相模原事件と裁判員裁判
『相模原に現れた世界の憂鬱な断面』 森達也 2020年 講談社現代新書
死刑にするためのセレモニー
Zoom画面の中で顔を上げた篠田*は、「相模原事件の裁判の問題点はもうひとつあります」と言った。「裁判員裁判の影響は大きいと思う」
やはりそうだよね。そう思いながら「公判前整理手続きですね」と僕は同意した。刑事裁判において、裁判官、検察官、弁護人の三者が公判前に協議して争点を絞り込む公判前整理手続きは、市民から選ばれた裁判員の負担を軽減することを主目的に、2005年の改正刑事訴訟法施行で導入された。この手続きの際に三者は綿密な審理計画も立てる。ならば公判も短くできる。理屈はそうだ。相模原事件の初公判は2020年1月8日で結審は2月19日。審理期間は2ヵ月もない。宮崎勤の一審の審理期間はほぼ7年で、死刑判決の基準となった永山則夫の一審は(途中で弁護団の解任などがあったこともあり)10年。麻原彰晃の一審は8年弱で、和歌山カレー事件は3年半だ。
そして植松の一審は1ヵ月強。
無駄に長いよりは短いほうがいい。でもこれまでと比べて1ヵ月は強は極端すぎる。誰だってそう思うはずだ。篠田が言った。
「裁判員は一般市民でもあるから、仕事や生活を犠牲にして何年も裁判に関わることは難しいですよね。だから公判をコンパクトにしようという動きが強くなった。相模原事件の場合も、逮捕から2年ぐらいかけて公判前の討議をやって、どんな方針でどういう審理をするかをほぼ(密室で)決めてから公判を始めた。その結果として公判では、端的に言っちゃうと死刑にするしかないか、つまり責任能力についての議論だけになってしまった。
今の刑事裁判全体にこの傾向があるけれど、相模原事件はその典型ですね。公判ではやまゆり園の職員の聴取なんかも読み上げられたけれど、ひとつのホームをまずは襲撃して次に隣、という具合に、植松の当日の行動が一つの合目的な方向に向かっていることを印象づけるための聴取が選ばれていると感じました。つまり責任能力ありという結論に落とし込むための手続きを。例えば職員を拘束してから部屋の中で寝ている人を示して、しゃべれるかどうかを植松は質問してきたと職員は言うわけ。しゃべれないって答えると殺されることに気づいた職員がしゃべれますと答えたら、植松はその嘘を見抜いてしまう。こうした事実関係を示すことで、犯行の目的やプロセスを合理的に認識していることを強調する。ならば責任能力がある。論点はそこに集約される。事前の打ち合わせもしっかりできている。だから傍聴しながら、舞台を観ているような印象を強く持ちました。
その結論として、責任能力以外の論点、例えば障害者への差別の現状について、あるいはやまゆり園も含めて福祉のありかた、何よりも植松の動機の解明とか、そんな要素が全部抜け落ちてしまった」
「法務省は裁判員裁判を導入しなければならない理由を、裁判に市民感覚を取り入れるためと説明しました」と僕は言った。
「その主旨そのものは間違ってはいないと思うのだけど、その弊害がとても大きくなってしまった」と篠田は言った。そうかなあと僕は思う。弊害が大きくなったとの視点については同意だけど、主旨そのものは間違っていないとの見方に対しては違和感がある。だってプロの裁判官が市民感覚から遊離していると認めるなら、国民に裁判への参加を強要する前に、裁判官が市民感覚を持てるようなシステムや研修制度を考えるほうが先だと思うのだ。
「まあそれもわかるけれど」と苦笑しながら篠田は言った。「特にこの事件は複雑で、いろんな問題を提起しているにもかかわらず、1ヵ月強で裁判が終わってしまった。裁判員制度導入前に比べれば本当に短くなった。この法廷を端的に言えば、死刑にするためのセレモニーでした」
*篠田~篠田博之(しのだひろゆき)月刊「創」編集長。専門はメディア批評だが、植松聖死刑囚以外にも、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも20年以上にわたり接触。その他、多くの事件当事者の手記を「創」に掲載してきた。