風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

横浜市歌と森鴎外

2021-06-15 22:40:25 | 



先ほど何気なく谷山浩子さんのtwitterを遡って読んでいたところ、驚きの事実が。
横浜市歌って、森鴎外作詞だったのか

1909年(明治42年)7月1日に行われた、横浜港の開港50周年記念祝祭にて披露されて以来、市民に歌い継がれています。作詞は森林太郎(森鴎外)、作曲は、当時東京音楽学校(現、東京藝術大学)助教授だった南能衛(よしえ)氏です。
横浜市HP

ワタクシ小学校を卒業してから三十ン年たちますが、浩子さんと同じく、いまだにこの歌をソラで歌えます。
浩子さんは「すべての横浜市民が歌えた」と書いておられますが、おそらく正確には「すべての横浜市立小学校の子供達が歌えた」かと。
小学校では6月2日の開港記念日や色々な学校行事の際に、6年間数え切れないほど歌いました。中学校ではどうだったかなぁ。市立中学だったけれどあまり記憶にない
大人になってから両親がこの歌の存在さえ知らないことを知り、衝撃を受けました。しかし両親は横浜市出身ではないので、考えてみたら当然なのであった。たとえ市民でも大人は普段の生活で市歌なんぞ歌わないし、聴く機会も殆どない。もっとも子供の頃の私は家でよくこの歌を歌っていたのだが(浩子さんと同じく、私もこの歌がなぜか好きだったので)、娘が歌っているこの暗号のような歌詞の歌を親は何だと思っていたのだろう。
そういう歌なので、「ハマっ子か否かの分かれ目は、横浜市歌を歌えるか否か」と言われているとかいないとか。

子供の頃の私が特に好きだったのは、浩子さんが書かれている「昔はド田舎だったけどね(2行)」の部分です
むかし思えば とま屋の煙 (むかしおもえばとまやのけむり)
ちらりほらりと立てりしところ (ちらりほらりとたてりしところ)
土と緑と海しかない鄙びた漁村にポツンポツンと藁ぶき屋根の家があって、そこから煙が出ている昔の横浜村の長閑な風景が目に浮かぶようで、好きだったなあ

そして浩子さんと同じく、褒めているのが港だけなところが妙な歌詞だな、と子供心に思っていた。これじゃあ横浜市歌というより横浜港歌やんけ、と。
鴎外って実は横浜に全く興味がなかったんじゃと疑いwikiを読んでみると、なんと横浜市歌のみならず横浜商業高等学校(Y校)の校歌まで作詞しているではないですか。
鴎外にとって横浜はどんな街だったのだろう。
ググってみたら、こんな素敵なページを見つけました。
『森鴎外と舞姫事件研究』森鴎外と一八八八年秋の横浜
鴎外にとって横浜は特別な思い出のある街なのだ、と。鴎外は1884年にドイツへ留学した際に横浜から旅立ち、1888年に横浜に帰国。その4日後にドイツから彼を追って来た恋人のドイツ人女性が横浜に着きました。このドイツ人女性が誰かについては諸説あるそうですが、エリーゼ・ヴィーゲルトというのが定説だそうです。ひと月後、鴎外とその弟達はエリーゼとの最後の夜を横浜で共に過ごし、翌日彼女の船はドイツへと出港したそうです。1年後、鴎外は彼女をモデルとした処女作かつ代表作『舞姫』を発表。
鴎外にとって「横浜=横浜港」であった理由がなんとなくわかったような気がして、まぁ許してやるか、と思った100年後のハマっ子の私でありました。

などとエラそうに書いておりますが。
実は改めて横浜市歌の歌詞を眺めていたところ、鴎外作詞と同じくらいの衝撃の事実が発覚。子供の頃に覚えた歌アルアルですが。

あ~さっひただよぅう~み~に~ ⇒ 「朝日かがよう海に」だった。朝日は海に漂ってはいなかった。。

と~まるところぞみ~よ~や~ ⇒ みよやって全く意味がわからず歌っていた。「見よや」だった。

む~かし~思えば~ とま~やの~けむ~ぅり~ ⇒ とまやって「泊屋」(宿屋)かと思っていた(そんな日本語は存在しない)。「苫屋」(苫葺きの粗末な小屋)だった。藁葺きの家のイメージは間違っていなかったけれど。

小学校の先生は歌詞の意味をちゃんと教えてくれていたはずだが、子供ってこんなもん。
浩子さんのおかげで誤解したままで人生を終わらずに済みました。
まあ意味をわからず歌っていても、のんびり大らかで明るくて、今も昔も好きな歌です 
この先もずっと、横浜の子供達に歌い継がれていきますように。

そういえば友人が「顔は漱石の方がモテそうなのに、留学生活を満喫して現地の女性にモテたのは鴎外なのが面白いよね」と言っていたなぁ。職場の食堂でその話をした席も覚えている。うーん、最近どうも鬱っぽくていけないな(主な理由はわかっている。仕事が忙しすぎるから)。。久しぶりにお墓参りに行って来ようかな。。