最近「プラネタリー・バウンダリー」というSDGsの基礎になった概念を提唱したスウェーデンの科学者の本を読んだのですが、「私達一人一人が何をすれば何が達成され、地球の何の数値がどうなり、それによって何がどう変わるか。それが達成されないと何がどうなる恐れがあるか」、その試算と理由が具体的な数値で示されているのがとてもいいと思いました。そして反対意見や懐疑的な意見に対しても真摯に向き合っているところにも感心しました。
今回のオリンピック・パラリンピックも、開催(あるいは中止)で想定されるメリットとデメリットを全て包み隠さず具体的に示し、不安な国民の声に誠実に耳を傾ける姿勢が政府にあれば、国民の気持ちもだいぶ違っていたろうと思う。それを「安心・安全」という何の科学的根拠もない神話のような言葉だけで強引に押し切ってしまった。こういう政府の姿勢は今に始まったことではない。
コロナ禍は未曾有の事態ですから予想外のこともあるでしょうし、間違うこともあるでしょう。それならそれで国民にきちんと事情を説明し、軌道修正すればいいだけのこと(科学だってこの軌道修正の積み重ねで成り立っている)。国民は理解し、協力するはずですよ。そういう誠実さが今の政府からは微塵も感じられないことが、決断力がないとか計画性がないとかいうことよりも、一番の問題だと思う。彼らから発せられる言葉は空虚なだけでなく、確信犯的に不誠実。
本当のことってみんなにわかるはずなんですよ。最終的には。本当のことは偽善よりも絶対強いですよ。どんなにきつい言葉であっても――というふうに僕は思ってますけどね。
(谷川俊太郎 『考える人 2016年夏号』より)
谷川さんのこの言葉、そのとおりだと思います。
私は、オリンピック自体は思いのほか楽しめました。実家に帰ったら親がテレビを見ていて、普段見ないような競技も見る機会を持てて、こんなルールなのか〜とか、国内外の選手達の色々なエピソードとか、普段知らない世界に触れられて楽しかったです。ですが先日のバレンボイムのリサイタルのときと同じく、感動したなら文句を言うな、は違うと思う。多くの人とお金が動いている以上総括はきちんとなされるべきで、このまま有耶無耶にされていいことではないと、私は思います。