聴覚系言語は誰でも同じ像を形作り、視覚系言語は一人一人それぞれ異なった像を形作るということになるわけです。
このことは必然的に自分は違うということを意識化することになります。また相手に共感するためには、相手の視点に立ってイメージするという、さらに別な脳の働きが必要になります。このうち片方の働きを意識化し、もう片方の働きを意識外へ追いやることによって、一体何が起きるでしょうか? そして何ができるでしょうか?
他人を見る、観察するということは辛辣なまでに一方的な関係です。「ついつい他人をじろじろ見てしまう」「他人の行動が気になる」というのは、まさしく「退屈した脳」を表しているのであり、そうした習慣が続けばいずれトラブルになるということはむしろ自然なことでしょう。
こうした場合勃発する「注意をする」「叱りつける」という行動は必ずしも理知的な判断に基づくものではなく、むしろ純粋に生理的な欲求から起こって来るものであり、必然的に相手が「いま注意されたら精神的ダメージを受けるであろう」タイミングで発作的に出るものです。これは動物行動学的に優位の個体が劣位の個体に対してとる行動と重なります。
そうすると弱い立場の人間からすれば必然的に「偉い人の機嫌を取る」ということが生じてくるわけであり、次第に「うやうやしくする」という習慣へと発展していくのではないでしょうか。
個々の出来事や体験そのものよりも、むしろこうした歴史的な人間の感受性の転換の方が、もっともっと強烈な一大事件だと思うのですが…。
マルクスやその時代の学者達は抑圧される民衆達を見て胸を痛め、いまの経済学の土台を築き上げたわけですが、動物の基本的な行動を踏まえずに、いきなり市場や個人の購買行動、企業の盛衰をモデルに経済を説明する力学を構築しようとしたことは、実は悲劇の始まりだったんじゃないかと思います。