chuo1976

心のたねを言の葉として

釧路のフィレンツェとリリー  ブログ「記憶の彼方」より

2012-02-10 05:35:02 | 文学
釧路のフィレンツェとリリー 



 




   

リリーは地階にあった。階段をゆっくりゆっくり降りているうちに、正に七十年以上の時間の地層を潜って行くようでゾクゾク、ワクワクしてきた。店内には他に客はいなかった。美しい短い黒髪が若々しく印象的な店主のマダムは広い店内の床の掃除をしていた。地上の凍てついた歩道に撒かれた滑り止め用の砂が、ちょっとした風で地下の店内にまで吹き込んで来て大変なのよ。札幌から出張で来たと言うと、マダムはついさっきまで東京から来た客がいたと言う。こういう古い喫茶店が残っているのは嬉しいという言葉を残していったらしい。なるほど。しかし私は「古い」という言葉にかすかなひっかかりを覚えた。フィレンツェもそうだったが、ここリリーも決して古くはない。長年使い込まれた床やカウンターのテーブルや客席のテーブルなどはたしかに表面は傷つき摩耗しているが、掃除と手入れが行き届いているおかげで、控え目に備え付けられた照明を反射して目に優しい深い輝きを放っている。こんな空間は古くない。むしろ非常に新鮮で、空間全体が非常に座り心地のよい椅子のようにさえ感じられる。そんなことを口走ったか、内心思っただけだったかかよく覚えていないが、自然な成り行きのように、マダムはリリーと共にあった小さな歴史について語ってくれた。札幌で生まれ育った彼女はおよそ半世紀前に釧路に嫁いで来た。リリーの二代目店主だったご主人を二十年前に亡くしてからは、彼女が一人で店を守ってきた。その間ずっと年中無休で働いて来た。この歳になって夕焼けも一度も見たことがないのよ、と言って笑った。ちなみに、一説には釧路市の夕日は、インドネシアのバリ島、フィリピンのマニラとともに「世界三大夕日」と称される。そこで来客があり、話は途切れた。店名「リリー」の由来は尋ね損なった。



リリーを出た後、彼女の分まで夕日を堪能した。

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