これは確かに、衝撃の問題作。
原作を読んだことはなく、話の筋も殆ど知らず、事前の映画宣伝程度のことしか知らなかった。そういうこともあってか、話の展開が気になって仕方がなく、ぐいぐいと引き込まれていく映画だった。
無邪気な悪意。
そういうのが映像を通じてよく伝わってきた。生徒たちの持つ「子供」の部分と、大人びた陰湿な部分といった、14歳という過渡期の年代に併存する「何か」というものを、思い出させるものだった。時に、殺人者として、大人顔負けの存在になれる。幼児性の仮面の下に隠れた、純粋な悪、それが中1、中2の特権なのだろうか。
最近のイジメとか、実際どうなのかは知らないのだけれど(ニュースやネットなんかで語られるのを目にするという程度)、本当にメールなんかがあるのだろう。イジメは自分が同じ年代の時にも幾度となく目にしてきたものだったので、心の奥底にある澱のようなものが、ふわふわと浮上してきた。苦い、というか、己の心の弱さや自分も加担している側にいたのだという、ささくれのようなものが、よみがえってきた。
殺人者はイジメられて当然なのか?
犯罪者はイジメられたってしょうがないのだろうか?
よく聞くセリフが頭をよぎる。
殺された人間の人権は踏み躙られたんじゃないのか?
殺人者の人権を守れ、じゃあ、殺された者はどうなるのか?
イジメは悪い、だが、法で裁けない殺人者に制裁を加えることは悪か?
子供という世界での、まさしく「社会的制裁」というものではないのか?
子供特有の社会における罰、それこそがあのイジメだったのではないのか?
たとえ制裁側が楽しんでいようとも。
この態度は、事件が起こった時のマスコミや社会の反応と相似形をなしているのではないのか?いたぶる側に、絶対正義のマスコミがいるのではないのか。それと一体何が違うというのか?
謝罪を求める(強要する)マスコミ人たちは、吊るし上げることを楽しんでいやしないか?悪を追及してゆく側にある正義の論理とは、あのクラスで行われたイジメというものと、まるで瓜二つなのではないのか?
『告白』ということの意図というか、ああ、そうなんだね、と思えたのもあった。
当人しか知らない出来事、というのが、確実に存在する、ということだ。
事後的に判明した情報をかき集めて、傍から見た時の解釈や解説なんかをもっともらしく言ったりするけれど、真実なんて案外と当人にしか分からないことがたくさんあるのではないのか?
何でもお見通しみたいな、コメンテーターが発する解説なんかは何の意味があるのか?
真実を探るには、かなり深く潜っていかねば判らない、ということなのだ。当事者による本当の告白がなければ、真実は見えない。
母親を殺したとされる少年だって、殺そうと思ってやったというよりも、一種のはずみか発作のようなもので、母親に刺された刃物を闇雲に(発作的に)振り回したら、母親が自らその刃物の弾幕に飛び込んできて死んでしまった、ということだ。その少年は、プールに投げ入れた時、生きていることを知っていた、というのだってそうなのだ。
別な面としては、告白こそが武器になる、ということがあるんだ、ということ。先生の復讐劇は、まさしくそうだ。告白は、時に人を不幸のどん底に陥れる為の効果的な攻撃方法なのである。
あれは、極めて女性的なものではないかと思う。男性には、あのような遠回しなやり方というのが、かなり苦手か、発想としてそもそも思いつかないか、まどろっこしくて待ってられないか、ではないだろうか。男性なら、もっと直接的に当人にアタックするものを選びがちではないだろうか。けれども、女性というのは職場のイジメやライバル女性を蹴落とす為の算段なんかがうまい、というイメージなのだ。そういう手の込んだ罠とか自らは手を下すことなく、「仕向ける」ということをできるのだ。仕向ける、まさにこれだ。周囲の人間をそうさせる、というのもあるだろうし、標的をそのように追い込む(仕向ける)というのもあるだろう。それらを複合的に組み合わせて最終的に陥れる、というのを実現するわけである。自分の手はこれっぽっちも汚れてない、と。
典型的な昼ドラの手口の数々は、形を変えれば、みなそういうものになる、というようなことだな。
女とは恐ろしい。
ちょっと逸れたが、誰かを不幸の深淵に突き落とすには、告白というのは使える手段なんだ、ということである。簡単な例だと、「聞きたくなかった事実」というのを告げられて、そういう目に遭わされた人たちは少なくないのでは?彼氏には実は浮気相手がいた、とかだってそうだ。告白する側が、選べるんだ。簡単には封じることのできない、恐るべき手段なのである。
心がささくれだった映画だった。
嘔吐直前の、口の中で感じる嫌な味わい、そういう映画。
様々なものが心に去来する、簡単には言い表せない映画だ。
(参考までに、やや物足りないと感じたのは、爆弾少年があそこまで極悪な人間になりきれるのかどうか、という部分かな。少女を直接殺せるには、狂気が足りないような。爆弾犯と、付き合ってる彼女を直接打撃&絞殺し解体できるレベルに到達する、というのは、極悪度が違うように思えるので。マザコンと極端な自尊心の塊というくらいでは、弱いんじゃなかろうかと。何かに狂信的という程度だと、爆弾や銃器等の殺害道具を駆使して殺す人間はいるかもしれないが、手で殺してバラバラ死体にするという所までいけるかな?原作読んでないから、知らないんだけど。)
原作を読んだことはなく、話の筋も殆ど知らず、事前の映画宣伝程度のことしか知らなかった。そういうこともあってか、話の展開が気になって仕方がなく、ぐいぐいと引き込まれていく映画だった。
無邪気な悪意。
そういうのが映像を通じてよく伝わってきた。生徒たちの持つ「子供」の部分と、大人びた陰湿な部分といった、14歳という過渡期の年代に併存する「何か」というものを、思い出させるものだった。時に、殺人者として、大人顔負けの存在になれる。幼児性の仮面の下に隠れた、純粋な悪、それが中1、中2の特権なのだろうか。
最近のイジメとか、実際どうなのかは知らないのだけれど(ニュースやネットなんかで語られるのを目にするという程度)、本当にメールなんかがあるのだろう。イジメは自分が同じ年代の時にも幾度となく目にしてきたものだったので、心の奥底にある澱のようなものが、ふわふわと浮上してきた。苦い、というか、己の心の弱さや自分も加担している側にいたのだという、ささくれのようなものが、よみがえってきた。
殺人者はイジメられて当然なのか?
犯罪者はイジメられたってしょうがないのだろうか?
よく聞くセリフが頭をよぎる。
殺された人間の人権は踏み躙られたんじゃないのか?
殺人者の人権を守れ、じゃあ、殺された者はどうなるのか?
イジメは悪い、だが、法で裁けない殺人者に制裁を加えることは悪か?
子供という世界での、まさしく「社会的制裁」というものではないのか?
子供特有の社会における罰、それこそがあのイジメだったのではないのか?
たとえ制裁側が楽しんでいようとも。
この態度は、事件が起こった時のマスコミや社会の反応と相似形をなしているのではないのか?いたぶる側に、絶対正義のマスコミがいるのではないのか。それと一体何が違うというのか?
謝罪を求める(強要する)マスコミ人たちは、吊るし上げることを楽しんでいやしないか?悪を追及してゆく側にある正義の論理とは、あのクラスで行われたイジメというものと、まるで瓜二つなのではないのか?
『告白』ということの意図というか、ああ、そうなんだね、と思えたのもあった。
当人しか知らない出来事、というのが、確実に存在する、ということだ。
事後的に判明した情報をかき集めて、傍から見た時の解釈や解説なんかをもっともらしく言ったりするけれど、真実なんて案外と当人にしか分からないことがたくさんあるのではないのか?
何でもお見通しみたいな、コメンテーターが発する解説なんかは何の意味があるのか?
真実を探るには、かなり深く潜っていかねば判らない、ということなのだ。当事者による本当の告白がなければ、真実は見えない。
母親を殺したとされる少年だって、殺そうと思ってやったというよりも、一種のはずみか発作のようなもので、母親に刺された刃物を闇雲に(発作的に)振り回したら、母親が自らその刃物の弾幕に飛び込んできて死んでしまった、ということだ。その少年は、プールに投げ入れた時、生きていることを知っていた、というのだってそうなのだ。
別な面としては、告白こそが武器になる、ということがあるんだ、ということ。先生の復讐劇は、まさしくそうだ。告白は、時に人を不幸のどん底に陥れる為の効果的な攻撃方法なのである。
あれは、極めて女性的なものではないかと思う。男性には、あのような遠回しなやり方というのが、かなり苦手か、発想としてそもそも思いつかないか、まどろっこしくて待ってられないか、ではないだろうか。男性なら、もっと直接的に当人にアタックするものを選びがちではないだろうか。けれども、女性というのは職場のイジメやライバル女性を蹴落とす為の算段なんかがうまい、というイメージなのだ。そういう手の込んだ罠とか自らは手を下すことなく、「仕向ける」ということをできるのだ。仕向ける、まさにこれだ。周囲の人間をそうさせる、というのもあるだろうし、標的をそのように追い込む(仕向ける)というのもあるだろう。それらを複合的に組み合わせて最終的に陥れる、というのを実現するわけである。自分の手はこれっぽっちも汚れてない、と。
典型的な昼ドラの手口の数々は、形を変えれば、みなそういうものになる、というようなことだな。
女とは恐ろしい。
ちょっと逸れたが、誰かを不幸の深淵に突き落とすには、告白というのは使える手段なんだ、ということである。簡単な例だと、「聞きたくなかった事実」というのを告げられて、そういう目に遭わされた人たちは少なくないのでは?彼氏には実は浮気相手がいた、とかだってそうだ。告白する側が、選べるんだ。簡単には封じることのできない、恐るべき手段なのである。
心がささくれだった映画だった。
嘔吐直前の、口の中で感じる嫌な味わい、そういう映画。
様々なものが心に去来する、簡単には言い表せない映画だ。
(参考までに、やや物足りないと感じたのは、爆弾少年があそこまで極悪な人間になりきれるのかどうか、という部分かな。少女を直接殺せるには、狂気が足りないような。爆弾犯と、付き合ってる彼女を直接打撃&絞殺し解体できるレベルに到達する、というのは、極悪度が違うように思えるので。マザコンと極端な自尊心の塊というくらいでは、弱いんじゃなかろうかと。何かに狂信的という程度だと、爆弾や銃器等の殺害道具を駆使して殺す人間はいるかもしれないが、手で殺してバラバラ死体にするという所までいけるかな?原作読んでないから、知らないんだけど。)