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何故日本は元寇を撃退できたのか~1.イングランドと比較する

2010年12月08日 12時59分12秒 | 俺のそれ
唐突に始まりましたが(笑)、最近ネット上で元寇についての言及を幾度か目にしたので、以前から気になっていたことを書いてみようかな、と思いました。

日本は偶然か神仏の加護か分かりませんが、運良く撃退できたわけです。
世界の他の例と比べてみれば、何か分かることがあるかもしれない、と思いまして、全くの個人的素人見解を書いてみようと思います。


イギリスは日本の置かれた立場と似た部分があるかなと思うわけですが、大陸側からの侵攻・侵略を度々受けていました。元寇は13世紀ですので、日本の状況と単純比較はできないでしょうけれども、ノルマンディー公ギヨームの征服から考えてみようと思います。


1)イングランドの当時の状況

スコットランドとの内部的な紛争を抱えたままだった。日本のように諸国の統一的行動というのは難しかった、ということがあるだろう。
もっと大きな要因としては、既に幾度も侵略を受けていた、という歴史がある。古くはローマ帝国の征服があったし、デンマーク王の支配下にあった時期もあった。

デンマーク王クヌートはデンマークだけでなくノルウェー王でもあった。そのクヌートが1015年頃にイングランドに侵攻、数十隻~100隻程度の大船団がサンドウィッチに上陸した。ロンドンはクヌートと共に侵攻してきていたエイリークの軍勢などに包囲され、イングランド王に就位したばかりのエドマンド2世が必死の抵抗を試みた。

それでも優位な軍勢を有するデンマーク軍にはかなわず、和平交渉が行われた。テムズ川で支配地域を二分し、どちらか一方が死んだら相手側に譲り渡すという取り決めとなった。その後、エドマンド2世が死亡し、クヌートがイングランド王に就いたのである。

この後も、デンマーク王の支配下に置かれ続けたが、ノルマンディーに追放されていたエドワード懺悔王が呼び戻され、1042年以降はハーデクヌート王から引き継いでイングランド王に返り咲くことができた。それまでは、北欧の王がイングランド王を兼務していた、ということなのである。

つまり、当時のイングランドの歴史とは、外敵からの侵略の歴史、と言っても過言ではなかった、ということである。日本のように、侵略を受けていなかった地域とはまるで違った環境だった、ということだ。


2)イングランドは侵略され易い地形だったのか?

日本と違う部分というのは、まず地形があるだろう。これが最大の要因なのではないかと思う。
日本は、山が多い。そして、森や雑木林などが多い。
イギリスの山は、日本と比べて、決定的に「低い」ということが言える。

イングランドにはほぼ高い山はない。せいぜいが数百m以下でしかない。スコットランドの1344mが最も高いが、他には1000m級の山はウェールズにあるだけである。どちらかといえば、低地が多く、大陸国のいくさのやり方がまるまる通用してしまう、ということだろう。

それと、川の問題がある。
日本の山が高い、ということは、川は多くが急峻になりやすく、大河が出来にくい、ということなのだ。これは決定的な地形要因となるだろう。


3)強力な海軍国が近くにあった

これは、言わずと知れたヴァイキングのことである。クヌートの時代より更に100年ほど前に遡る頃から、ヨーロッパ世界でほぼ最強の部類に入る軍事的組織(集団)といえば、ヴァイキングだったであろう。非常に恐れられていたはずである。寓話的に登場する「巨大な手斧を持つ巨人」の戦士のイメージというのは、彼らがモデルだっただろうから。
大陸にいる騎士の類と比べて、圧倒的な戦力という風評があったのではないかな。

まず、デカい。
平均身長がとてつもなくデカい。これだけでも、泣かせるには十分だ。相手はびびるぞ。
それと、主要な武器が斧、というのも超コワイ。普通の騎士とか歩兵のイメージしかない人間からすると、見たこともない武器の使い方をされたら、そりゃあ怯むってもんだ。

そういうこともあってか、ヴァイキング軍団はヨーロッパ各地で強かった。掠奪なんかをやりまくった。それが生きる方法だったからだ。地中海まで船で遠征していった。黒海にも当然ながら到達していた。
それと、大きな川のある所には、ほぼ行った。驚くべきことに、何とヴォルガ川を伝って、カスピ海くんだりまで到達していたのである!
途中の陸地の部分は、船ごと運んで行ったそうだ。
恐るべし、ヴァイキング。
セーヌ川流域も当然攻撃対象であった。その侵略に手を焼いた為に、ヴァイキングの中の頭目だったロロに地位と土地を与えて防御させるようにしたのが、「ノルマンディー公」の由来ということである。ヴァイキングを倒せるのはヴァイキングだけ、というようなことかな、と。

このように、ヨーロッパ世界ではその名を轟かせていたヴァイキング軍団は、200年も前から幾度となくイギリスや周辺を襲撃してきたわけで、地形などについてもほぼ熟知していたであろう、と思われるのだ。フェロー諸島、シェトランド諸島、オークニー諸島などの占拠を許し、その後にはアイルランド島と大ブリテン島にも度々侵攻してきていた。

デンマーク王クヌートが侵攻してきた頃には、彼らの船と操船技術は最高水準に近く、周辺地理・地形についてもよく知るようになっていた、ということがあるのではないか。


4)スタンフォード・ブリッジの戦い

エドワード懺悔王の死後、ハロルド2世がイングランド王に就いた。彼には追放した弟のトスティがおり、イングランド王の地位を狙っていた。トスティはノルウェー王ハーラル3世の臣下となり、彼と共にイングランド攻略を企てたのである。

ハーラル3世は2mを超える巨人と言われており、そのような男が2丁斧を振り回して戦えば、そりゃあ、戦慄するのも無理はない。

さて、ノルウェー軍とトスティは船団を組んで、スカボローを襲った。
当時、イングランドを防衛せねばならないハロルド2世は、フランスから侵攻に備えて、ドーバー側に主力を集めていた。北側はがら空きだった、ということだ。その機をついて、トスティらはハンバー川を遡って、ヨーク付近に上陸作戦を敢行したのである。

これを最初に迎え撃ったのは、マーシア伯とノーサンバーランド伯であるエドウィンとモルカール兄弟だった。が、300隻、1万の大軍団の前に、潰走することとなった。やはりヴァイキングは強かった。ノルウェー軍は圧勝に気を良くし、周辺地域を次々と襲っていった。高額な身代金を要求する為の人質も集めた。

この敗戦を聞いたハロルド2世は、兵を動かすかどうか迷ったが、「ハロルドの大返し」とも呼ぶべき、大移動を敢行した。300kmの距離を僅か6日間で移動し、スタンフォード・ブリッジ付近に駐留していたノルウェー軍を急襲した。在郷軍数千人と共にノルウェー軍に立ち向かい、撃破したのだ。自らの弟であるトスティと、最強ヴァイキングとも言うべきハーラル3世を討ち取って、事実上ヴァイキング黄金時代を終結させたのである。
生き残った者たちは船に逃げ帰った。地上では敗れたとはいえ、水の上での戦いでは依然としてヴァイキングが最強だったからだろう。ノルウェー軍は引き揚げていったのだ。

だが、戦いはここでは終わらなかった。


5)ヘイスティングズの戦い

ヴァイキングによる上陸戦に勝利したハロルド2世だったが、再び南で戦わねばならなかった。

ノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム)がぺヴェンシーの海岸に上陸したからである。ギヨームはハロルド2世領で掠奪の限りを尽くして、ハロルド2世をおびき寄せたのだ。ハーラル3世を破った後の回復には時間がなさすぎた。数の補充も不十分な上に、精鋭の兵士たちも失った直後であった為、不利な状況で戦うことになったのである。もっと戦いの時期を遅らせていれば、北部の部隊も合流でき、数的戦力では圧倒できた可能性があった。

ハロルド2世率いるイングランド軍は、親衛隊(ほぼ専業の戦士、歴戦の傭兵たち?)約2千と在郷軍約5千。ギヨームのノルマン軍はブルターニュ伯アランとブーローニュ伯ウスタスを両翼とする約7~8千。両軍はヘイスティングズで激突した。

イングランド軍は防御陣地の好条件と親衛隊の強力な攻撃で、ノルマン軍をはね返した。親衛隊の手斧は、ヴァイキング譲りの攻撃で、騎兵の馬の首を一撃で切り落とすことさえできたらしい。これには兵士だけではなく、馬も怯えたであろう。
いずれにせよ、ハロルド2世の弟ギルスがまず戦死し、厳しい消耗戦の中から僅かなチャンスをものにしたギヨームがハロルド2世を討ち取ったのである。ハロルドの目に矢が刺さったかどうかは、定かではないらしい。が、フランス騎士軍団が無謀な突撃を繰り返して、その一部がハロルド2世を倒すことに成功したということである。


こうして、イングランドはノルマンディー公の支配となったのである。
イングランドは上陸作戦とその後の攻撃を受け、結果的に破れ去った。