皆さま、あけましておめでとうございます
年末年始はいかがお過ごしでしたか?
私は元旦の朝に近所のデパートに福袋を買いに出た以外は、おせちを食べだり、日本酒を飲んだり(獺祭と司牡丹 獺祭の大吟醸おいしいねえ!)、休みに入る前に図書館で借りた『レ・ミゼラブル』を読んだりしながら、ひたすら食っちゃ寝な正月でございました
なぜレミゼかというと、先日ご紹介したヒュー・ジャックマンのインタビューを読んで、原作を読み返したくなったからです。以前に抄訳は読んだことがあるけれど、全訳は初めて。
いやあ、全訳版は忍耐が必要ですね~。ストーリー部分はスリリングでサクサク読めちゃうけれど、合間合間に挿入されている作者自身のマニアックな蘊蓄は、フランスの地理や歴史の知識がない私にはなかなかキツい
。しかしその部分を読み飛ばしてしまうとレミゼという作品を真に理解できないように感じられて(実際そうだと思う)、めげずに読む。ということが文庫本の1~5巻まで繰り返されるのであった。
そして知ったのですが、ミュージカルの最後で歌われる"To love another person is to see the face of God.(誰かを愛することは、神の顔を見ること)"の言葉は、原作には登場しないんですね。あえてあげるなら、ユゴーの死後に出版された『La fin de Satan(サタンの終わり)』という未完の詩集の中の"l'essence de Dieu, c'est d'aimer.(神の本質は、愛すること)"という言葉が最も近いもののようです。でもレミゼの作品全体で言いたかったことはまさにそのことだと思うので、英語版作詞者のKretzmerさんはちゃんとそれをわかっておられたのだな。
以下、感想です。小説についてというより、小説を通して語られているユゴーの思想についてを中心に。自分用覚書と頭の整理のために書いているので、長いです。
『レ・ミゼラブル』は1864年から1962年の98年間カトリック教会の禁書リストに入っていたそうで、ユゴーが教会に批判的な文章を書いていることが理由のようです。もっとも彼はキリスト教という宗教自体を批判しているわけではないんですよね。ただ、ユゴーが理想とする宗教と、教会が説くキリスト教の姿は違った。ユゴーが考える神と、教会が考える神の姿は違った。彼の心の中には彼自身の神、彼自身の宗教というべきものがあった。そういう思想は、教会の出世街道から外れた道を歩んだミリエル司教の人物造型にも表れているように思います。
ここで書いておかなければならないと思うことは、司教がいわば信仰の外部に、信仰の彼方に、過度の愛を持っていたということである。・・・この過度の愛とは、なんであったか?それは前に示したように、人間からあふれ出て、ときには事物にまでひろがっていく、澄みきった好意である。・・・
この人を光り輝かせていたのは、心情であった。彼の知恵は、心情から出てくる光でつくられていた。体系は全くなくて、行為が多かった。・・・このつつましい魂は、ただ愛した。それだけなのである。・・・彼は嘆いている者や、罪を償う者の上に、身をかがめた。彼には世界が大きな病気のように思われた。いたるところに熱を感じ、いたるところに痛みを聴診し、謎を解こうとはせずに、傷に包帯をしようとした。・・・存在するものは、このまれにみる善良な司祭にとっては、慰めを求めている、永久に悲しいものなのであった。
金の発掘に働いている人びとがいる。彼の方は、憐みの発掘のために働いていた。一般的な悲惨が、彼の鉱山であった。いたるところにある悲惨は、いつも親切の機会にすぎなかった。「互いに愛し合うべし」彼はこれを完全なことだと述べ、これ以上のことは何も願わなかった。そしてこれが彼の教理のすべてであった。・・・ビヤンヴニュ閣下は、神秘な問題を、検討したり、いじくり回したりして、自分の精神を混乱させたりせずに、それを外からみとめて、魂の中にその暗黒にたいする真面目な尊敬の念をいだいていた、単なる一人の人間であった。
(第1部第1章13、14)
また第1部で元革命議会議員のGがミリエルに言う、”神”の姿。
Gは革命派の多くの同類と同じく、無神論者と呼ばれる種類の人でした。
ミリエルは、死にかけているGに「進歩は神を信じるべきです。善は不信のしもべを持つことはありえない。無神論者は、人類の悪い指導者です」と言います(ミリエルって大人しい性格の人じゃないよね)。
Gは何も答えず、それから涙をいっぱいにためて空をながめ、独り言のようにこう言いました。
「おお、お前!理想よ!お前だけが存在する!」
司教はなんとも言えない一種の衝動を覚えた。
ちょっと沈黙してから、老人は空の方に一本の指をあげて、言った。
「無限は存在する。あそこにある。無限が自我を持たないとすれば、自我が無限の限界になるだろう。無限は無限でなくなる。言いかえれば、無限は存在しないだろう。ところが無限は存在する。だから無限は自我を持っている。無限の持つ自我、これが神だ」
(第1部第1章10)
これは、第2部第7章で語られる作者自身の思想と重なります。
われわれの外部に無限なものがあると同時に、われわれの内部にも無限なものがあるのではないか?この二つの無限なものは、互いに重なり合っているのではないか?・・・下にある無限の中に自我があるように、上にある無限の中にも自我があるはずである。下にある自我、それが魂であり、上にある自我、それが神である。思惟によって、下の無限を上の無限に接触させること、それが祈りと呼ばれる。
人間の精神からは何ものも取上げまい。取上げることは悪いことである。改革し、変形させねばならい。人間のある種の能力、思惟や夢想や祈りなどは、未知なものに向けられる。未知なものとは一つの大洋である。良心とは何か?未知なものへの羅針盤である。思惟、夢想、祈り、それこそ偉大な神秘的な輝きである。それを尊重しよう。この魂の荘厳な光は、どこへ進んで行くのか?闇へ向って、つまり、光明に向って進むことである。
デモクラシーの偉大さは、何も否定しないことであり、人間性を何一つ否認しないことである。人間の権利のそばに、少なくともそのわきに、魂の権利がある。
狂信を打破し、無限を崇拝すること、それが法則である。・・・
無限なものの意志、すなわち神を否定することは、無限を否定しないかぎり不可能である。虚無は存在しない。ゼロも存在しない。すべては何ものかである。・・・すなわち、信仰と愛という二つの原動力なしには、人間を出発点と考えることもできず、進歩を目的と考えることもできないと。進歩は目的である。理想は典型である。理想とは何か?神である。理想、絶対、完全、無限、どれも同じ言葉である。
外部(上)の世界に存する自我が神であり、内部(下)の世界に存する自我が魂である、と。人間=出発点であり進歩=到達点であると理解するためには、信仰と愛という2つの原動力が必須である、と。
ただ、「進歩は目的である。理想は典型である。」という部分の意味が、どうもよくわからない・・・。そこで原文の仏語版と英訳版の同じ箇所を読んでみました。
Le progrès est le but, l'idéal est le type.(Progress is the goal, the ideal is the type.)
Qu'est-ce que l'idéal? C'est Dieu.(What is the ideal? It's God.)
Idéal, absolu, perfection, infini; mots identiques.(Ideal, absolute, perfection, infinite; identical words.)
「進歩はゴール(目標)である。理想は化身である。理想とは何か?神である。」
うん、この方がわかりやすい。といって全巻を英語で読む気力も語学力もないですが。
ミリエル司教が王党派という設定も面白いですよね。この場面の司教、人間くさくて好き
フランス革命について「あなたがたは破壊した。怒りを含んだ破壊は信用できません」と言うミリエル司教に、Gは言います。
「さあ!神父さん、あなたは真実のなまなましさがお好きではない。キリストはそれが好きでしたよ。彼は鞭を取って、神殿を清めた。その光にみちた鞭は、真理をきびしく、告げ知らせた。彼が〈幼な子らをわれらのところに〉と叫んだとき、子供たちに区別をつけなかった。バラバの子とヘロデ王の子を、平気で近づけた。罪のないこと自身が、王冠なのです。罪のないことには、身分の高さなどどうでもいいのです。それは、ぼろをまとっていても、王家の百合花をまとっていても、同じように荘厳なのです」
「そのとおりです」司教は低い声で言った。
「重ねて言いたいのは」と革命議会議員はつづけた。「あなたはルイ十七世の名をあげた。いいですね、われわれは罪のない人たち、殉教者たち、子供たち、上の者も下の者も、みんなに同情するのだね?賛成じゃ。だが、それなら、前にも言ったが、93年以前にさかのぼるべきだ。われわれが同情をはじめるべきなのは、ルイ十七世以前だ。わしはあなたと一緒に王子たちに同情する、あなたがわしと一緒に民衆の子に同情してくださるならば」
「わたしはすべての人に同情します」と司教は言った。
「平等にですよ!」とGは叫んだ。「もし秤がどちらかに傾くべきなら、民衆の方であって欲しい。民衆はずっと長いこと苦しんでいる。・・・大革命は、全体的に言って、偉大な人間的肯定だが、それは別として、93年は、残念ながら一つの返答なのだ。あなたはそれを苛酷だと思っているが、それでは君主制全体はどうなのか?・・・わしは大公妃で、王妃だったマリー・アントワネットに同情する。だが、新教徒の哀れな女にも同情する。この女は1685年、ルイ大王の治世に、子供に乳をやっている最中に捕らえられた。腰まで裸にされて、柱にしばられ、子供は引離された。乳房は乳にあふれ、心は悲しみでいっぱいだった。子供は空腹で青ざめ、乳房を見て、死にかけながら、泣きわめいた。刑の執行人は、乳飲み子の母である女に、子供の死か、良心の死かを選ばせて、改宗しろ!と言った。母親に適用されたこのタンタロスの刑罰を、あなたはなんと言いますか?よく覚えておいてください、フランス大革命には、正当な理由があったのです。その怒りは将来許されるでしょう。その結果は、よりよい世界です。その最も恐ろしい打撃から、人類にたいする愛情が出てくるのです。・・・いかにも、進歩の激しさは、革命と呼ばれている。それが終ったとき、人類は苛酷な目にあった。だが進歩した、ということがみとめられるのだ」
革命派(共和派)のGの言葉はミリエルを驚嘆させますが、Gが彼に与えたのは政治的影響などではなく、より大きな意味での人間的影響だったのだと思います。彼がGと出会った後に「前より優しくなった」というのは、彼の人間的な一つの”進歩”だったのでしょう。
ここでも、Gの革命や人類の進歩に関する考え方は、ユゴーの思想に重なります。
第4部第10章「1832年6月5日」の中で、ユゴーはこう書いています。
暴動というものと、反乱というものがある。それは二種の怒りである。一方はまちがっており、他方は正しい。・・・権利が行動している物音は、自然にわかるものであり、いつも混乱した群衆の戦慄から生ずるとはかぎらない。狂気じみた怒りがあり、ひびの入った鐘がある。警鐘がすべて青銅の音を出すとはかぎらない。情熱と無知の振動は、進歩の動揺とは異なる。立て、と言うのもすべてまちがっている。暴力的な後退はすべて暴動である。後退は人類にたいする暴力行為である。反乱は真理の発作的な怒りである。反乱が動かす敷石は、権利の火花を散らす。これらの敷石も、暴動の際には泥しか残さない。ルイ十六世に反抗するダントンは反乱であり、ダントンに反抗するエベールは暴動である。だから、ラファイエットが言ったように、反乱はときによって最も神聖な義務となりうるが、暴動は最も悲しむべき暴行となるかもしれないのである。・・・武力によるあらゆる抗議は、最も合法的なものでも、8月10日(1792年)でも、7月14日(1789年)でも、初めは同じように混乱する。権利が解き放たれる前には、喧噪と泡立ちがある。初めは、河も急流であるように、反乱も暴動である。一般に、それは革命という大洋に達する。・・・
だが、これらはすべて過去のことである。未来はまた違う。普通選挙にはすばらしいところがあり、暴動をその原則によって取消し、反乱に投票権を与えることによって、その武器を奪ってしまう。市街戦であろうと、国境戦であろうと、戦争の消滅、それが必然の進歩である。今日がどのようなものであれ、平和、それが「明日」なのである。
なお、反乱と暴動、この両者の微妙な相違点を、いわゆるブルジョワはほとんど知らない。彼らにとっては、すべてが暴動であり、単純な反逆であり、主人にたいする番犬の反抗であり、鎖と犬小屋で罰しなければならぬ傷害の試み、吠え声、鳴き声である。それも、犬の頭が突然大きくなり、暗闇の中でライオンの顔のように、ぼんやりと浮び上がってくる日までのことだ。そのときブルジョワは叫ぶ、「民衆万歳!」と。
以上の説明のあとで、さて歴史にとって、1832年6月の運動とは、なんであろう?暴動か?反乱か?
それは反乱である。
この1832年の運動は、急激に爆発し、悲壮に消滅したが、そこには多くの偉大さがあり、それを暴動としかみとめない人びとでも、尊敬の気持ちなしにはそれについて語れないほどである。
この1832年6月の反乱は失敗に終わりますが、ユゴーは革命時の民衆とブルジョワを比較して、こんな風に書いています。
1793年には、そのころ流れていた思潮の善意によって、それが狂信の日か、感激の日かによって、フォブール・サン・タントワーヌから、野蛮な群衆が出たり、勇壮な部隊が出たりした。
野蛮。・・・あの髪を逆立てた人たち、革命の混沌における創世記的な日々に、ぼろを着て怒鳴り散らし、たけだけしく、棍棒を振上げ、鶴嘴をかざして、うろたえた古いパリに襲いかかった人たちは、何を望んでいたのか?圧制の終末を、暴政の終末を、君主の生殺権の終末を、男には職を、子供には教育を、女には社会の温情を、万人に自由、平等、友愛を、パンを、万人に思想を、世界の楽園化を、進歩を、望んだのであった。そしてこの神聖で優しく甘美なものである進歩を、彼らは、圧迫されて、われを忘れて、恐ろしい形相で、半裸体で、棍棒を握りしめ、唸り声を立てながら、要求したのだ。なるほど野蛮人に違いない。だが、文明の野蛮人だったのである。
彼らは狂ったように権利を宣言した。たとえ戦慄と恐怖によってでも、人類を楽園に追いこもうとした。彼らは野蛮人のように見えても、実は救い主だったのである。闇の仮面をつけて光を要求していたのである。
こうした、たしかに残忍だと言えるが、善のために残忍になった人たちと対照的に、別の、にこやかな、刺繍や黄金やリボンで身を飾り、宝石をちりばめ、絹靴下をはき、白い羽飾りをつけ、黄色い手袋をはめ、エナメル靴をはいて、大理石の暖炉の隅のビロード張りのテーブルに肘をつき、過去の、中世の、神権の、妄信の、無知の、奴隷の、死刑の、戦争の、維持と保持を穏やかに主張し、サーベルと火刑台と断頭台を、小声で上品にたたえる人たちがいる。私に言わせれば、文明の野蛮人と野蛮の文明人のどちらかを選ばせられたなら、私は野蛮人の方をとるだろう。
だが、幸いなことに、もう一つ別の選択が可能である。前進するにしろ、垂直に飛び降りる必要はない。専制主義もテロリズムも必要はない。われわれは傾斜のなだらかな進歩を望む。
神がそれを準備する。傾斜をなだらかにすること、それが神の政治のすべてである。
(第4部第1章5)
多くの血が流されて失敗したこの1832年6月の反乱も、進歩の傾斜をなだらかにさせる神の政治であった、という意味になるのでしょうか。そして私達の世界は今もまだその道程の途中にあるのだ、と。
ユゴーの筆は、共和派を描くときだけでなく、王統派やボナパルト派を描くときにも非常に鮮やかに踊っています。
読んでいると「ん?ユゴーは王党派だったっけ?」とか「帝政を支持してる?」と錯覚してしまうほど。それは、そのどれもを、良い面も悪い面も含め、彼自身が身をもって、心をもって体験してきたからでしょう(執筆時には共和派になっていたユゴーも、この作品の舞台の頃はそうではなかった。また彼はナポレオン一世の熱烈な支持者だった)。だから上記のGの言葉だけでなく、マリユスの思想が王党派→ボナパルト派→共和派へと変化していく過程の描写も、ものすごくリアルで説得力がある。これは歴史小説ではなく、同時代に書かれたものであることを感じさせる。そしてユゴーがそんな風に自身の政治観を目まぐるしく変化させることに柔軟であった理由は、ユゴーがそれを"変化"ではなく人間的な”進歩”と捉えていたからではないかと思う。彼には宗教の宗派や政治の党派を超えた所にまず彼自身が理想とする人間や世界の姿があって、それを実現するための道程を彼自身が歩んでいる、という感覚だったのではないでしょうか。その根底を成しているのは人間の愛であり、それはイコール神である、とそういう考え方だったのではないかと思います。"To love another person is to see the face of God."という軸こそが彼の根底にあったのだろうと。彼は1881年の遺書の中で「私は教会での祈りはすべて拒絶する。すべての人々の魂のために祈ってもらいたい」と書いています。
ところで、圧倒的不利な状況の中で学生達がバリケードに立てこもっているときに、周囲の家々が次々と彼らに対して戸を閉じていく場面。彼らは市民のために命を投げ出して戦っているにもかかわらず、その市民達が彼らに対して戸を閉じる場面。そして彼らを見殺しにする場面を読みながら、そういう面がある世の中というものを思いながら(あるいはそれが世の中であると思いながら)、作者の俯瞰した視点からの描写を読みながら、中島みゆきさんの『世情』を思い出していました。
『世情』の詞って私にとってみゆきさんの歌の中で断トツで難解な詞なのですが(正確なところは今も理解できていない)、なんとなくこの場面の描写に重なったのでした。
望むより早く、人民を不意に前進させることができるものではない。人民を強制しようとする者に災いあれ!人民は思いどおりには動かされない。そんなとき、人民は暴動をほうっておく。暴徒はペスト患者ということになる。家屋は絶壁となり、戸口は拒絶となり、正面入口は壁となる。その壁は見たり、聞いたりするが、望みはしない。戸口をちょっとひらいて、救ってくれないだろうか。いや、その壁は、裁判官だ。見守り、そして断罪する。閉ざされた家々は、なんと陰気なものか!家々は死んだように見えても、生きている。そこで生活が停止されたようでも、根強くつづいている。ここ二十四時間、誰もその家から外出した者はいないが、一人の住人も減ってはいない。その岩の内部で、人びとは行き来し、寝起きしている。そこには家庭があり、飲み食いし、おびえている。恐ろしいことだ!恐怖があの恐ろしい冷淡さを正当化する。そこに臆病がまじっていることが、その罪を軽くさせる。しかも、恐怖が情熱に変ることが、ときには見受けられた。恐慌が激怒に一変し、用心が憤怒に一変することもある。・・・「あの連中は何を要求しているのか?奴らは決して満足することがない。平和な人たちまで巻き添えにする。これでも革命が足りないといわんばかりだ!奴らはここに何をしに来たんだ?うまくいったらお慰みだ。奴らには気の毒だが、自業自得だ。当然の報いを受けるだけだ。あれはごろつきの集まりだ。何より戸口をあけちゃいかん」。そして家屋は墓のような姿になる。暴徒たちは、その前で、死の苦しみを味わう。散弾や抜き身のサーベルが押寄せるのを見る。悲鳴をあげても、聞く者はあるが、誰も来てくれないと知っている。彼らをかくまえる壁もあり、救うことのできる人びともいる。しかもその壁は生身の耳を持ち、その人びとは石の心を持っている。
誰をとがめればよいのか?
誰でもなく、しかもみんなをである。
われわれが生きるこの不完全な時代をである。・・・
進歩とは人間の在り方である。人類全般の生命が"進歩"と呼ばれ、人類の集団的な歩みが"進歩"と呼ばれる。進歩は前進し、天上的なもの、神的なものに向って、人間的で地上的な大旅行をする。遅れた連中と一緒になるため、ときどき休止する。・・・
絶望する者は、正しくない。進歩は必ず目ざめる。また結局、進歩は眠りながらも前進したのだと言えるだろう。なぜなら進歩は成長したからである。それが再び立ち上がったのを見ると、前より高くなったのがわかる。いつも平穏でいるかどうかは、川の責任でもないし、同様に進歩の責任でもない。そこにダムを建てたり、岩を投げこんではいけない。障害物は水を泡立たせ、人類を沸騰させる。そこから混乱が生ずるが、その混乱のあとで、前進したことがみとめられる。普遍的平和にほかならない秩序が確立されるまでは、調和と一致が君臨するまでは、進歩は段階として革命を伴うであろう。
では、進歩とは何か?それは今述べたとおりである。人民の永遠の命である。
ところで、ときには個人の一時的な生命が、人類の永遠の生命の妨げになることがある。
きっぱり言うならば、個人にはそれぞれ異なった利害があり、その利害のための契約をし、それを擁護したところで、反逆罪にはならない。現在、容認しうるほどのエゴイズムを持っている。一時的な生にも権利があり、絶えず未来のために犠牲となる義務はない。・・・「わたしは生存している」と”万人”という名の者がつぶやく。「わたしは若く、恋をしている。わたしは年寄りだし、休息したい。わたしは一家の父で、働き、成功し、商売も順調だ。貸家もある。金は国に預けてある。わたしは幸福だ。妻子があり、それらすべてを愛している。わたしは生きたいのだ。わたしにかまわないでくれ」――そこから、あるときには、人類の高潔な前衛にたいする、奥深い冷淡が生ずる。
ところで、ユートピア思想も、戦いを起せば、光輝ある領域からははみだすことをみとめよう。明日の真理であるユートピア思想は、昨日の虚偽から、戦闘という方法を借りる。未来でありながら、過去のように行動する。純粋な思想でありながら、暴力となる。自己の英雄主義に暴力を混入させ、当然その責任を負わされる。・・・
このような保留をつけたうえで、しかもそれを厳重につけたうえで、私は、未来の光栄ある闘志たち、ユートピア思想の司祭たちが成功しても、しなくても、彼らを讃えずにはいられない。たとえ失敗したとしても、彼らは尊敬すべきである。いや、おそらく不成功の中でこそ、彼らの尊敬は増すのだ。勝利は、進歩の方向に沿っているとき、人民の称賛に価する。一方、英雄的敗北は人民の感動に価する。一方は壮大であり、他方は崇高である。・・・敗者の味方になる者も必要だ。・・・
あらゆる要請に応じて、ユートピア思想が要求するたびに、戦いをはじめることは、どんな人民にもできるものではない。国民は、必ずしも、四六時中、英雄や殉教者の気質をそなえているわけではない。
国民は実際的である。先天的に反乱をきらう。第一に、反乱の結果は破局であることが多いし、第二に、必ず抽象的観念を出発点としているからである。・・・
進歩のための戦いは、失敗することが多いが、その理由は今述べたとおりである。大衆は遍歴騎士の誘いを拒む。大衆というこの重い巨塊は、自分の重さのためにこわれやすく、冒険を恐れる。ところが、理想の中には、冒険がある。
それに、これも忘れてはならぬが、利害がそこにかかわり、理想や感傷にはあまり好意を示さないことである。ときに胃袋が心を麻痺させることがある。・・・
物質は存在し、瞬間は存在し、利害が存在し、腹が存在する。しかし、腹だけが唯一の知恵であってはならない。束の間の生にも、権利があることはみとめよう。しかし、永遠の生にも権利があるのだ。・・・
私が今語っているような戦闘は、理想への痙攣にほかならない。拘束された進歩は病的であり、悲劇的な癲癇を起すものである。われわれは、進歩の病気、つまり内乱に、話の途中で出会わなければならなかった。それは、社会的断罪を受けた一人の男を軸とするドラマの、進行中でもあり、幕間でもある、宿命的な段階である。そのドラマの真の題名は、「進歩」である。
”進歩”!
私がしばしば発するこの叫びが、私の全思想である。・・・
今読者が読んでいる本は、端から端まで、全体的にも、部分的にも、中断、例外、欠陥があるにしても、すべて悪から善への、不正から正義への、虚偽から真実への、夜から昼への、欲望から良心への、腐敗から生命への、獣性から義務への、地獄から天国への、虚無から神への前進である。出発点は物質、到達点は魂である。初めの怪物は、終りでは天使となる。
(第5部第1章20)
そんななかで、ただ一人ヴァルジャンはバリケードの中にいるが戦闘には参加せず、誰も殺さず、バリケードの修理をしたり、ひたすら傷ついた者達の手当てをする。そして自分の敵であるはずのジャヴェールの命を救い、マリユスの命を救う。この作品の中でユゴーがヴァルジャンに与えたかった役割が、わかる気がします。そしてヴァルジャンがその人生の中で幾度も直面している心の葛藤に、人間の人生というのは常に自分の中に住むサタンとの闘いなのだな、と感じたのでした。
以上、長々と書いてしまいましたが、「レミゼってこういう内容だったのか」と新たな発見も多かった、充実した読書でした。本当に、世界は知らないことであふれている。。。
以下は、小説の内容以外のことを簡単に。
・ユゴーはロマン主義の時代の作家ですが、その時代のパリというと、、、ショパン!(ということは、リストもワーグナーもシューマンもメンデルスゾーンも同時代ということになる。)しかしショパンがユゴーについて触れているのは、1845年にユゴーがレオニー・ビヤールと姦通している現場を警察に押さえられたスキャンダルについてユゴーをボロクソに書いているルドヴィカ宛の手紙だけのようで。一方、ユゴーとジョルジュ・サンドは親しく交流があって、サンドが亡くなった際にはユゴーは弔辞を送ったりしています。ちなみにサンドも「カトリック教会はキリスト教の教義を歪曲している」と批判をし、教会との間に確執があったとのこと。
・ナポレオン三世と袂を分かったユゴーが亡命した先が、ブリュッセルだったんですね。ユゴーがグラン・プラスを「世界で最も美しい広場」と讃えたのは、亡命しているときだったのか。旅行中とかかな、と呑気に思ってた
・ユゴーについて調べていると「〈テーブル〉が言うには…」という文章がやたらと出てくるので調べてみたら、〈テーブル〉は何かの比喩ではなく、家具のテーブルそのものなのであった(正確には、テーブルに降りてきた霊)。ユゴーは晩年にオカルティスムに傾倒していたんですね。
・本は断然電子ではなく紙派な私ですが、調べものをするにはオンラインは便利ですねー。「レミゼではロベスピエールについてどんな風に書かれていたんだっけ?」と知りたかったら、レミゼの英訳ページでRobespierreとページ内検索をすればいいので、すごく楽でした。
・読もうと思っている本:『レ・ミゼラブル』の世界 (西永良成著)
・アンジェイ・ワイダ監督の『ダントン(Danton)』というフランス・ポーランド合作の映画があることを知りました。youtubeで英語の字幕版と吹き替え版の両方を見つけたので、観てみたいと思います。
・原作を読み返して、レミゼ25周年の最大の拾い物はハドリーのグランテールだよな~と改めて思ったのであった(あとガブローシュ。ラミンアンジョももちろんよき)。今年のGWに延期されたラミン&シエラとの "The Reunion"、ぜひともぜひともぜひとも実現してほしいものです。。。。。。。。
人生を近くからながめてみよう。人生はいたるところで刑罰を感じさせるようにできている。
あなたがたは人から幸福だと言われるような人であろうか?しかもあなたがたは毎日悲しんでいる。毎日それぞれ大きな苦しみや、小さな心配がある。昨日は親しい人の健康を気づかい、今日は自分の健康を心配する。明日は金銭上の心配が、明後日は中傷者の非難が、その次の日は友人の不幸がやってくるかもしれない。それから天気のこと、次にこわれた物やなくした物のこと、次に良心や背骨から責められる快楽のこと、あるいは世間の成り行き。心の悩みは言うまでもない。こんなふうにつづいていくのだ。一つの雲が散っても、またほかの雲が生じる。百日のうち一日だって、完全な喜びと完全な太陽はほとんどない。しかもあなたがたは少数の幸福な人たちの一人である。他の人々の上には、よどんだ夜がかぶさっている。
考え深い人たちは、幸福な人とか不幸な人という言葉をあまり使わない。明らかにあの世への入口ともいうべきこの世には、幸福な人などは存在しない。
人間の真の区別は、こうである。輝く人と、暗黒の人。
暗黒の人間の数を減らして、輝く人間の数をふやすこと。それが目的である。教育!学問!と人びとが叫ぶ理由はそこにある。読むことを学ぶことは、灯りをつけることである。拾い読みをしたすべての綴りが、光を放つのである。
しかも輝きは、必ずしも喜びということではない。輝きの中でも人は苦しむ。過度の輝きは燃える。炎は翼の敵だ。飛ぶことをやめないで燃える、そこに天才の神秘がある。
あなたがたが何かを認識しても、また何かを愛しても、やはり苦しむだろう。光は涙の中に生れる。輝く人は、暗黒の人間にすぎないような人にたいしても、涙を流すのである。
(第4部第7章1)