chuo1976

心のたねを言の葉として

竹村さんへ  その2    一歩

2012-02-01 06:46:56 | 文学
竹村さんへ   その2




 2006年は、いじめによる自殺がマスコミを連日のように賑わしました。1986年のアイドル歌手自殺から、20年後のことです。
 2006年のいじめ過熱報道のきっかけは、ふたつの事件でした。北海道の滝川市の教育委員会が小学生の女の子の自殺にきちんと対応していなかったことと、「偽善者になれない偽善者」という教師の言葉から生徒が自殺した事件のふたつです。
 このふたつは教育者としてあるまじきことで、非難されて当然です。しかしこれに呼応するかのように、今回も全国に同様の自殺が多発してしまいました。僕はこの連鎖するように起きた自殺も、報道のあおりだと思っています。竹村さんと同じような中学生を自殺に追い込む深刻ないじめがあった、それは事実なのでしょう。しかし、もしあのようないじめ自殺の過熱報道がなければ、衝動的な死に突き進まずに、思いとどまることができた子どももいたに違いないと思うのです。
 いじめ報道の過熱は、1994年にもありました。愛知県の中学2年生のO君が、自宅の庭の木にロープをかけて首つり自殺した事件です。O君は同級生から受けていたいじめを遺書にこと細かに書き残していました。そして取られていた金が高額だったこともあり、O君の事件は連日のように報道されました。そして、O君の事件が起きたその月だけで、10名を超える中学生が自殺しました。
 いじめ報道や自殺報道がある事件をきっかけに過熱すると、同様の事件が多発するということはこれまで何度も繰り返されてきています。
 『群発自殺』という本があります。これは精神科医の高橋祥友という人が書いたものですが、彼によれば自殺には社会的要因と個人的な要因があるといいます。同じストレスの中でも耐えられる人とそうでない人がいる、同じ家系の中に自殺した人がいるとき自殺の可能性は高い、など自殺に至るにはさまざまな要因が絡んでいるというのです。よく「いじめ → 自殺」という単純な因果関係が報道の中で繰り返されますが、それが子どもたちに与える影響を真剣に考える必要があると彼は訴えています。
 「連鎖自殺では、同様の手段が模倣される傾向が強いため、手段について詳細に報ずることがいかに危険であるかを多くの欧米の研究が指摘している。しかし、この記事には首をくくるために利用されたバスケットボールのゴールポストの大きな写真が添付され、自殺の手段を具体的に解説するかのようだった。」
 「視聴率を簡単に上げられるようなセンセーショナルな覗き見趣味の過剰な報道が、あたら死ぬ必要のない子供の命を奪ってしまっている。」


 いじめは卑劣な、許されない行為です。しかし、友人同士のトラブルから発展するいじめやコミュニケーション不足から生まれる人間関係のねじれはよくあることです。それは昔からありました。またそのような人間関係のトラブルは大人のなかにもあります。いじめは日本だけでなく、アメリカやヨーロッパ、どこの国にもあります。また、ある人にとってはいじめと感じられることが、ある人にはいじめとは思わないということもあります。人がいる限り、人間関係のトラブルやいじめは起こると思います。
 ところが、この日本では、いじめがこの国特有の、とんでもないことであるかのように報道されていると思いませんか。僕自身も小学生の頃いじめられた経験はありますが、それは子どもの世界ではよくあることです。ところが、そのいじめがマスコミに頻繁に登場するようになると、今の学校には陰湿ないじめがある、今の子どもは変わった、今までにないような大変な問題が今学校の中で起きているというような雰囲気に世の中がなってきたように思うのです。そんなふうに雰囲気が変わったのは、校内暴力の嵐が去った1980年代後半のころからです。
 僕が教員になって驚いたことのひとつに、子どもがそれまで親友だった友達を裏切るということがあります。
 気にくわない者を無視しようということになると、その仲間と一緒に無視をする、昨日まで一緒に遊んでいた友達が突然無視される、それまで交わしていた交換ノートの中身をばらされる…こんなトラブルが一年のうちに何件か起きます。
 どうしてこんなことが平気でできるのか、こんな気持ちの中で今の子どもたちはお互い疑心暗鬼になりながら生きているのか、と心が痛くなりますが、残念ながらこれは現実のことです。
 子どもがこうなってしまった原因は何でしょうか。それはさまざまなことが複雑に絡まって生まれたことなので、一口で簡単に言えるものではありませんが、その一つにマスコミがあると僕は思っています。いじめをマスコミが騒げば騒ぐほど、こどもたちは神経質になり、過剰で希薄な友達関係を作るようになったと感じています。いじめられないために特定の友達とトイレも一緒、持ち物は同じ、という過剰なもたれ合い。しかし簡単に崩れる信頼、そして裏切りを繰り返す希薄な人間関係。今の子どもたちはとても不安な、神経質な気持ちで過ごしている人が多くなっています。そのような荒んだ人間不信は、まさに“センセーショナルな覗き見趣味的”なマスコミ報道によって醸成された面は否定できないと思っています。

 しかし一方で、子どもは変わっていないという思いもあります。子どもの持っている楽天性は、大人にはない最大の魅力です。けんかした友達とすぐに仲良くなれるなど、大人にはできません。裏切った、裏切られたという子どもが再び仲良くなることはよくあることです。ショックなことがあってひどく落ちこんでも、立ち直りの速さも子どもならではです。
 変わったのはむしろ大人でしょう。周囲の大人が、いじめている子もいじめられている子も見守っていこうとするのではなく、学校が悪い、家庭が悪い、社会が悪い、誰々が悪い…と問題のあら探しばかりして、子どもの根本的な成長する力を支えていないように感じます。人の批判ばかりして、一人の人間として尊厳ある行動を示せない大人をみて、子どもがまともに成長できるわけがありません。
 


 いじめを改善することは出来ます。いじめはどこにでもあると先に書きましたが、改善はできると思っています。今よりより高い自分になろうと誰もが考えているように、今あるいじめを解消することは必ずできると思っています。 
 竹村さんは、いじめについて考えたことを綴っていました。「支える人を殺すなどという事件はあってはならない」という言葉が、僕の胸を衝いたように、思いは人に伝わります。
 竹村さんのように物事を自分の問題として真剣に考えること。あなたの文章には、一人の中学生が自分自身と向き合っているそんな真剣さを感じさせます。自分の言葉で物事を考えようとする若者がいることは、希望です。あなたの言葉に、僕自身が元気づけられるように感じました。

 竹村さんのノートの感想にならなかったかもしれませんが、僕の感じていることを書きました。竹村さんは中学3年生、受験勉強も忙しくなってきていると思います。こつこつ頑張ってください。そんな中、また何か書いたら読ませてください。
 ではまた。
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