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心のたねを言の葉として

ⅩⅩⅤ 田中泯・高橋悠治 即興 を観る聴く 『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ  2015/1/13

2015-01-13 08:32:15 | 文学

ⅩⅩⅤ 田中泯・高橋悠治 即興 を観る聴く          『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ  2015/1/13

 

 

  舞踏です、ダンスです、高橋悠治のピアノです、観客から見て、左手手前にピアノが、高橋悠治自身のピアノを持ち込んだとのこと、ほぼ中央の奧のスチールの板の影から、泯が現れます、スチールの板が上から吊されている、左手奥には同じ板が壁に掛かっている、二枚の板、ライト、舞台中央、客席側に吊されたライトから、このスチールの板に灯りが当たります、闇の中に、灯りが反射します、夜でしょうか、ネオンでしょうか、着物姿の泯です、ピアノの音が、ゆっくり響きます、男は、灯りと音と戯れている、視線はどこに、足は、手は、どこに向かうのでしょうか、存在は、始まりです、ひと踊りの後には、板の影に隠れます、そして、板を揺らします、灯りが揺らぎます、影も漂います、月夜の、闇夜のひと踊りなのでしょうか、酔っぱらった男の遊び、夢見た男の、果たして、真に男ですか、判りません、私の思いこみでは、見る側の、ならば、彷徨う、男女とは判明しない、人のダンス、夢遊病者、あなたです、私です、舞っているのは、誰も居ません、いや、居るのでしょうか、居るのだ、私たちが見て居るでは、聞いて居るではないですか、確かに、舞台としてのドラマ設定は自由に成り立ちますが、解釈は可能でしょう、たとえ筋書きが在ろうとも、観客との関係の中で、舞っているのです、それも、平然と、自由に、でも決して傲慢では在りません、音と灯りと影と、そして、揺れる板、たわむ板の音も響きます、私たちの視線、聴覚を自覚しながら、動き、止まり、戻り、進み、決して、一所に収まりなどしません、ひとつの舞いの後に、壁に、もたれます、休憩です、汗を拭きます、咳き込みます、演奏家も咳き込みます、この音も、空間に、しっかり、響きます、私たちの呼吸も聞こえるでしょうか,狭い客席での腰の動きの音も、人は横になり、舞踏のいつもの赤ん坊の格好です、私たちに足の裏を見せます、足の裏のダンスです、余りに凄いです、素晴らしいです、顔では在りません、足の裏です、今まで、私たちが、拒んできた、見せてこなかった、足の裏で、表情を構築するのです、涙が出ます、肉体に表も裏もありません、足の裏、指、輝き、陰影の中、舞うのです、全てがダンスなのです、壁も、板も、灯りも、影も、ピアノも、演奏者も、観客も、カメラを構えるスタッフのお姉さんも、舞踏家も、後れて入ってきたお客さんも、上から、此処は地階ですから、地上のバイク屋さんからの仕事の音も僅かに漏れ聞こえます、含めてダンスなのです、演奏者は、ピアノの上に置かれた腕時計を見ながら、演奏を続けます、ダンサーは、また立ち上がり、飛び、振り返り、求め、彷徨い、強調し、収まり、静止し、突出し、肉体は叫び、安らぎ、壁に向かい、汗を拭く、もたれます、そして、また、次なる始まりを、模索します、そんな矢先に、時間ですかと、演奏者と目を合わせます、笑みの演奏者です、ダンサーは時計を見、もうこんなですか、楽しんじゃいましたと語ります、終わりです、何が、何も、終わりません、相変わらずの、始まりです、ダンスとして、存在が、空間が、時間が、始まるのです、時間ですとは、日常の時間のこと、が、ダンスの時間は、何も終わりはしません、常に、始まりなのです、始めなくては、成らないのです、覚悟して、

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札幌国際芸術祭

 札幌市では、文化芸術が市民に親しまれ、心豊かな暮らしを支えるとともに、札幌の歴史・文化、自然環境、IT、デザインなど様々な資源をフルに活かした次代の新たな産業やライフスタイルを創出し、その魅力を世界へ強く発信していくために、「創造都市さっぽろ」の象徴的な事業として、2014年7月~9月に札幌国際芸術祭を開催いたします。 http://www.sapporo-internationalartfestival.jp/about-siaf