私は天下にありとあらゆる芸術品、高山大河、もしくは美人、何でも構わないから、兄さんの心を悉皆(しっかい)奪い尽して、少しの研究的態度も萌(きざ)し得ないほどなものを、兄さんに与えたいのです。そうして約一年ばかり、寸時の間断なく、その全勢力の支配を受けさせたいのです。兄さんのいわゆる物を所有するという言葉は、必竟物に所有されるという意味ではありませんか。だから絶対に物から所有される事、すなわち絶対に物を所有する事になるのだろうと思います。神を信じない兄さんは、そこに至って始めて世の中に落ちつけるのでしょう。
…
私は私の親愛するあなたの兄さんのために、この手紙を書きます。それから同じく兄さんを親愛するあなたのためにこの手紙を書きます。最後には慈愛に充ちた御年寄、あなたと兄さんの御父さんや御母さんのためにもこの手紙をかきます。私の見た兄さんはおそらくあなた方の見た兄さんと違っているでしょう。私の理解する兄さんもまたあなた方の理解する兄さんではありますまい。もしこの手紙がこの努力に価するならば、その価は全くそこにあると考えて下さい。違った角度から、同じ人を見て別様の反射を受けたところにあると思って御参考になさい。
あなた方は兄さんの将来について、とくに明瞭な知識を得たいと御望みになるかも知れませんが、予言者でない私は、未来に喙を挟さむ資格を持っておりません。雲が空に薄暗く被さった時、雨になる事もありますし、また雨にならずにすむ事もあります。ただ雲が空にある間、日の目の拝まれないのは事実です。あなた方は兄さんが傍のものを不愉快にすると云って、気の毒な兄さんに多少非難の意味を持たせているようですが、自分が幸福でないものに、他を幸福にする力があるはずがありません。雲で包まれている太陽に、なぜ暖かい光を与えないかと逼(せま)るのは、逼る方が無理でしょう。私はこうしていっしょにいる間、できるだけ兄さんのためにこの雲を払おうとしています。あなた方も兄さんから暖かな光を望む前に、まず兄さんの頭を取り巻いている雲を散らしてあげたらいいでしょう。もしそれが散らせないなら、家族のあなた方には悲しい事ができるかも知れません。兄さん自身にとっても悲しい結果になるでしょう。こういう私も悲しゅうございます。
私は過去十日間の兄さんを、書きました。この十日間の兄さんが、未来の十日間にどうなるかが問題で、その問題には誰も答えられないのです。よし次の十日間を私が受け合うにしたところで、次の一カ月、次の半年の兄さんを誰が受け合えましょう。私はただ過去十日間の兄さんを忠実に書いただけです。頭の鋭くない私が、読み直すひまもなくただ書き流したものだから、そのうちには定めて矛盾があるでしょう。頭の鋭い兄さんの言行にも気のつかないところに矛盾があるかも知れません。けれども私は断言します。兄さんは真面目です。けっして私をごまかそうとしてはいません。私も忠実です。あなたを欺く気は毛頭ないのです。
私がこの手紙を書き始めた時、兄さんはぐうぐう寝ていました。この手紙を書き終る今もまたぐうぐう寝ています。私は偶然兄さんの寝ている時に書き出して、偶然兄さんの寝ている時に書き終る私を妙に考えます。兄さんがこの眠から永久覚めなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします。同時にもしこの眠から永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気もどこかでします。
(夏目漱石 『行人』)
『行人』を読んでつくづく思うに、漱石の文章ってほんとーに色っぽいですね。。
色っぽいことなんか殆ど書かれていないのに、どうしてこんなに色っぽいんだろう。
以前TVで誰かが漱石を「どこか同性愛的な感覚で惹かれる」と言っていたけれど、そういう人は漱石の内面に対してはもちろんだけれど、こういう文章にも惹かれてしまうのではないかしら。
それに、人物描写も色っぽいのよね。
この“兄さん(一郎)”なんか、嫁の直さんよりよっぽど色気がある。
気が強くて、プライドが高くて、人の表裏が我慢できなくて、頑固なくせに脆くて……、あぁもう!なんなのこのツンデレ(>_<)!
そしてそれは言うまでもなく作者自身の投影なのだから、漱石に同性愛に似たものを感じる男性読者が一人や二人や百人いても全く不思議はないと思うわけですよ(もちろん作家としての漱石に対してであり、日常の付き合いとなるとまた別でしょうが)。
って、だんだん漱石を汚してる気分になってきた。。
ちがいます!最大の賛辞です!
最後の数行の静かな終わり方もいい。
友人Hの一郎に対する優しさが感じられて、最初からずっと続いていた緊張が最後に僅かにふっと抜けて、暖かい気持ちになる。
『坊っちゃん』のラストにもどこか通じるものがあるように思います。
この作品のレビューを読むと、「救いがない」とか「あまりに重い」というものをよく見かけます。
けれど、一郎の孤独は確かに壮絶な孤独ではありますが、彼に誠実に向き合い、その心を真摯に理解しようとしているHの存在は、それだけで十分にこの作品の「希望」となりうるのではないでしょうか。
この後に書かれる『こころ』で、“私”の存在に作品における「希望」を見出すことができるのと同様です。
そして一郎が『こころ』の先生と違うところは、その未来はまだ決まってはいないというところです。まだ閉ざされてはいない。
彼の未来が破滅へと向かわないためのチャンスは、彼自身と彼を愛する者たちの中に、まだ残されているのですから。
ここにわずかに、けれど確かに見い出せる希望は、とりもなおさず当時の漱石自身が周囲との関係のなかで生きていくために見い出そうとしていた希望だったように思えます。
Hが二郎へ宛てた手紙(上で引用した文章)は、一郎の分身である作者自身の周囲に対する偽りなき心情の吐露であり、静かな、けれど痛切な心の叫びだったのではないでしょうか。