「今回は、テーマが”捨てる”なんです。”捨てる””捨てられる”。その両方ですね」――。
中島みゆきは、11月15日から始まる夜会VOL.18「橋の下のアルカディア」についてそう言った。”アルカディア”という言葉には”楽園”という意味がある。
「日本人ならきっと橋の下の記憶はあると思うんです。橋の下。子供の頃に言われた覚えがないですか。「お前は橋の下で拾ったの」「お兄ちゃんは?」「橋の上」みたいな。なぜか捨て子は橋の下だった。”捨て子のアルカディア”ですね」
(中略)
「ごく単純に言ってしまえば、引き離された猫と女とその夫がもう一度出会うまでの話ですね。引き離す側に加わったのが多数の人間の力。人間が多数派になって行く時に個を犠牲にして自分も意志を失って狂ってゆく。そうやって引き離された3人をもう一度一緒になる時に解決出来るのが、集団から離れた人間、もしくは集団を捨てた人間。集団が個を捨て、個が集団を捨てる。そんなお話しかな(笑)」。
(公式サイトインタビューより)
みぞ~ぉの あら~しが 来る~と~きはぁ~
この~地は 川~へと 還~る~だろ~♪
今回の夜会にぴったりな、雨の千秋楽に行ってきました
私の夜会参加は青山劇場での『vol.14 24時着00時発』以来なので、8年ぶり(そんなに経ったんですねぇ・・・)。
今回はこの↑チラシをたまたま何かの公演でもらって、「これは観たい!」と思ったのです。このポスターのみゆきさん、とってもキレイなんですもん
その時には既に全公演分が完売していましたが(相変わらず大人気ですね~)、ぴあで追加販売があって、なんとか千秋楽に行くことができました。立見席8,000円也。
お財布のためにも千秋楽のチケットにして正解でした。
じゃなかったら絶対に、もう一回二回とチケットを買い足してしまっておりましたもの。本当はもっともっと観たかったですけど!
今回の夜会はみゆきさんと一緒に中村中さん&石田匠さんが出ずっぱりでしたが、このお二人がとっても良く、24時着~よりみゆきさんの歌唱は少なめでしたが、大変満足することができました。すごく適材適所だったと思う。中ちゃんのための“あたる書き”だって仰ってましたもんね。
しかし8年ぶりのみゆきさん、やっぱりみゆきさんは生に限りますねぇ!!
もちろん8年分の年は重ねられましたが(私もね)、その魅力は全く変わらず、すっっっごく素敵だった(>_<)
何度心の中で「姐さん・・・!!!」と叫んだことでしょう。
雲の上のような人なのに、なぜか身近にも感じられて、そんな綺麗で頼れる姐さん。
貴女と同じ時代に生きられた私は幸福者です。いや本気で。
以下、感想をストーリー消化&覚書も兼ねて。
一回しか観ていないので(夜会自体DVDも含めて24時着~しか観たことがないのです)、的外れな部分があるかもしれませんが、ご容赦いただきたくm(__)m
しかし正直なところ、仮に公式設定を全て知ることができても、疑問は完全には解決しないのではないかとも思ったり…^^;
個人的には、2回通ってしまった24時着~と同じくらい好みの作品でした。
24時着~は観終わった後に圧倒的な迫力に言葉を失う感じだったけれど、今回は観終わった後にちょっと懐かしいような人間的な温かさを感じられた舞台でした。
【一幕一場 地下壕:冬】
・天音(中村中)が掃除機をかけているとき、水晶宮の店内で水晶磨き用の紙が風でぱぁっと舞い上がった様子が、客席から見てとても綺麗だった。紙を追う人見(みゆきさん)も。
・天音と人見が九曜(石田匠)の警告にも関わらずシャッター街に残っている理由は、「立ち退かない」のではなく、「立ち退けない」のだと思いました。 「おそらくあなたの哀しみが あなたをこの地に縛るだろう」(呑んだくれのラヴレター@2幕)。失くし物が見つかったら去りますという人見さん。誰かを待っているという天音ちゃん。「なぜか橋の下」と言っていますから、本人達にもそれが何かはわかっていないのかもしれません。それでも“約束・誓い”を果たすまでは、彼らはここから動けない。
・「恋なんていつでもできる♪」、天音ちゃんと九曜さんのじゃれ合い、カワユイ(*^_^*)
・「いちど会ったらどうかしら♪」、人見さん、他人事みたいに歌ってますが本当にいいのですか~?
・九曜が「言えない謂れを私は知っている」と歌います。彼は、昔ここで人柱が行われたことを知っているのですね。そして九曜は前世の名(公羊:くよう)で呼ばれることは嫌うのに、「高橋」という苗字は嫌っていません。となると「名乗りたくない一族の名」とは、「高橋」ではなく、前世の「公羊」ということになる。
なので、こう考えるのはどうだろうか(夜会鑑賞は想像力駆使の連続デス・・・)
九曜の祖父一曜は村長の生まれ変わりなのです(同じ役者さんがやってるし)。で、彼は何かのタイミング(戦中の特攻直前とか)で前世の記憶を思い出したのではないかしら。そして、この場所で過去に起きた出来事を息子、孫へと言い伝えた。
彼が脱走兵となったのも、前世の記憶が関係しているのではないかな。
かつて集団(村)に属し個(人見)を捨てた彼が、今まさに集団(国)から捨てられようとしている。人柱と同じく、根拠のない迷信(神風)のために。そのとき彼は、集団を捨てようと思ったのではないかしら。そしてその翼を人を殺すためではなく、人を救うために使いたいと考えた(国捨て@二幕)。いつか再び来るであろう未曾有の嵐のときに、今度は個が犠牲になることなく、そこに住む人々が救われるために。
それとちょっと思ったのは、もしかしたら人見や天音と違い、九曜だけはもう前世の記憶が戻っているのではないかな、とか。前世の名(公羊:くよう)で呼ばれるのを嫌い、「名乗りたくない一族の名 この人生は誰のものだ」と酷く苦しんでいるのも、無意識ではなく、意識的なものだからではないかしら、とか。彼もまた、前世の哀しみに囚われている一人なのですよね。
いずれにしても前世で悲しい別れをした三人(二人と一匹)が、次の時代でこんな風に明るく楽しく出会えるとしたら、凄く素敵ですよね。この三人の関係、大好きです♪
【一幕二場 橋脚:天明2年】
むかーしむかし、まだ地下壕が川だった頃。
・洪水から橋を守るために妻の人身(みゆきさん)を人柱にする役目を引き受けさせられた公羊(匠さん)が、上手の階段で歌う「男の仕事」。石田さん、ぶらぼー!圧巻でした・・・。
・デカっ・・・
!天音ちゃんが二度ほど「私、デカいから」と言いますが、天音ちゃんはともかく、コイツは本当に半端なくデカいです。赤子の婉曲表現でしょうか。
・いつまでも一緒にいようね、とすあま()に語りかける人身。これが誓い・約束なのかな。
・「何を泣いていたか忘れても 自分でも見えない悲しみが 流れ続け 引き継がれてゆく 誓いは生きる」。地面に蹲って泣き崩れる公羊を前に、人身が歌う歌です。歌っているのは人身だけど、同時に公羊の心の痛みも歌っているのだと思った。人身が公羊を恨んではいないのは、みゆきさんの演技でわかりました。
・公羊、泣きながら人身に白装束を着せます。そして背中からギュッときつく抱擁。すみません、激萌えいたしました。。。。。。。。。
・「荒れ狂う流れは水じゃなくて人です 止めることのできない嵐は人です」。川に沈められる直前、人身が村人達を睨みつけながら歌います。本当に恐ろしいものは水ではなく、人。二幕でやってくる“毎時200ミリの未曾有の嵐”も、何か別のものの暗喩なのかもしれません。「人間が多数派になって行く時に個を犠牲にして自分も意志を失って狂ってゆく」、そのような状況。たとえば戦争、など。
・人身の形見の片袖を纏ったすあま(中ちゃん)が籠の中から歌う「人間になりたい」。一幕の終わりにふさわしい、凄まじい迫力でした。ぶらぼー!
【二幕一場 地下壕:夏】
再びの現代。夏になりました。
・「身体の中を流れる涙」by 天音ちゃん
階段で団扇をパタパタして蚊を気にしながら、誰かを健気に待っている天音ちゃん。
・そんな天音ちゃんに人見さんが歌う、「どうしてそんなに愛がほしいの」。
・猫のような動きを見せる天音ちゃん(記憶が戻りかけてる?)に、人見が歌う「ペルシャ」。サビは天音。
愛しい人が私を呼ぶわ 「迎えにきたよ、さあ行こうね」と
愛しい人が私を呼ぶわ 「捨てたわけではないのよ」なんて
なんだ、夢なのか
眠る天音ちゃん。
・暴走族が襲って来るけど、生きている(!)シャッター街に慄いて退散。まだ完全に死んでしまったわけではないのに(2軒だけど店は残ってます)、行政のために「いらないもの」として捨てられようとしている街の哀しみを感じました。楽しい場面なんですけどね。
・再びの「恋なんていつでもできる♪」。怪我した九曜さんを手当てする天音ちゃん。一幕より少し大人な雰囲気の二人。
・真っ暗な中、階段の上方に腰かけて人見が歌う「二隻の舟」。この場面、後方から見ると、暗闇の中でみゆきさんのシルエットだけが薄明かりに浮かび上がって、とてもとても美しかったです・・・・。オペラグラスを覗くと、みゆきさんの横顔と表情がまた壮絶に美しくて・・・・
。オペラグラスを上げたり下げたり大変。そしてこんなに長いフレーズを歌ってくれるとは思っていなかったので、感動でした・・・・。今回の夜会で最も好きな場面の一つ。
時はすべてを連れてゆくものらしい なのにどうして寂しさを置き忘れてゆくの
いくつになれば人懐かしさを うまく捨てられるようになるの
難しいこと望んじゃいない 有り得ないこと望んじゃいない
時よ最後に残してくれるなら 寂しさの分だけ愚かさをください
・(九曜さんが水晶球を酷く恐れたり、となんやかんやあって)、「呑んだくれのラヴレター」~「一夜草」。ここ、今回の夜会で一番好きだった場面!って、みゆきさんがいない場面じゃないの・・・。でも本当に大好きな場面なのです。
赤いリボンで束ねられた手紙を、一枚一枚楽しそうに読む天音ちゃん(呑んだくれのラヴレター)。
おそらくあなたの哀しみが あなたをこの地に縛るだろう
あなたが危ういそのときは 緑の手紙を開けなさい
続いて、「一夜草」(歌っているのは宮下文一さん)。
「ねんねこ」の前で引き続き楽しげに手紙を読む天音。「模型店タカハシ」の二階で、だいぶ体を壊している様子ながらも、やはり楽しげに手紙を書く男性。一階では、仏壇に向かい焼香をしながら、これまた楽しげに一緒に歌う九曜。時空が交差している、とても情緒的で美しい場面。
この前に「三年もたつのにまだ焼香?」と言う人見に九曜が「まだ三年しかたってない」と返していましたから、この二階の男性は九曜の父の忠なのでしょう。ラヴレターの中でも「私の父は~」と一曜のことを言っていましたし。
忠、次々と手紙を書いては紙飛行機にして、「ねんねこ」の方へ飛ばします。ここ、アニメ『風立ちぬ』のラストシーンを思い出しました。花束も投げちゃいますよ。そして一番最後にドデカイ紙飛行機を一つ折って(さすが模型店店主)、飛ばします。これが、「緑の手紙を開けなさい」というメッセージが書かれた手紙なのだと思います。また、「ねんねこ」裏の格納庫に零戦
があることも暗喩しているのでしょう。
後で判明しますが、この最後の手紙の文句はこうです。
未曽有の嵐が来る時は この地は川へと還るだろう
二度と生贄にならぬよう 緑の手紙を開けなさい
忠は誰に向けてこの手紙を書いたのでしょうか。私が一回だけ観た印象では、天音ちゃんというよりもBarのママに向けたもののように感じましたが(母親の昔のラブレターを楽しげに読む娘のように見えた)、正確なところはわかりません。 ※追記:DVDで見て、やはりこれは天音ちゃんに向けられたものだと思いました。
ですが、この橋の下で、いつも笑顔で彼にささやかなアルカディアを与えてくれた誰かに向けられたものであることは確かです。
そして、(私設定では)忠は一曜からこの場所の謂れと共に「いつか必ず必要になるだろう」と緑の手紙を託されていますから、死ぬ前にそれを手紙に書き遺したのではないかな。大切な人を守るために。
九曜が緑の手紙の存在まで知っていたかどうかは、わかりません。息子ですから知らない方が不自然な気もしますが。
またこの場面は、舞台の上の空気がすごーくノスタルジックで温かいのですよ。おそらく忠は、脱走兵の子として日陰で生きてきたのではないでしょうか(そしてその姿を見て九曜も育った)。でも、お酒を呑んで体も壊しているけれど、ささやかで温かな幸せがこの橋の下にはあった。
かつては人身と公羊とすあまが、そして忠が、今は人見と天音と九曜が営んでいる、贅沢ではないけれど、人間的で温かな幸せな生活。アルカディア(楽園)。
ところで「呑んだくれのラヴレター」は忠の歌だとして、「一夜草」は誰の歌なのでしょう。アルバムで聴いたときは夜のお仕事の女性の歌のように感じたのですが、夜会では男性の声で歌われていました。
この歌詞を男性の声で聴くと、出征前の男性が愛する女性に向けた歌、のようにも聴こえます。
願いどおりの風は吹かない 運び去られるこの命
下手に愛など持とうものなら 裏切り者になるばかり
これは一曜の心を歌った歌なのではないかしら。だから、舞台の上の忠が歌わず、別の人がボーカルになっているのではないかしら。と同時に、忠や天音や人見のような、自分の命も風に吹かれているように生きる、弱いけれど日々の小さな幸せを見つめている、そんな人々の心も歌った歌なのではないかしら。
もしも明日がもひとつあれば 心残りはないだろうか
ここ、CDでもいつも泣いてしまいます・・・
そしてついに、集中豪雨がやってきます。
今まさに水に沈められようとしている街。
もっとも個人的には、行政によるこの行為は、さほどは恨むべき行為でもないように感じました。何度も警告はしていましたし、放水路にしなければより多数の被害が出たのでしょうし。それでも、その陰には水に埋められた街の存在があったということは、忘れてはならないことでしょう。
ちなみに地下壕に人が残っているかを確かめていない云々のようなリアルな話は、これ以降はもう考える必要はないと思います。
自分たちが地下壕に閉じ込められたことを知った、人見&天音&九曜の三人。
パニックの中、天音ちゃんがあの「危うくなったら緑の手紙を開けなさい」の手紙(ややこしい)を再び読みますよ。
「でも、緑の手紙って一体どこにあるの…!?」
探しても探しても、見つかりません。
と、何やら天音ちゃんの様子がおかしいですよ。天音ちゃん、なんとだった頃の感覚が蘇りました!
ネコのあらゆる特権と引き換えに人間になった天音ちゃんでしたが、未曽有の危機を前に、前世の感覚を思い出したのです。
【二幕二場 格納庫】
さぁ、夜会もいよいよクライマックスですよ。
終わらないで~~~(>_<)とずっと心の中で思っていました。
ネコの勘で天音ちゃんが見つけ出した、「ねんねこ」裏手にある、格納庫の扉。
その手前には、階段脇にあったゴミ籠。
扉から漏れる細い一筋の光。
三人で力を合わせて扉をこじ開けます。「緑の手紙」は、この格納庫の扉のことだったのでしょうか。
眩いばかりの光を背負って現れたのは、戦闘服姿の男性。九曜の祖父一曜です。
この世の恥とは何ですか 御国の恥とは何ですか 身内の恥とは何ですか 心の恥とは何ですか
私の願いは空を飛び 人を殺す道具ではなく 幸せにする翼だった
集団から捨てられたのは人身、すあま、そして公羊もでしょうか(彼はちょっとだけ立ち位置が違う気もしますが)。
集団から離れた人というのは、忠。集団を捨てたのは、一曜。
かな・・・(自信ない^^;)
一曜から飛行帽を託され、飛行機に乗り込む九曜。続く人見。
翼の上に立ちIndia Gooseを絶唱するみゆきさんが圧巻です。やっぱり夜会はみゆきさんのものなのだと、強く感じた瞬間。
さぁみんなで脱出だ!というとき、天音が飛行機に乗ることを頑なに拒みます。
「私、デカいから」
たしかに前世のあなたは化け猫級だったけど、今のあなたは細い女の子よ。だから大丈夫なのに、拒んで(一幕のケージに見立てられた)ゴミ籠に入ってしまう天音。重い自分が乗ると飛行機は飛べないと強く信じ込んでしまっている様子です。主人を救えなかった前世の哀しみは、トラウマとなって彼女をこの地に縛り付けてしまっているのでしょうか。最初に川へと沈んだ人身、すぐに後を追った公羊と異なり、心の哀しみを抱えながらひたすら主人の姿を求め彷徨っていた(銀の猫云々@一幕二場冒頭)すあまの魂の傷は、実は一番深いのかもしれません。
やはり前世の記憶を取り戻し、天音=すあまだと気付いた人見。私も乗らない!と、急かす九曜を殴って一緒に籠に入ります。
こうなったら全員一緒に救ってやる!と、九曜、籠を紐で機体に括り付け、離陸!!!
ちょ、舞台セット凄すぎ・・・!機体、本当に上がってますよ・・・!!最後に零戦が上がるというのは事前情報で知っていましたが、想像以上でした(もっとちゃちい仕掛けかと思っていた)。
さすがだわぁ、みゆきさん
バッドエンドではないのでカタルシスとはちょっと違うのかもだけど、まさにカタルシスという言葉がぴったりなラスト。抑圧された魂の解放。
ただ、この脱出は自力によるものではありますが、強者の積極的なそれではなく、弱い立場の者のそれなのだと思います。彼らは決して強い立場にいる人間ではありません。
ほら次の雪風にあおられて
小さな小さな鳥の列が なぎ払われる
小さな小さな鳥の列が 組み直される
飛びたて 飛びたて 戻る場所はもうない
飛びたて 飛びたて 夜の中へ
(India Goose)
ところで人身&人見って、公羊&九曜に対するより、すあま&天音に対する方が愛情の示し度合が強くね・・・?とは、今回の夜会を観た誰もが感じることでしょう。私など、みゆきさんって男よりネコの方が好きなのかしら?とかアホなことまで考えてしまったほど。
大人の男は放っておいてもとりあえず自力で生きられるけれど、(飼い)ネコは飼い主が加護しなければならない存在、という意識の違いでしょうか。もちろん赤子も。
以上です。
こんな感じでいかがでしょう、みゆきさん・・・・・・・
さすが収録アルバムのタイトルが『問題集』なだけあるわ。。。一筋縄でも二筋縄でもいかない。。。
夜会曲ではないけれど、アルバム一曲目の「愛詞」の歌詞が胸にグサグサと突き刺さる。
「わかる人にしかわからない」
修行不足ですみませんっっっ!
過去の夜会DVDを観て、出直してきますっ(まずは海嘯を注文いたしました)。
ですから、どうかどうか同じキャストで(そしてもう少~しでいいのでわかりやすい演出にして・・・)再演してくださいまし。DVDも出してくださいまし。お願いします!!!
【カーテンコール】
24時着ではたしかカテコがなかったと記憶しているので(その代わりとして命のリレーがあった)、コンサートにも行ったことのない私は、素で話す生のみゆきさんを見るのはたぶんこれが初めて。
やっぱりとっても素敵&可愛い(>_<)!
母親くらいの年齢の方に可愛いはおかしいかもしれないけど、ちょっと抜けてるような雰囲気がなんとも可愛らしくて、歌っているときとのギャップがいいです笑。
中さんと石田さんは、登場したときから胸がいっぱいな表情をしていました。
特に石田さんは必死に歯を食いしばっていたけど、すぐにも泣いちゃいそうだった
みゆきさんの挨拶。
「これで23公演が全て終わりましたが、ひとつ皆様に謝らなければならないことが・・・」の言葉で、会場中からクスクス笑い。
中さんが「え?なになに?なんのこと?」という風に周りをキョロキョロしている様子が可愛かったです。
みゆきさん:「全公演中、歌詞を間違えなかった公演が一回もありませんでした!」
客席:大喜びで拍手
みゆきさん:「この分では大晦日もおそらく・・・」
客席:またもや拍手(←なぜ笑)
みゆきさん:「期待していてください」
客席:大拍手
そして今回の夜会について、「観終わったときにちょっとだけ幸せになれるようなものを創ろうと思った」と。
はい、今夜も幸せな気持ちをいっっっぱいいただきましたよ
最後に出演者の方から緑の手紙をもらって、客席に手を振って下手へ去っていったみゆきさん、とても格好よかったです
さて、最後にもう一度、話を戻させてください。
今回の夜会は、「集団のために個が犠牲にならない」そういう社会にしていきましょう、というみゆきさんの強い想いなのだと私は感じました。
以前、美輪明宏さんについて、(美輪さんの言葉に100%同意なわけではないけれど)この国には彼のような大人がもっともっと必要だと思う、とこのブログで書いたことがあります。
そして今回久しぶりにみゆきさんの舞台を観て、同じことを感じました。
みゆきさんと美輪さん。このお二人の舞台に、私は似たものを感じたのです。
その舞台を観終わって劇場を出ると、世界がちょっとだけ違って見える。汚いはずのものが汚く見えない。苦しかったはずのものが、前ほどには苦しく感じない。劇場に入る前よりも、ちょっとだけ世界が生きやすい所に感じられるのです。少しだけ呼吸が楽に感じられるのです。
自殺をする人は自分自身に負けるのだ、とよく言ったりしますよね。それも確かにあるでしょう。でもそれ以上に、私はやはり、彼らは「社会に」潰されるのだろうと思うのです。社会が彼らを殺すのだと思います。
彼らは確かに弱かったのでしょう。この社会で生きられないほどに弱かったのでしょう。
でも、ただ生きるために、そんなに私達は強くあらなければならないのでしょうか。傷つかない心を持たねばならないのでしょうか。
集団の犠牲になるのは、いつだって弱者です。
社会を作るのは人間です。集団は個人の集まりにすぎません。
みゆきさんのような大人がもっと増えれば、この国も今よりもう少しは生きやすい社会になるのではないかと、そんな風に感じた夜でした。
今年はあともう一回みゆきさんに会える!紅白!歌うのは麦の唄でしょうか?
【キャスト】
中島みゆき :橋元人見(占い師) 人身(村女)
中村 中 :豊洲天音(Barの代理ママ) すあま(猫)
石田 匠 :高橋九曜(ガードマン) 公羊(村男)
宮川 崇 :警官 村長 高橋 忠(父:模型飛行機店主) 高橋一曜(祖父:脱走兵)