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心のたねを言の葉として

1970年代に失われたもの  ~連合赤軍と吉田拓郎~      関川宗英

2021-04-08 17:25:14 | 文学

1970年代に失われたもの  ~連合赤軍と吉田拓郎~      関川宗英





 1971年から72年にかけて、連合赤軍は山岳ベースで、「共産主義化」するためにと称して12名の仲間を殺している。

 その凄惨なリンチに加わった犯人の一人植垣康博は、逮捕後27年間を獄中で過ごすのだが、連合赤軍を「革命の問題」として捉え考え続けてきたという。

 つまり、連合赤軍の問題は、スターリンの粛清、中国のプロレタリア文化革命、ポルポトと同じ質の問題として考えてきたというのだ。



 僕は連赤総括を革命の問題として扱うことが面白かったんですよ。連赤は規模は小さいかもしれないけれど、でもスターリンの粛清とか中国のプロ文革とかあるいはポルポトの問題だとか全部同じ質の問題だと思っている。僕は連赤があったことによってそういう社会主義の大量虐殺がどういう問題なのかということを考えていくことが出来るようになったんです。だから僕は連赤の経験を踏まえた形でそれらの問題を研究する。そしてその研究の成果を基にして連赤問題をより普遍的な形で総括していく。そういう作業に取り組んできました、80年中頃以降のことですけどね。僕としては、これによって多くの犠牲を出してきた20世紀の社会主義の問題を総括し、社会主義の新しい方向を見出していきたかったわけです。(『連合赤軍27年目の証言』 植垣康博 2001年 「連合赤軍事件と獄中27年 聞き手 鈴木邦夫」)




 この対談から12年後の2011年、植垣康博は、ルポライター朝山実のインタビューで、連合赤軍以降内ゲバが激しくなったことを聞かれ、次のように答えている。

 

朝山「連赤以降、内ゲバが激しくなりましたよね。それ以前のものは、偶発的に相手を死にいたらしめたというものだったりしたのが、明確な殺意をもって襲撃するという」

植垣「連赤問題を特殊な問題として扱ってしまったことによって、左翼全体が抱える問題を見誤ったというか。内ゲバも、あれは一党独裁主義のあらわれなんですよ。それは、ある優れた一つの党がすべてを指導する、一つの党がすべての権力を集中して握るということで、それはソ連ではスターリンの粛清になったし、中国ではプロ文革となり、ポル・ポトを生んだ。それは一挙に共産主義化しようとしたからなんですよね」

(『アフター・ザ・レッド』 朝山実 2012年 「第三章 植垣康博」)



 左翼全体が抱える問題を「一党独裁主義」で説明する植垣康博の捉え方は明快で、わかりやすい。

 植垣康博は、M作戦(銀行強盗)の実績やアジトづくりの技術を持っていたから、自分は「総括」の対象にはならないと思っていたという。

 また、永田洋子らに対する痴漢事件で総括の対象になっていたかもしれないといいながら、その痴漢事件を面白おかしく語ったりする。

 植垣には、組織内のデリケートな人間関係や言葉の駆け引きなどといった、細かなことに対するこだわりを感じない。

 『死へのイデオロギー 日本赤軍派』を書いたパトリシア・スタインホフは、獄中にいた植垣に面接したときの彼の印象を、「明るくて陽気で聡明な人物だった」と描写しているそうだが、朝山実のインタビューに対しても、「昔から明るかったですよ。だから、あの山の雰囲気は合わなかった」と答えている。

 山岳ベースで殺した仲間を埋めるために、数人で担いで運んでいるとき、植垣はブラックジョークで「上に乗っている方が楽だなぁ」などと言って、幹部の坂口弘にひどく怒られたそうだ。この話は今となってもとても笑えないものだが、楽天的な、細かなことに拘泥しない彼を彷彿とさせ、そんな彼だからこそ、連合赤軍を大きな視点で捉える考察は期待できるかもしれない。



 しかし、「一党独裁主義」というイデオロギー的な組織論だけしか植垣は語っていないが、それだけで連合赤軍壊滅は説明できないことは明白だろう。

 

 連合赤軍後、内ゲバ、爆弾闘争と過激さを増していった、いわゆる「新左翼」は崩壊の一途をたどっていく。連合赤軍は新左翼崩壊の象徴的な事件だが、新左翼だけでなく、社会党、民主党、そして令和3年現在の社民党まで、リベラル側の左翼政党の衰退はとどまるところを知らない。

 そしてソ連や東欧の社会主義政権の崩壊など、左翼の衰退は日本だけの現象ではない。

 世界的な左翼衰退という流れは、「一党独裁体制」だけではなく、お金や人々の欲望など多くの問題が絡んだ結果だ。

 

 マルクスの予言によれば、資本主義の矛盾により労働者階級は貧困に追い込まれ、革命のみが希望となり、共産主義社会に移行するとされていた。しかし、一定の生活基盤を得てそこそこの暮らしを送れる人が増え、多くの人々は中産階級としての意識を持つようになった。

 資本主義経済は矛盾を抱えたままだが、1900年代は中産階級を生み出し、お金の流れと人々の欲望を大きく変えた。

 

 まず、金の力で物事がきまっていく競争社会という現実。21世紀の今、どんな人もお金がなければ、生きていけない。同様に、世界中のどんな国も財政的な基盤がなければ、基本的な社会インフラを持つことはできない。しかし、グローバリゼーション、金融資本主義、市場原理主義が横行する今、どの国も世界資本主義という大きな競争の中にいるという事実がある。この現実を前に、世界の左翼勢力は新自由主義勢力との競争に負け、衰退していったという経済の問題。

 

 そして、人々の欲望、人々が追い求めるものが変わってきたという現実がある。かつて多くの人びとは、その日の生活の糧を得ることが毎日の最大の目的であり、それが生きることだった。貧困を抜け出して、人並みの生活をすることが人びとの願いだった。しかし、世界的に大衆消費社会へと変貌した20世紀。人々は、過剰な消費に魅了されるようになった。人々の欲望が、貧困の克服で満たされるものではなく、消費そのものの質的な変化をはらんでいるという問題。

 

 連合赤軍の最後は、1972年のあさま山荘事件だ。

 その同じ年1972年は、吉田拓郎の「結婚しようよ」がヒットしている。

 飛行機のっとり革命叫び

 血と汗にまみれること

 ああ それが青春 

 これは、吉田拓郎のファーストアルバム「青春の詩」の一節だ。しかし吉田拓郎は、機動隊に蹴散らされ、公安に追われていた若者たちを応援していたわけではないだろう。吉田拓郎は、大衆消費社会の先端で、時代を謳歌する若者の代表としてフォーク界に君臨する。



 「結婚しようよ」がヒットとする前と思われる頃の話だが、吉田拓郎はかまやつ・ひろしに「おもしろいパーティーがあるから行こうよ」と誘われたそうだ。それは、安井かずみのアパートで行なわれていたパーティーだった。当時安井かずみは、作詞家として活躍していた。

 安井のアパートと言っても、プール付きの豪邸だったという。パーティーの客は、芸術家やカメラマン、芸能人、ファッションモデル達。てんでにお酒を飲んでおしゃべりしていて、夜になると、ファッションモデル達が全裸になってプールに飛び込んで遊ぶ。吉田拓郎はぶっとんだ。

 「オレが本当に行きたかったのは、こういう世界なんだ!」と思ったという。

 拓郎は広島から出て来て、反体制のフォークシンガーの仲間に引き入れられてしまったが、本当はテレビに出るメジャーな世界の歌手になりたかったんだと回想する。

 こんな話が、『安井かずみのいた時代』(島崎今日子 2013年)にある。

 革命のために若者たちが山にこもっていたころ、プール付きの豪邸でセレブな毎日を送っていた人たちがいたわけだ。





 1972年、あさま山荘事件。籠城した若者たちと機動隊の応酬は、テレビで生中継された。それは連合赤軍の最後を全国民に見せるショウだった。

 あさま山荘を取り囲む警官たちは、連合赤軍の若者たちに対して発砲しなかった。逆に連合赤軍の銃弾に倒れ、犠牲者を出している。10日間の籠城のすえ、報道陣の罵声を受けながら、連合赤軍の若者たちは連行された。その姿は、テレビに映し出された。

 権力側は、籠城していた若者たちを生け捕りにし、その悪辣な凶悪犯の姿を全国のテレビの前にさらすことに成功した。

 

 「社会的な弱者を救いたい」「ベトナムに平和と自由を」と立ち上がった若者たちは、卑劣で残虐な極左暴力の烙印を押され、反社会的な狂人として裏社会の住人となった。

 

 一方、「結婚しようよ」がヒットしたように、大衆消費社会を讃える、明るく豊かな気分は、当時の「日本」に既に醸成されていた。

 革命を夢見て、プロテストしていくことなど、時代に逆行した振る舞いであり、人々の支持はとても得られない。

 そして、「今だけ、金だけ、自分だけ」、「生活保護のために使う税金は無駄」と公然と主張する人たちがでてくるような、不寛容な世の中へと時代は突き進む。

 社会的弱者を救いたい、という正義の言葉は力をなくし、人々は金の力に屈していく。金があれば愛も買えると言って憚らない、心のすさんだ世の中になった。

 



 1950年代から始まる高度経済成長は、日本を確かに豊かにした。

 1964年の東京オリンピックでは新幹線や首都高速など都市のインフラ整備が一気に進んだが、路上生活者など貧困が見えなくなった。

 1972年、あさま山荘事件、「結婚しようよ」のヒット。

 1970年代の日本は、社会的弱者を救いたいというような正義の声が力を失っていく。日本は、良心を失ったかのようだ。



 

 令和の今、1970年代に日本が失ったものを考える。

 そして、植垣康博が「新しい社会主義の方向を見つけたい」と言ったように、明日につながる道について考える。

 

 2021年、ミャンマーでは、軍事政権が民主化を求める人びとを殺している。ミャンマーの民主化運動は1988年から大きく前進したものだ。ミャンマーの民主化は、過去から今へと連綿と続くものである。500人以上の犠牲者の報道の中、非暴力の抗議活動を続ける人々がいる。(追記2021年4月9日、ミャンマーの犠牲者は600人を超えたとの報道があった)(追記2021/4/12 ミャンマーの犠牲者700人超えの報道)(追記2021/12/5 ミャンマーの犠牲者1300人を超える NHK)(追記2022/12/31 「現地の人権団体によると、軍の武力弾圧による死者は2600人を超えた。国連機関によると、ミャンマー全土でクーデター以降、110万人以上が住む家を追われ、国内避難民となっている。」日テレニュース)

 

 「もともと地上に道はない、歩く人が多くなればそれが道になるのだ」と混迷していた中国社会を批判しながら、希望を語り続けた人がいた。先人の言葉に学び、歴史を鏡にして、考え続けたい。

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入学式の真中何か落ちる音

2021-04-08 05:12:08 | 俳句

入学式の真中何か落ちる音
                           衣斐しづ子

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