終戦記念日の昨日、ベルリンから帰国した。
直前にベルリンの隣町ポツダムでポツダム会談の行われたツェツィーリエンホーフ宮殿の大広間に行ってきた。
そこには、日本の教科書とは異なる真実があった。
そこでは、露英米のトップが円卓にすわり、最初にベルリンを陥落したロシアのスターリンを中心に、ドイツの分割統治が話し合われた。署名は1945年8月1日であり、会議録も同8月2日で終わっている。日本の教科書で有名なポツダム宣言は、この会談で話し合われたように教わったが、実際に日本に関する記述はなく、それは単に日米の2国間の問題であるため、このヨーロッパの要衝に較べれば些細なできごとであった。
しかし、この時トルーマンの子供の誕生を知らせる連絡と共に原爆実験に成功したことが伝えられ、日本にポツダム宣言を米国が通知すると共に、それを知ったロシアが日本の敗北必至と見て不可侵条約をやぶり日本に宣戦布告した。この時、スターリンはトルーマンに対し、マンハッタンの重要性が分からない振りをしているが、外交の交渉舞台を用意したのはロシアであり、情報に関するロジは完璧だったと推測される。
元々第二次世界大戦は、ロシアの共産主義に対抗する財閥(ヘンリー・フォードはナチスドイツに多額の資金援助をしていた。)とカソリック教会(ローマ教皇の権威の裏付けとなる世上権を得たバチカン市国はムッソリーニにより作られている。)らにより支えられていた伊・独のトップが中心となり、最終的には敗戦国となり、真実の歴史からは抹消されることになった。現代では、この分断して統治する構造はイラクや北朝鮮のトップと似通っていることが不思議である。
ツェツィーリエンホーフ宮殿の赤い星の象徴的な庭園の写真を見ると、ロシア主導でこの会議が進められたことが分かる。