今日は成人の日ですね。
新成人の皆さま、おめでとうございます。
ちなみにイベント事に無頓着な私は、自分の成人の日には日本におらず、その数日前にアメリカ南部に旅立っておりました。自分も成人式に出なかった母親は、残念がるどころか「親と同じねー」と笑っておりました。
そんな私も、気付けば人生の折り返し地点(平均寿命まで生きると仮定し)。
本当に、本当に“あっという間”でした。
ですから新成人の皆さん。
自分の心に素直に生きてください。
短い人生を、生まれ落ちたこの世界を存分に楽しんでください。
少なくともその価値は、この世界にはきっとあります。
「生きるために生まれてきたのに――」。
映画『かぐや姫の物語』の姫の言葉です。
月に還る前、なんでちゃんと生きなかったんだろうと、泣きながら言うのです。
私、もうぼろ泣きでした。ハンカチが見つからず、仕方なく羽織っていたストールで涙と鼻水を拭き拭きし、それでもしゃくり上げてしまい、周りの人達に迷惑になっちゃう…と思ったら周りも同じ状態でございました、笑。
『風立ちぬ』の時と同じく事前情報を何も入れずに観ましたが、想像していたよりずっとわかりやすい映画でした。
私はいわゆる物語的な輪廻転生を信じるには現代人でありすぎるのですが、それはそれとして、前にも何度か書きましたが、ほんの3~4歳の頃から自分の「遠い記憶」のようなものを時折感じる子供でした。
木々が揺れたり、雲間から太陽が覗いたり、風が吹いたり、そんな何気ない瞬間に、それは突然訪れるのです。友達と楽しく遊んでいる最中などでもです。その瞬間、切なくて切なくて泣き出したくなってしまうのです。具体的な記憶ではなく、ぼんやりとした感覚ですが、とても大事な何かを自分は忘れてしまっている、そんな気がするのです。そういうことが、子供の頃はしょっちゅうでした。
やがて学校にあがり谷川俊太郎さんの詩に出会い、『地球交響曲』の前身である龍村仁監督のNTTデータスペシャルに出会い、「自分だけじゃないんだ」と救われた気がしました。
人生も半ばになった最近では、「遠い記憶」にかなしくなるようなことは殆どなくなりました。思い出せなくても、その記憶はいつも私の中に、私と共にあることがわかったからです。そしてもうあと数十年もしたら、きっと私はもう一度その記憶を思い出させてくれる場所に行けるような気がするからです。中島みゆきさんの歌にある「遺失物預り所」のような所で、きっとみゆきさんみたいな人が「お待ち申し上げておりました」ってにっこり笑ってくれるような気がするからです。
ちょっと映画の話から脱線しちゃいました。でもこの映画を観ながら私がずっと感じていたのは、そのようなイメージでした。ですからエンドクレジットで「いのちの記憶」が流れたときには、涙の洪水。。。
来るべき時が来て、天の羽衣を着てこの世界で生きた思い出が失われてしまっても、なにもわからなくなっても、必ず憶えてる。きっとどこかで、また会える。
かぐや姫がその短い人生を終え、振り返った地球のなんと美しいことでしょう。
風に揺れる木々、舞い上がる桜の花、どこまでも白い雪、虫や獣たちの生命の息吹、子供たちの笑い声。
結果としてかぐや姫を苦しめることになってしまった翁の行為だって、ただかぐや姫を想ってのこと。自分が贅沢をしたいからなどという理由ではありませんでした。そういう悲しい擦れ違いも、人生の中では多々あること。翁の場合誤りに気付いたときにはもう手遅れでしたが、でもかぐや姫には、翁のずっと変わらなかった「想い」はちゃんと届いていたと思います。
『風立ちぬ』の堀越二郎と、かぐや姫。二人の主人公の人生は決して「幸福」ではなかったかもしれませんが、監督二人の伝えたかったことは共通するように思います。
「それでも」この世界は美しい。
だから、生きなさい、と。
そうそう、この映画を観ながらもう一つ私の頭に浮かんだイメージがありました。
私の大嫌いな(笑)映画『世界はときどき美しい』のなかの、大好きな詩「われらの父よ」(ジャック・プレヴェール)です。