三國連太郎と軍隊 2013年4月22日 水島朝穂
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先週14日、俳優の三國連太郎さんが亡くなった。90歳だった。圧倒的な存在感があり、映画でもテレビドラマでも、役柄にピタリとはまったとき、他を寄せつけない迫力があった。後半生は『釣りバカ日誌』(栗山富夫監督、松竹、1988~2009年)で人気が定着したようだが、私はこれらの作品はみていない。
最近、録画してあったNHKのBSプレミアム「山田洋次監督が選んだ日本の名作100本」のなかの『警察日記』(久松静児監督、日本映画、1955年)をみる機会があった。主演は森繁久弥。当時32歳の三國演ずる花川巡査は、朴訥で人情味あふれる(警察官としては少々やりすぎの感はあるが)人物だった。全体として、ほのぼのとしたものが残る、後味のいい作品である。三國の演技にも、どこかホッとさせるものがあった。『息子』(山田洋次監督、松竹、1991年)における寡黙な父親役、『襤褸の旗』(吉村公三郎監督、1974年)の田中正造役も忘れられない。
だが、私にとっては、暗い・ねちっこい・醜い・酷いテーマを扱った作品の脇役的な場面での三國の存在感の方が大きい。政治家や悪徳実業家、悪徳?弁護士、高級将校、自衛隊陸将補などの脇役もいいが、なかでも『八甲田山』(森谷司郎監督、東宝、1977年)の山田(山口)少佐役が印象に残っている。
それは1902年1月の「八甲田山雪中行軍遭難事件」を扱ったもの。青森の歩兵第5連隊第2大隊長役で、部下の第5中隊長の神田(神成)大尉(北大路欣也)率いる雪中行軍隊に随行し、途中で神田大尉の指揮権に介入する。暗夜道に迷い、神田とは別の方向を指示する。中隊は猛吹雪のなかで孤立。「天は我らを見はなしたか」と神田が絶叫するシーンは、当時話題をよんだ。生存者は中隊210人中、わずか11人だった。山田少佐は生還するも、映画では自決する(実際は病死の可能性もある)。極限状態で、不合理な主張を押しつける役としては、まさに適役だった。
実は戦争映画における三國連太郎の役として私が最も注目したのが、『陸軍残虐物語』(佐藤純弥監督、東映、1963年)である(→YouTubeで予告が見られます)。26年前、久田栄正と『戦争とたたかう―― 一憲法学者のルソン島戦場体験』(日本評論社、1987年)を出版する過程で、戦争・軍隊に関する文献、資料・史料を徹底して読みあさった。そのとき、関連する映画もかなりみた。そのなかの一つがこれだった。
三國演ずる補充兵の犬丸二等兵。現役召集とは異なり、妻子持ちも少なくない。犬丸にも妻がいた。映画では、「構造的ないじめ」による「人間改造工場」としての軍隊内務班がリアルに明らかにされている。とりわけ悪徳非道な亀岡軍曹(西村晃)がすごい。すさまじい兵隊いじめを連日連夜続けるが、面会にきた犬丸の妻を強姦してしまう。そして、犬丸はついに銃剣で…。という話の展開である。
勇ましい軍隊ものではない。軍隊内部に潜む構造的な残虐性を描いた作品として、地味ではあるが、三國の迫真の演技が光る作品だと私は思う。特にリアルなのは、厠(便所)に小銃の部品(撃針)を落とした同僚を救うため、犬丸が糞溜めのなかを這いずりまわるシーンである。名作『人間の條件』(小林正樹監督、松竹、1959~1961年)についてはすでに書いたが(直言「映画で戦争を描くということ」)、そのなかでも、営内の便所に落ちて糞尿まみれになるシーンが出てくる。『陸軍残虐物語』はもっともっと徹底している。
このシーンは実は軍隊の本質をあらわす重要な場面だと思う。旧軍は、貧弱な装備を精神主義で補うべく、兵士に徹底的な「銃器フェティシズム」を強制した。「天皇陛下から賜った38式歩兵銃殿」を擬人化して、それに頭を下げさせたりもする。粗末に扱えば、鉄拳制裁が待っている。部品をなくしたとなれば、ただではすまない。糞溜めのなかを必死に探す場面が鬼気せまる所以である。それにしても、画面から悪臭が迫ってくる。モノクロでよかったと本当に思った。
軍隊から逃亡して命を絶つ三國の演技は真に迫っている。というよりも、実際、三國自身が軍隊から逃亡した経験があるので、リアリティは半端ではない。
1943年、補充兵として静岡の歩兵第34連隊に入隊。中国に派遣され、漢口で敗戦を迎えるのだが、その経緯を『毎日新聞』1999年8月13日付夕刊(東京本社)2面の「特集ワイド・この人と 徴兵忌避の信念を貫いた俳優・三國連太郎さん」のなかで語っている。
「牢に入れられるより、人を殺すのがいやだった◇徴兵を忌避して逃げたものの、見つかって連れ戻され、中国戦線へ。しかし人は殺したくない。知恵を絞って前線から遠のき、一発も銃を撃つことなく帰ってきた兵士がいる…」という記者のリードで始まるインタビューは全文3887字あり、大変興味深い。すべてを紹介することはできないので、私が特に印象に残った場面を引用する。
〈暴力や人の勇気が生理的に嫌いでした。子供のころ、けんかしてよく殴られたが、仕返ししようとは思わない。競争するのもいや。旧制中学で入っていた柔道部や水泳部でも、練習では強いのに、本番となると震えがきてしまう。全く試合にならない。それから選抜競技に出るのをやめました〉
〈徴兵検査を受けさせられ、甲種合格となってしまった。入隊通知がきて「どうしよう」と悩みました。中学の時に、家出して朝鮮半島から中国大陸を渡って、駅弁売りなどをしながら生きていたことがある。「外地にいけばなんとかなる」と思って、九州の港に向かったのです。ところが、途中で、実家に出した手紙があだとなって捕まってしまったのです。…佐賀県の唐津で特高らしき人に尾行され、つれ戻されました。〉
〈徴兵を逃れ、牢獄に入れられても、いつか出てこられるだろうと思っていました。それよりも、鉄砲を撃ってかかわりのない人を殺すのがいやでした。もともと楽観的ではあるけれど、(徴兵忌避を)平然とやってしまったのですね〉
〈(軍隊では)よく仮病を装ったんです。…毛布で体温計の水銀をこすると、温度が上がるでしょう。38度くらいまでになる。当時、医者が足りなくて前線には獣医が勤務していました。だからだまされてしまう。療養の命令をもらって休んだ。…漢口に、アルコール工場を経営している日本人社長がいた。軍に力をもっていたその社長さんが僕を「貸してほしい」と軍に頼んだのです。僕は放浪生活をしていた時、特許局から出ている本を読んで、醸造のための化学式をなぜか暗記していました。軍から出向してその工場に住み込み、1 年数カ月の間、手伝いをしていた。そうして終戦になり一発も銃を撃たずにすんだのです〉
〈(終戦後)今まで鬼畜米英とみていたアメリカ人にチョコレートをねだっている。みんなころっと変わる。国家というのは虚構のもとに存在するんですね。君が代の君だって、もっと不特定多数の君なのではないか。それを無視して祖国愛を持て、といわれてもね〉
〈国とは何なのか。死ぬまでに認識したい。今はまだわからないが、いつもそれを頭に置いて芝居を作っている〉
三國が入隊した静岡の歩兵第34連隊は、三國がアルコール工場にいた1年数カ月の間、1944年4月の湘桂作戦(大陸打通作戦)に参加。大陸1500キロを縦断する無謀な作戦で、34連隊の4102人中、2025人が死んだ。その8割が病死と自殺だったという(NHKスペシャルの結びのナレーションより)。
三國はこの無謀な作戦で命を落とすことはなかった。〈僕は助かった命を大切にしたいと思う。そう考えるのは非国民でしょうか〉というインタビューの結びにある言葉が心に残った。 沖浦和光対談のなかでも三國は、「今でも生き残った一人として、自分の生きざまと言いますか、生かされている者としての責任を、これでいいのか常日頃感じてますね」と語っている(『「芸能と差別」の深層』ちくま文庫、2005年37頁)。
以前から三國が「二等兵のままでいた」という話を聞いていて、それは私のなかで、『戦争とたたかう』で描いた久田栄正と重なった。反骨の父をもち、その影響を受けたという点でも共通している(「反骨で戦争嫌いな父」三國・前掲書26-36頁)。ちなみに、久田の配属部隊は、静岡県三島の野戦重砲兵第12連隊である。
なお、すでに絶版となった『戦争とたたかう』は、近々、岩波書店から、水島朝穂『戦争とたたかう――憲法学者・久田栄正のルソン戦体験』(岩波現代文庫、2013年6月新刊)としてリニュアル出版される。特にその第2 章「軍隊の内務班生活――人間改造への抵抗」は26年前に力を込めて執筆したところなので、ぜひ読んでほしい。文庫本なので、多くの方々の手にとってもらえれば幸いである。軍隊の実態も知らないで、国防軍設置のための改憲を叫ぶ若い政治家たちにも読んでほしい。
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先週14日、俳優の三國連太郎さんが亡くなった。90歳だった。圧倒的な存在感があり、映画でもテレビドラマでも、役柄にピタリとはまったとき、他を寄せつけない迫力があった。後半生は『釣りバカ日誌』(栗山富夫監督、松竹、1988~2009年)で人気が定着したようだが、私はこれらの作品はみていない。
最近、録画してあったNHKのBSプレミアム「山田洋次監督が選んだ日本の名作100本」のなかの『警察日記』(久松静児監督、日本映画、1955年)をみる機会があった。主演は森繁久弥。当時32歳の三國演ずる花川巡査は、朴訥で人情味あふれる(警察官としては少々やりすぎの感はあるが)人物だった。全体として、ほのぼのとしたものが残る、後味のいい作品である。三國の演技にも、どこかホッとさせるものがあった。『息子』(山田洋次監督、松竹、1991年)における寡黙な父親役、『襤褸の旗』(吉村公三郎監督、1974年)の田中正造役も忘れられない。
だが、私にとっては、暗い・ねちっこい・醜い・酷いテーマを扱った作品の脇役的な場面での三國の存在感の方が大きい。政治家や悪徳実業家、悪徳?弁護士、高級将校、自衛隊陸将補などの脇役もいいが、なかでも『八甲田山』(森谷司郎監督、東宝、1977年)の山田(山口)少佐役が印象に残っている。
それは1902年1月の「八甲田山雪中行軍遭難事件」を扱ったもの。青森の歩兵第5連隊第2大隊長役で、部下の第5中隊長の神田(神成)大尉(北大路欣也)率いる雪中行軍隊に随行し、途中で神田大尉の指揮権に介入する。暗夜道に迷い、神田とは別の方向を指示する。中隊は猛吹雪のなかで孤立。「天は我らを見はなしたか」と神田が絶叫するシーンは、当時話題をよんだ。生存者は中隊210人中、わずか11人だった。山田少佐は生還するも、映画では自決する(実際は病死の可能性もある)。極限状態で、不合理な主張を押しつける役としては、まさに適役だった。
実は戦争映画における三國連太郎の役として私が最も注目したのが、『陸軍残虐物語』(佐藤純弥監督、東映、1963年)である(→YouTubeで予告が見られます)。26年前、久田栄正と『戦争とたたかう―― 一憲法学者のルソン島戦場体験』(日本評論社、1987年)を出版する過程で、戦争・軍隊に関する文献、資料・史料を徹底して読みあさった。そのとき、関連する映画もかなりみた。そのなかの一つがこれだった。
三國演ずる補充兵の犬丸二等兵。現役召集とは異なり、妻子持ちも少なくない。犬丸にも妻がいた。映画では、「構造的ないじめ」による「人間改造工場」としての軍隊内務班がリアルに明らかにされている。とりわけ悪徳非道な亀岡軍曹(西村晃)がすごい。すさまじい兵隊いじめを連日連夜続けるが、面会にきた犬丸の妻を強姦してしまう。そして、犬丸はついに銃剣で…。という話の展開である。
勇ましい軍隊ものではない。軍隊内部に潜む構造的な残虐性を描いた作品として、地味ではあるが、三國の迫真の演技が光る作品だと私は思う。特にリアルなのは、厠(便所)に小銃の部品(撃針)を落とした同僚を救うため、犬丸が糞溜めのなかを這いずりまわるシーンである。名作『人間の條件』(小林正樹監督、松竹、1959~1961年)についてはすでに書いたが(直言「映画で戦争を描くということ」)、そのなかでも、営内の便所に落ちて糞尿まみれになるシーンが出てくる。『陸軍残虐物語』はもっともっと徹底している。
このシーンは実は軍隊の本質をあらわす重要な場面だと思う。旧軍は、貧弱な装備を精神主義で補うべく、兵士に徹底的な「銃器フェティシズム」を強制した。「天皇陛下から賜った38式歩兵銃殿」を擬人化して、それに頭を下げさせたりもする。粗末に扱えば、鉄拳制裁が待っている。部品をなくしたとなれば、ただではすまない。糞溜めのなかを必死に探す場面が鬼気せまる所以である。それにしても、画面から悪臭が迫ってくる。モノクロでよかったと本当に思った。
軍隊から逃亡して命を絶つ三國の演技は真に迫っている。というよりも、実際、三國自身が軍隊から逃亡した経験があるので、リアリティは半端ではない。
1943年、補充兵として静岡の歩兵第34連隊に入隊。中国に派遣され、漢口で敗戦を迎えるのだが、その経緯を『毎日新聞』1999年8月13日付夕刊(東京本社)2面の「特集ワイド・この人と 徴兵忌避の信念を貫いた俳優・三國連太郎さん」のなかで語っている。
「牢に入れられるより、人を殺すのがいやだった◇徴兵を忌避して逃げたものの、見つかって連れ戻され、中国戦線へ。しかし人は殺したくない。知恵を絞って前線から遠のき、一発も銃を撃つことなく帰ってきた兵士がいる…」という記者のリードで始まるインタビューは全文3887字あり、大変興味深い。すべてを紹介することはできないので、私が特に印象に残った場面を引用する。
〈暴力や人の勇気が生理的に嫌いでした。子供のころ、けんかしてよく殴られたが、仕返ししようとは思わない。競争するのもいや。旧制中学で入っていた柔道部や水泳部でも、練習では強いのに、本番となると震えがきてしまう。全く試合にならない。それから選抜競技に出るのをやめました〉
〈徴兵検査を受けさせられ、甲種合格となってしまった。入隊通知がきて「どうしよう」と悩みました。中学の時に、家出して朝鮮半島から中国大陸を渡って、駅弁売りなどをしながら生きていたことがある。「外地にいけばなんとかなる」と思って、九州の港に向かったのです。ところが、途中で、実家に出した手紙があだとなって捕まってしまったのです。…佐賀県の唐津で特高らしき人に尾行され、つれ戻されました。〉
〈徴兵を逃れ、牢獄に入れられても、いつか出てこられるだろうと思っていました。それよりも、鉄砲を撃ってかかわりのない人を殺すのがいやでした。もともと楽観的ではあるけれど、(徴兵忌避を)平然とやってしまったのですね〉
〈(軍隊では)よく仮病を装ったんです。…毛布で体温計の水銀をこすると、温度が上がるでしょう。38度くらいまでになる。当時、医者が足りなくて前線には獣医が勤務していました。だからだまされてしまう。療養の命令をもらって休んだ。…漢口に、アルコール工場を経営している日本人社長がいた。軍に力をもっていたその社長さんが僕を「貸してほしい」と軍に頼んだのです。僕は放浪生活をしていた時、特許局から出ている本を読んで、醸造のための化学式をなぜか暗記していました。軍から出向してその工場に住み込み、1 年数カ月の間、手伝いをしていた。そうして終戦になり一発も銃を撃たずにすんだのです〉
〈(終戦後)今まで鬼畜米英とみていたアメリカ人にチョコレートをねだっている。みんなころっと変わる。国家というのは虚構のもとに存在するんですね。君が代の君だって、もっと不特定多数の君なのではないか。それを無視して祖国愛を持て、といわれてもね〉
〈国とは何なのか。死ぬまでに認識したい。今はまだわからないが、いつもそれを頭に置いて芝居を作っている〉
三國が入隊した静岡の歩兵第34連隊は、三國がアルコール工場にいた1年数カ月の間、1944年4月の湘桂作戦(大陸打通作戦)に参加。大陸1500キロを縦断する無謀な作戦で、34連隊の4102人中、2025人が死んだ。その8割が病死と自殺だったという(NHKスペシャルの結びのナレーションより)。
三國はこの無謀な作戦で命を落とすことはなかった。〈僕は助かった命を大切にしたいと思う。そう考えるのは非国民でしょうか〉というインタビューの結びにある言葉が心に残った。 沖浦和光対談のなかでも三國は、「今でも生き残った一人として、自分の生きざまと言いますか、生かされている者としての責任を、これでいいのか常日頃感じてますね」と語っている(『「芸能と差別」の深層』ちくま文庫、2005年37頁)。
以前から三國が「二等兵のままでいた」という話を聞いていて、それは私のなかで、『戦争とたたかう』で描いた久田栄正と重なった。反骨の父をもち、その影響を受けたという点でも共通している(「反骨で戦争嫌いな父」三國・前掲書26-36頁)。ちなみに、久田の配属部隊は、静岡県三島の野戦重砲兵第12連隊である。
なお、すでに絶版となった『戦争とたたかう』は、近々、岩波書店から、水島朝穂『戦争とたたかう――憲法学者・久田栄正のルソン戦体験』(岩波現代文庫、2013年6月新刊)としてリニュアル出版される。特にその第2 章「軍隊の内務班生活――人間改造への抵抗」は26年前に力を込めて執筆したところなので、ぜひ読んでほしい。文庫本なので、多くの方々の手にとってもらえれば幸いである。軍隊の実態も知らないで、国防軍設置のための改憲を叫ぶ若い政治家たちにも読んでほしい。
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