映画保存法の制定を 関川宗英
日本は世界でも屈指の映画大国である。製作される映画本数でいえば、ナイジェリア、インド、アメリカ合衆国についで、第4位の417本(2006年統計)を誇っている。ハリウッド映画を排斥しようとしばしば物議を醸すフランスでさえ203本である。
しかしながら映画大国日本の文化政策はお粗末、と言わざるを得ない。今、早急に求められているのは、「映画保存法」の制定だ。
世界第1位のアメリカの映画は、世界中のどこの都市でも見られる。例えばハリーポッターの新作は、ほぼ同時期に一斉に封切られる。北京でもマクドナルドが食べられるように、ハリウッドの映画は世界中ほとんどの都市で見ることができる。アメリカは、映画館数(約40,000スクリーン)と映画興行収入(約1兆円)の両面でダントツの世界1位であり、アメリカ国民1人が年間に観る映画の平均本数も4,5本でやはり世界一である。
世界の娯楽を支配しているアメリカだが、その戦略は映画の黎明期から世界を市場としており、著作権などソフト面の保護政策から、「自国映画保存法」を制定し、ワシントンDCの議会図書館を中心に国家的規模で本格的な映画保存を実現している。
一方フランスには、文化・コミュニケーション省直属の国立機関である国立映画センター(略称CNC。1946年)が映画やテレビ等のオーディオ・ビジュアル産業の規制と振興を司る役割を一手に担っている。また私立の文化施設だが、シネマテークフランセーズがある。フランス政府が大部分出資し、映画遺産の保存、修復、配給を目的とし、4万本以上の映画作品と、映画に関する資料、物品を所有している。
日本の公的な映画保護機関は、京橋にある、東京国立近代美術館フィルムセンターセンターのみである。そして映画保存にかけられる予算は極めて少なく、世界の映画祭で毎年のように評価されてきた日本映画だが、そのフィルムの保存さえままならないのが日本の映画文化の現状である。日本における戦前の映画の残存率は極めて低く、無声映画にいたっては、その90%が失われたといわれている。しかも、数値として把握できるのは映画会社やフィルムアーカイブに正式に所蔵されているフィルムに過ぎない。
国立国会図書館でも法律では書籍ばかりでなく、映画を含むすべての録音録画物を保存することになっている。しかし、映画フィルムは保存されていない。フィルムの価格設定や保存の技術的問題から、1949年に「当面の間」映画フィルムの保存は免除された。それがそのまま、今に至っているからである。現在、国会図書館で保存されている映像資料はVHSやDVDのみで、映画フィルムではない。
映画は書物同様、文化の源泉であり、未来に継承すべき国家的財産である。100年前の映像は歴史的な資料であり、民俗学的、社会学的研究の資料にもなる。しかし、日本の映像文化の保護は極めて立ち後れていると言わざるを得ない。例えばロシアのゴスフィルモフォンドやアメリカの議会図書館から国立近代美術館フィルムセンターへと返還されたフィルムの中には、旧満州や占領下の日本で接収された、国内に存在しない貴重な劇映画が多く含まれていた。日本のフィルムアーカイブに保存されていない歴史的な映像資料が海外のアーカイブにある、この事実一つだけでも、日本の文化政策の貧弱さを十分語っている。
日本の国家予算に占める文化予算の割合は0.11%。韓国が0.5%、フランス0.86%、ドイツ0.25%、イギリス0.24%となっている。アメリカについては政府による文化予算は0.03%と極めて少なくなっているが、民間からの寄附等を奨励するための税制優遇措置等が中心となって、メトロポリタン美術館やオペラ座などを支えている。
文化庁の「日本映画の振興に関する平成22年度施策の概要」によれば、“我が国の優れた映画の製作活動を奨励し、映画芸術の振興を図るため、日本映画の製作活動を支援する”としてさまざまな映画振興の施策が掲げられている。そのための総予算は、15億9千万円である。ちなみに、文部科学省のスポーツ予算は約227億4000万円(2010年)となっている。映画とスポーツを天秤にかけて善し悪しは語れないが、日本の文化政策のお粗末さは明らかである。
フィルムは、時とともに退色していく。定期的に、プリント化しなければならない。しかし退色以上に深刻なことは、フィルムそのものの自己触媒による化学反応である。空調設備の整った低温少湿の倉庫に保存しないかぎり、アセテート・フィルムは酸化し、自壊作用を起こす。フィルムは、保存に適した環境で制度的に保護していかなければ、失われていくのみである。
そこで、映画保存を法制化することが早急に求められている。日本国内の本が全て国会図書館に保存されるように、映画製作者は自作フィルムを国が設置する保存機関に納付し、そのすべての複製ポジを分散保管するようなシステムを作り上げなければならない。
日本は世界でも屈指の映画大国である。製作される映画本数でいえば、ナイジェリア、インド、アメリカ合衆国についで、第4位の417本(2006年統計)を誇っている。ハリウッド映画を排斥しようとしばしば物議を醸すフランスでさえ203本である。
しかしながら映画大国日本の文化政策はお粗末、と言わざるを得ない。今、早急に求められているのは、「映画保存法」の制定だ。
世界第1位のアメリカの映画は、世界中のどこの都市でも見られる。例えばハリーポッターの新作は、ほぼ同時期に一斉に封切られる。北京でもマクドナルドが食べられるように、ハリウッドの映画は世界中ほとんどの都市で見ることができる。アメリカは、映画館数(約40,000スクリーン)と映画興行収入(約1兆円)の両面でダントツの世界1位であり、アメリカ国民1人が年間に観る映画の平均本数も4,5本でやはり世界一である。
世界の娯楽を支配しているアメリカだが、その戦略は映画の黎明期から世界を市場としており、著作権などソフト面の保護政策から、「自国映画保存法」を制定し、ワシントンDCの議会図書館を中心に国家的規模で本格的な映画保存を実現している。
一方フランスには、文化・コミュニケーション省直属の国立機関である国立映画センター(略称CNC。1946年)が映画やテレビ等のオーディオ・ビジュアル産業の規制と振興を司る役割を一手に担っている。また私立の文化施設だが、シネマテークフランセーズがある。フランス政府が大部分出資し、映画遺産の保存、修復、配給を目的とし、4万本以上の映画作品と、映画に関する資料、物品を所有している。
日本の公的な映画保護機関は、京橋にある、東京国立近代美術館フィルムセンターセンターのみである。そして映画保存にかけられる予算は極めて少なく、世界の映画祭で毎年のように評価されてきた日本映画だが、そのフィルムの保存さえままならないのが日本の映画文化の現状である。日本における戦前の映画の残存率は極めて低く、無声映画にいたっては、その90%が失われたといわれている。しかも、数値として把握できるのは映画会社やフィルムアーカイブに正式に所蔵されているフィルムに過ぎない。
国立国会図書館でも法律では書籍ばかりでなく、映画を含むすべての録音録画物を保存することになっている。しかし、映画フィルムは保存されていない。フィルムの価格設定や保存の技術的問題から、1949年に「当面の間」映画フィルムの保存は免除された。それがそのまま、今に至っているからである。現在、国会図書館で保存されている映像資料はVHSやDVDのみで、映画フィルムではない。
映画は書物同様、文化の源泉であり、未来に継承すべき国家的財産である。100年前の映像は歴史的な資料であり、民俗学的、社会学的研究の資料にもなる。しかし、日本の映像文化の保護は極めて立ち後れていると言わざるを得ない。例えばロシアのゴスフィルモフォンドやアメリカの議会図書館から国立近代美術館フィルムセンターへと返還されたフィルムの中には、旧満州や占領下の日本で接収された、国内に存在しない貴重な劇映画が多く含まれていた。日本のフィルムアーカイブに保存されていない歴史的な映像資料が海外のアーカイブにある、この事実一つだけでも、日本の文化政策の貧弱さを十分語っている。
日本の国家予算に占める文化予算の割合は0.11%。韓国が0.5%、フランス0.86%、ドイツ0.25%、イギリス0.24%となっている。アメリカについては政府による文化予算は0.03%と極めて少なくなっているが、民間からの寄附等を奨励するための税制優遇措置等が中心となって、メトロポリタン美術館やオペラ座などを支えている。
文化庁の「日本映画の振興に関する平成22年度施策の概要」によれば、“我が国の優れた映画の製作活動を奨励し、映画芸術の振興を図るため、日本映画の製作活動を支援する”としてさまざまな映画振興の施策が掲げられている。そのための総予算は、15億9千万円である。ちなみに、文部科学省のスポーツ予算は約227億4000万円(2010年)となっている。映画とスポーツを天秤にかけて善し悪しは語れないが、日本の文化政策のお粗末さは明らかである。
フィルムは、時とともに退色していく。定期的に、プリント化しなければならない。しかし退色以上に深刻なことは、フィルムそのものの自己触媒による化学反応である。空調設備の整った低温少湿の倉庫に保存しないかぎり、アセテート・フィルムは酸化し、自壊作用を起こす。フィルムは、保存に適した環境で制度的に保護していかなければ、失われていくのみである。
そこで、映画保存を法制化することが早急に求められている。日本国内の本が全て国会図書館に保存されるように、映画製作者は自作フィルムを国が設置する保存機関に納付し、そのすべての複製ポジを分散保管するようなシステムを作り上げなければならない。