風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

子規の手紙(→漱石) 明治32年3月20日

2007-10-26 01:08:24 | 

拝啓 大ニ御無沙汰ニ打過(うちすぎ)候内ニはや大分暖く相成候。家庭の快楽多き者は音信稀なりといふ原則は小生昔より自らこしらえてためし候処、大概ははずれ申不(もうさず)。然るに家庭の快楽なき小生がかく御無沙汰に過ぐるは寒気のためと『ほととぎす』のためとに有之(これあり)候。年始以来は全く寒気に悩まされ、終日臥褥する事少からず、時には発熱などあり全体に身体疲労致候ため、『ほととぎす』の原稿思ふように書けず。もし四頁以上の原稿を書くとなるといつでも徹夜致し、そして後で閉口致すやうな次第に有之候。小生は前より夜なべの方なれども身体の衰弱するほどいよいよ昼は出来ず、夜も宵の口は余り面白からず十一、二時の頃よりやうやう思想活発に相成候。徹夜の翌日ハ何も出来ず不愉快極り候。翌夜寝てその又の日はまた原稿のために徹夜せざるべからざるやうに相成、月末より月始にかけては実に必死の体に候。しかし最早大分暖く相成かつ近来ハ発熱一向に無之少々くつろぎ申候。
 二、三日前神田まで出かけ候。今年の初旅に候。生憎虚子留守にて(妻君小児をつれて芝居にでも行きしかと察す)瓢亭宅ニ到リ蒲焼をくひ申候。
 その節、蒲焼の歴史を考へ見るに、貴兄らと神田川にてぱくつきし以来の事と覚え候。うまさは御推察可被下(くださるべく)候。


明治32年3月20日、子規から漱石へ宛てた手紙。

さて、漱石は後年ホトトギスに子規の回想記を掲載しています。
漱石お得意の諧謔たっぷりの文章なので多少の誇張はありそうだけど、二人の関係が想像できて面白い。
司馬さんが『坂の上の雲』で言っているように、「何でも大将にならなけりゃ承知しない」いわば子規のわがままを、漱石のゆったりとした性格が許容し、許容以上に漱石にとって子規の無我夢中さはときにとって愛すべき滑稽さとしてうつったのでしょう。
ちなみに上記回想記で漱石自身が述べているように彼は子規からの手紙を多く紛失しているけれど、子規は漱石からの手紙のほとんどを大事に保管していました。それは子規の性格ゆえなのでしょうが、今日私達が漱石の手紙を読むことができるのはそのおかげです。
もっとも漱石も、子規からの最後の手紙は掛け軸に貼って大切にしていました。漱石展で展示されているのはそれです。私はてっきり漱石の死後に誰かが掛け軸にしたのかと思っていたのだけれど、漱石自身の手によるものだと後でわかりました。漱石は掛け軸にした経緯について、『子規の画』という随筆を書いています。

子規が言っている神田川でぱくついたという蒲焼は、後年漱石も同じように回想していますねー。よほど印象に残る食事会だったのでしょうか。

なんか私も蒲焼を食べたくなってきた。
でも今日から5日間ほど台湾旅行なので、蒲焼の代わりに中華料理と中華デザートを満喫してきたいと思いま~す(^^)。

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