職人 吉村昭
三十八年前に、二間つづきのアパート住まいから建坪十五坪の家を新築して移り住んだ。
場所は、東京郊外の西武線沿線にある東伏見で、敷地は六十三坪であった。坪価は一万円で、当時会社勤めをしていた私の月給は二万円であった。つまり月給で二坪の地が買えたのである。
現在、東伏見は坪価が二百万円はしているから、地価から逆算すると、私の月給は四百万円でなければならなかったはずである。いかに地価が高騰につぐ高騰をしたかがわかる。
その家に十年間住んでいた頃、環状道路建設の話が持ちあがり、私の家がすっぽり道路に入っていることがあきらかになった。当然、住民と道路建設側の機関との間でさまざまな交渉が繰返されるはずで、小説を書く私は、そのようなことに時間を多くさかれることに恐怖に近いものを感じた。
逃げ出さなくてはいけない、と思った私は、土地探しをし、現在住む井の頭公園に隣接した地に家を建てて移り住んだ。
家を造ってもらった工務店の工法が不十分だったらしく、半年ほどして雨漏りがし、そのためあちらこちら手入れをし、ようやく心安らかに住む状態になっている。
他の地ではどうか知らぬが、私の住む地一帯では、驚くほどの改築ブームである。西隣りの家は壊され、南隣りの家も同様で、新しい家が建てられた。北の道路にそった十軒中三軒が、いずれもこの一年の間に改築された。
近くを歩いていても、あ、ここもかと思うほど改築がされている。私の家を新築した頃建てられた家々で、当時の建築方法になにか欠陥があったのか。私の家も手入れを繰返さなかったら、住むに堪えないものになっていたはずである。
私の息子夫婦は、私の家とほとんど同じ頃建てられた中古の家を買い取って住んでいた。この家の雨漏りがひどく、これも改築することになった。
古くからの友人である設計士を中心に建築方法について話し合った。現在改築する家の工法は、外国で評価の高い方法によるものが多い由だが、設計士の強い主張に従って基本的に日本式の従来の工法によることに決定した。
地元で信用されている六十八歳の大工の棟梁に依頼し、鳶の仕事も地元の職人が手がけることになった。
古い家がこわされ、基礎が打たれた。私は毎日三、四回はそれを見に行った。
「先生、そんなに見にきちゃ、小説書けないんじゃないの」
と、かれらは冷やかしながらも、私が見にくるのが嬉しいようだった。
やがて棟上げの日がやってきた。私は終日それを見守っていた。刻みの入った材と材が、寸分たがわず音を立てて組み合わされる。
私は感嘆の連続であった。なんという優れた頭脳であろう、と思った。一心同体であるかのように手順がよく、次々に家の骨組みが形をととのえてゆく。職人というものの素晴らしさに、私は言葉もなく立ちつくしていた。
予定通り夕刻、棟上げは終わった。神主が来て祝詞をあげ、それから職人たちと杯をあげた。車を運転する者はウーロン茶で……。翌日から大工をはじめさまざまな見知らぬ職人が入り、屋根と外壁が張られ階段が出来、ガス、電気が入って、工事をはじめてから四ヵ月後に住居可能になり、仮住まいをしていた息子夫婦と子供が入った。一ヵ月早い完成であった。
息子の家は多くの職人の手によって成った。それらの職人は入念に、しかも素早く自分に課せられた仕事を成し遂げて去って行った。
息子一家は、満ち足りたようにその家で過ごしている。私は、その家を見るたびに、今後二度と会わぬかも知れぬ職人たちに深い畏敬の念をいだく。
(『私の流儀』 吉村昭 1998年)