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Wikileaksに諜報活動防止法適用を画策する米国の愚

2010年12月09日 21時30分59秒 | 法関係
参考>IT / 【オピニオン】米国はアサンジ氏を裁けるか / The Wall Street Journal, Japan Online Edition - WSJ.com


世界には笑える取締法というのがあるものだ。日本でもお馴染みの、5代将軍綱吉が制定したとされる「生類憐みの令」があった(参考記事)。アメリカでは、悪評高き「禁酒法」というのがあった。経済学徒たちから散々扱き下ろされた、「おバカな法律の典型例」として、未だに君臨している。
この禁酒法を制定したのは、先日取り上げたウィルソン大統領時代だった。彼は、歴代大統領の中でも折り紙つきの学者大統領でして、確か初の博士号持ちだった。超エリート校であるプリンストン大の学長まで歴任した、とても聡明な学者肌の進歩的大統領だったのだ。それなのに、ああ、それなのに、と。

かなりの道徳家だったのだろうか。穢れを許せないといった、潔癖症のような人だったのだろうか。それとも世間知らずの利用されやすい人だったのだろうか。良く判らないけれども、そんなに賢い人が、後世でここまで酷評される法律をどうして制定したのか、不思議ではある。単にマフィアを儲けさせたかっただけなのかもしれない(笑)。


禁酒法くらいならまだ笑って済む話かもしれないが、1917年制定の諜報活動防止法は現存する法律で、笑い話にはならないものだ。これも当然ながら、元プリンストン大学長のウィルソン大統領が制定したものである。ひょっとすると英国に米国の公電を傍受されていたので、腹を立てたのだろうか。そういうわけではないだろうと思うが、宣戦布告後に制定されたのだった。

実はこの法律によって、大統領選挙に立候補した人物が、第一次世界大戦への反戦内容を含む演説を行ったという理由によって、有罪判決となって投獄されたことがあるのだ。
ユージン・V・デブス - Wikipedia

連邦最高裁は、なんと10年の禁固刑を言い渡したのだ。そして、実際に逮捕され投獄された。21年に恩赦で釈放されるまで、獄中生活を強いられた、ということである。デブスの反戦演説が、そんなに危険なものだったのか?国家安全保障に関わるようなものだったのか?
自由の国を標榜するアメリカにおいて、その中でも進歩的と目されていた大統領の施政下であってでさえ、この法律は政治活動を行っていただけの人物を投獄させたのである。これが、自由の国、アメリカの真実だ。

そのウィルソン大統領は、1918年に煽動防止法も制定(確か23年に廃止された)しているのである。戦争参加に反対した新聞は、郵便での配達を禁止されたらしい。これは本当に報道の自由なのか?


このような法律を持ち、適用してきた国は、アメリカという自由を標榜する国なのだぞ?
そして、その用い方というのは、上記例の如く、どのような形をとってくるのか分からないのだ。いつ何どき、政府が狂ってしまい、法律を悪用して言論統制に用いるのか分からない、ということだ。拡大解釈とか、拡大適用というのを認めてしまうことこそ、報道を追い詰めることになるだろう。言論の自由を奪う口実を与えることになるだろう。

そのような危険性を顧みないのが、今の「自由の国、アメリカ」ということなのだろう。ならば、スローガンを変えてみてはどうだろうか。


自由を守ろうとしない報道機関が信じられない。
ましてや、諜報活動防止法適用を願うとは、どこの強権国家ですか、ということだ。
中国と変わらないではないのか?(笑)
君たちには、中国を批判する資格はない。


何故日本は元寇を撃退できたのか~2.日本の幸運

2010年12月09日 00時05分09秒 | 俺のそれ
日本の受けた元寇は、イングランドの条件と違っていた。

前の記事で触れたが、国内的に敵対勢力が外国勢力と通じているとか、敵軍中に自国民が混ざっているというのがなかった。言ってみれば「オールジャパン」体制を組むことができた、というのがまず大きい。国内勢力の内紛とか分裂を抱えていたイギリスでは、不利だった。戦力整備という面でも、精神的な面でも(いくつも用心するのは困難なので)、影響を与えたであろう。

1066年のイングランド軍がギヨームに敗北したのは、いわば「2正面作戦」を強いられたということがあった。国王の弟であったトスティが敵側にいた上、ハロルド2世は南にギヨーム、北にハーラル3世、という難敵を迎えることになった。日本の場合には、侵略戦力との直接対決に全力を注ぐことができた。

イングランド軍の戦力としては、職業軍人というような戦争のプロが多くはなく、地元の在郷戦力を主力にしなければならなかったが、デンマーク王クヌートに攻撃された時のエドマンド2世が抵抗戦力集めに苦労したくらいで、あまり戦力の拡大が望める状況ではなかったかもしれない。
日本の場合では、諸国武士が参加できる体制だった上、文永・弘安の役の2度とも九州の地元武士達でほぼ対応できていた。数的には、それほど遜色なく戦うことができたのだ。

船(建造、操船)の技術と言う点でも、ヴァイキングたちのような「海上戦に強い」戦力に比べて、元寇の船の技術はかなり劣っていたであろうと思われる。もし、もっと水上戦に強いヴァイキングのような戦力が相手であった場合には、もうちょっと違う部分があったかもしれない。
また、元軍は大陸での戦闘には馴れていたであろうけれども、水上戦ではそれほどでもなかったかもしれない。世界の大半を支配できた精鋭部隊は、日本侵攻の戦力中ではそう多かったわけではなかったようだ。せいぜい1万程度であり、残りは高麗軍とか、弘安の役の時の江南軍といった、元々の蒙古軍ではなかった。地形としても、大きな川がないことが、日本には幸いしたであろう。ヴァイキングは川を遡って侵攻したし、アヘン戦争の時の英国海軍も南京まで川を遡って攻撃した。日本の地形は、そうした攻撃には適さないものであったのと、相手側が地理・地形について情報が少なすぎて無知だった、ということに助けられただろう。地形に熟知している、というのは、戦略や戦術に大きく影響するからだ。映画の『300』にも出てきたエフィアルテスみたいに、敵側に地形情報をもたらす裏切り者がいる場合には、戦闘結果に大きく影響する、ということだ。イングランドはヴァイキングに何度も侵略を受けていた上に、トスティがいたことで情報が得られていたはずだ。元寇の場合だと、こうした情報源がなかったか、あってもほとんど役に立たない程度のものだったはずだ(大雑把にしかわからない、ということ)。

実数では、イングランド攻略の時の戦力だと、8千~1万程度の少数であったものが、日本侵攻軍では文永の役で約3万人、弘安の役では約14万2千人というほどの大部隊であったので、これを迎え撃った鎌倉武士たちは驚嘆に値するだろう。逆に言えば、大部隊過ぎて、上陸が困難になりやすい、ということはあるかもしれない。3500隻もの船(弘安の役の江南軍の数)から上陸させるのは容易ではない、ということだ。

ただ、2度とも上陸した後の陸上での戦闘が数日~1ヶ月程度続けられていたようなので、あまりに少ない数ということではなかったであろう。恐らく1万とか2万人の上陸戦力に対しては、地元武士たちが奮戦して追い返せたということなのであろう。


多分伝説になるくらいにヴァイキングたちは恐れられていたであろう、と思う。そのような風評は、戦いの際には怖気づかせるだろう。蒙古軍も同じく、ヨーロッパ侵攻までに恐れられるようになっていた。各地で残虐行為を実行してきていたからである。ロシアは勿論攻め込まれたし、ポーランド侵攻戦では、ポーランド軍、神聖ローマ帝国軍、ドイツ騎士団、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団など、当時のヨーロッパでの主要戦力は惨敗した。1241年のワールシュタットの戦いで、蒙古軍の強さを知らしめた。僅か2万程度の軍勢で、当時のオールヨーロッパとも呼ぶべき戦力を完膚なきまでに叩きのめしたのだった。

ヴァイキングもそうであるが、蒙古軍にも噂が付きまとうことになるが、そうすると対峙した相手は戦う前から恐怖するだろう。そのことが、戦闘を有利に進めることに役立つだろう。しかし、日本には元寇の怖さというのは、それほど伝わっていなかったはずだ。よく分からない相手、ということだけだったろう。これが「鬼神の如き強さ」とかだと違ったかもしれないが、鎌倉武士にとっては、そう恐れるほどの相手ではなかった。開けた土地では強かったかもしれないが、日本はロシアや中央アジアや欧州のような、大陸国とは全く違ったのだ。蒙古軍の戦い方と騎馬戦力というのは、まさしくぴったりだったものが、日本という土地ではまるで違った、ということだ。


蒙古軍の弓は、当時の世界最強の飛び道具と考えてよく、イングランド長弓よりも威力が高かったと言われる。張りの強さが強力で、よほど腕力が強くなければ引けないような強さ、ということだ。初速が速く鏃が鋭かったので、欧州諸国の兵士が身につけていた鎖帷子が貫通される、というものだったらしい。射程によっては、板金鎧の金属さえ貫通されたらしい。なので、蒙古軍には欧州騎士たちは歯が立たなかった、という結果だったのだろう。

因みに、マムルーク朝のムスリム軍団10万人が蒙古軍を破ったとされるアイン・ジャールートの戦いでは、モンケ・ハーンが急死して殆どの蒙古軍が引き返してしまい、残ったのはほとんどがキリスト教徒軍団(ムスリムと長年対決してきた勢力―グルジア軍、アルメニア軍、ドイツ騎士団長アンノ・フォン・ザンガーハウゼン率いる騎士軍団など)だった。数的にも、主力の蒙古軍が抜けたので、約3万程度しかおらず、ムスリムの3分の1程度だったので、負けても当然という数だったろう(キリスト教徒たちは、蒙古軍を救世主として迎えたのだ。侵攻軍の司令官フレグの妻はネストリウス派だった)。

これほどの戦力を誇った蒙古軍をもってしても、日本攻略は極めて困難だった、ということだろう。それは、蒙古軍が得意としていた戦術が通用しなかった、ということに尽きるのではないかと思う。鎌倉武士たちにとっては、日本の土地そのものが自然の要害だっただろう。開けた土地が少なく、騎馬と弓の組み合わせ攻撃が、威力を発揮することができなかったのだろう。起伏に富んだ地形、雑木林などの遮蔽物が多数存在、欧州ほど都市化しておらず掠奪で補給というのが難しかった、などがあるかもしれない。


鎌倉武士たちからすると、戦闘の殆どを近接戦闘で戦って、相手の得意な形にさせなかったのではないか。日本側は地元武士ということもあるし、地形に熟知している面があって有利。大陸に比べて地形が複雑でゲリラ戦術に有利だったので、騎馬の弓戦で威力を発揮する蒙古軍には難しい戦闘だったはず。高麗軍などの歩兵戦力は、数的にはそこそこ揃っていたかもしれないが、日本側の騎馬武者が突撃で蹂躙して撃破、後は近接戦で練度の高い武士たちが圧倒したのではないか。欧州などでもそうだが、職業軍人と金目当ての「俄か兵士」たちとでは、戦闘時の働きに大きな開きがあるだろう。日本の武士たちの場合だと、地元武士たちは農業もやったりしていたかもしれないが、割と戦闘訓練を積んだ人間が戦闘に参加しており、平均的な武士たちの戦闘能力は俄か戦力に比べて高かったはずだ。

あとは、日本の武士たちが恐らく小柄だっただろう、というのがあるかもしれない。欧州などの戦士たちは、体格が大きいことで弓攻撃には恰好の的となってしまいやすいが、日本の武士たちは小柄でスピード重視の戦い方なので、弓攻撃が難しいということなのではないか。そうした鎌倉武士たちの威力が発揮されたであろう戦闘は、海上に逃げていった元寇の船の上での戦いだったろう。狭い場所、敵味方が入り乱れての密集体勢という中で、果敢に乗り移って切り込みに行った武士たちは戦果を挙げていたようだ。ゲリラ戦なので相手が混乱に陥り易いというのがあるとしても、近接戦闘での鎌倉武士たちの能力は如何なく発揮された、ということであろう。小柄、スピード、体のこなし、体術、そういうのに蒙古軍は殆ど遭遇したことがなかったはずだ。どれほど騎馬能力や弓の能力に優れていたとしても、密集した船の上で接近戦を挑まれたら、鎌倉武士には歯が立たなかったということだろうと思う。


こうして、日本にはいくつかの幸運などがあり、元寇を撃退できたのではないかな、と。