ラードラー日記 ー グルメライダース2.5

海外ビール紀行 と ロードバイク ヴェンジとの日々

テル・エル・アマルナ エジプト旅行記(その2)

2009-05-21 00:15:08 | エジプト


ツタンカーメンの謎にも深く関わる廃墟の町テル・エル・アマルナ。鉄製の筏のようなカーフェリーでナイル川を渡り、さらに「おんぼろバス」(坂道をやっとこさ登る)に1時間位ゆられて砂漠を走ると、巨大な境界碑文がある。これは、そこから逆向きに都市方向を撮った写真である。
アクエン・アテンが一神教(アテン神)の聖地として、それまで処女地であった中エジプトのアケトアテンに遷都した。が、死後多神教に戻す際に、歴史から記録を抹消され、今ではここまで(想像していた以上の)廃墟の町となっていた。後のセティ1世の葬祭神殿にある王名表からもツタンカーメンと共に抹消されているが、王墓にはアテン(太陽神)と妻、3人の娘などの壁画がある。元々の神殿のほぼ真東の山には三角形の谷(アケト)が今でも臨める。
出発前に「ツタンカーメンと出エジプトの謎―隠されたパピルスの秘密」(コリンズら)を読んでいたので、テル・エル・アマルナには大変興味を持っていたのだが、GWにも関わらず日本人ツアーが他にいないだけでなく、海外のツアー客も全くいなかった。行くのは大変だし、太陽が今でも燦燦と降りそそぐ砂漠は倒れそうに暑い、まともな食堂がないのでハエにたかられながら弁当を食べるしかない。しかし、3000年前の異端の王による遷都の裏の意味などに思い(想像)をはせることはエジプト旅行の醍醐味と言えよう。


2007 GW

エジプト旅行記(その1)

2009-05-21 00:12:22 | エジプト


エジプト旅行記の最初を飾るのはやはりスフィンクス。足元の夢の碑文から見上げるとなかなかの迫力。思っていたよりは小さかったというのが率直な印象。足元の砂をもって帰ろうとしたら、ガイドさんに、「呪いがあるかも。。。」とおどかされて断念した。他の人も水晶とかを拾ったが、後々やはり元の足元に返してもらうようガイドさんに頼んでいた。
5月2日には安部首相が20分ギザを観光したはずであるが、当然遊びで来ている筈はないだろう。カイロには環状線の道路が整備され、周りに建築途中のアパートが急速に増えているとのことだ。製薬会社などが既に進出しているようであるが、自由と繁栄の弧の上に、今後日本企業の進出も増えていくのではないか。


2007 GW

スターツオーパ ウイーン (その2)

2009-05-19 00:44:27 | オーストリア
 演目はモーツアルトの「魔笛」。劇場は、思っていたよりも小ぶりであった。席はREIHE(列)一桁の2番目に高い席(157ユーロにオーストリア側と日本側の手数料で4割かけ位)だったが、舞台と近く表情までが見える席だった。但しオーケストラボックスは指揮者の上半身くらいしか見えなかった。席選びはは値段も違うので結構悩んだが、結果としては満足。服装はどうしようか悩んで、会社に来ていく格好(紺ブレにダークのスラックス、やや派手目のネクタイ、黒靴)で行ったがちょうどよいくらいだった。結構現地の若い人も普通のスーツで隣に座っていた。女性は平土間は着飾っていても浮かないので、ドレスの許容幅も結構あると思う(和服の人もいた)。幕間には2階ビュフェでシャンパンのオレンジジュース割(5ユーロ位?)を女性の為にならぶ。ドイツ語もわからず、人もいっぱいなので、ちゃんと並んで買ったら時間がかかった。ただ2Fのベランダや周りの部屋もいる人も雰囲気がよく、時間は短いが華やいだ気分になった。
 座席には英語かドイツ語の字幕が選べるようになっていて、テレコムオーストリアのシステムのようだ。行く前に本とかビデオとかで内容を勉強していった人は、会場でドイツ人と一緒に笑っていたので、そういう一体感もありだと思う。
 終わった後は会場見学の時間もなく出されてしまったので、近くのワインケラー(アウグスティーナーケラー:アルベルティーナ美術館横)に入った。ドイツ語メニューに英語の注釈があったので、お店の人のおすすめの白ワインをカラント(でかいフラスコ)で、ソーセージや子牛の煮込みなどと食した。アコーディオン引きがきたのでシュトラウスの「ドナウ」「ラデツキー」を弾いてもらってウイーン気分を満喫した。後ろの席の外国人の夫婦も「ラデツキー」は楽しんでいたようだ。帰りは11:30ごろでしたが流しのタクシーを捕まえてホテルに帰った。タクシーはユーロなので日本並みに高いが、メーターもついており安心。
 不思議なことに、次の日、いつもより身長が伸びた気がした。まわりの人からも5cm位伸びたと言われたので、本当に伸びたのかも知れない。後日会社が始まったらちじんだと言われた。


2005 GW

スターツオーパ ウイーン (その1)

2009-05-19 00:43:04 | オーストリア

モーツアルト生誕250年ということで、中欧に行ってオペラでもという人も多いかと思いますので、経験談を。


ブタペストの日本人向け情報誌(月刊ハンガリージャーナル)によると、ウイーンの安全度は世界6位で東京より安全な(ブタペストは74位でやや悪い)ようだ。
 ということで夜にSTAATSOPER(国立オペラ座)に行った。チケットは日本の旅行代理店(そごう)で引換券をもらっていてオペラ座で入場券に引き換えた。引換え方は最初よくわからず、正面左側の行列(これは立見席の行列だった)に行ったり右往左往。開場時間(今回は1時間前)にオペラ座正面からやや右手のドアがさり気なく鍵があく(ドアは自分で開けないと気づかない)ので、入ってすぐに交換所がある。日本みたいに呼び込みもないし、親切な看板もないのでツアー慣れした人は最初まごつくでしょうが、一旦ドアがあけば、あとは流れで大丈夫。おなかが減りそうな人はオペラ座の中でサンドイッチと飲み物は開演前もやっているので、優雅にそこで食べて場内見学が最高のようです。私は知らなくて、ガイドさんに教わったホテルザッハー裏のJALUX横の地下にあるイタリアで言うオートグリル(チップなしのトレーで取る店)で、2人分あろうかというスパゲティとワッフルを頼んだが、とても食べ切れないし、優雅でもなかったので、そこは残念だった。



2005 GW

トルコ旅行記2 アタチュルクとサッカー

2009-05-17 14:05:05 | トルコ


トルコ共和国建国の父ケマル・アタチュルクは、今も街のあちらこちらにその肖像が飾られ、尊敬されている。彼は、自分の子孫にトルコの政治を世襲させると、能力がなくても国のトップとなり、真の民主主義ができないと考えて、結婚をしなかったという、まさに国家のことを考えて言行一致した人であった。翻って日本の民主主義をリードする人々やと明治維新で作りこんだシステムと比較すると、いろいろと感じることがある。

この写真は、そのアタチュルク廟に、サッカーのサポータ(ジーコのいたフェネルバフチェと思う)が必勝祈願に訪れている写真である。日韓ワールドカップの時にトルコと日本が戦ったが、その後半年くらいは日本からの観光客が激減したと言う。

ところで、トルコには兵役があり、このアタチュルク廟の衛兵なども、若い兵役中の兵士がやっている。トルコの男性は大体大卒直後くらいに兵役に入り、40日間風呂に入らず野営などの厳しい訓練を経験する。そうすると社会に出てからも、大抵の厳しいことには耐えられる強い精神を身につけることができるので、社会の中で好意的に受け取られているとのことである。アタチュルクも「内に平和、外に平和」を国是としているので、決して好戦的ではないが、人生の一番良い時期に苦労をする経験をサポートする仕組みとしては良いのかもしれない。

国民の平均年齢も28、9歳と大変若く、食料自給率100%、豊富な地下資源にもあまり頼っていない、今後期待できる国ではないか。日本も観光だけでなく、トルコとの日常の交流を増やした方が良いかもしれない。街を走る車をみると殆どが外車であり、外の力を柔軟に活用するように思える。そんな中、タクシーや公用車の半分位はヒュンダイが占めているようであり、トヨタやイスズトラックは高級、スイスではよく見かけるスバルなどは高級すぎて全く走っていない。