チュニジアで政権打倒に成功したという情報は、エジプトをはじめとする周辺諸国にもたらされた。これが点火材となったであろうことは想像がつくのだが、これだけであれば、不十分であったかもしれない。
エジプト内務省系の治安維持・警察部隊がデモ隊鎮圧に動いており、これら実力行使でデモが終息させられていたなら、ムバラク大統領はまだ政権維持を続けていられただろう。
ところが、現実はそうはならなかった。
人々には、昔にはなかった武器が加わっていたからだ。それは、治安部隊の攻撃を押し返すだけの強力な攻撃兵器―例えば自動小銃など―ではなく、日本の安保闘争で大活躍したゲバ棒だの鉄パイプだのでもなく、インターネットという静かな武器だった。
エジプトでの大規模デモ行動は、まさにインターネットのカスケード効果の威力を見せつけることになった。
最初はごく少数の「刺激」が与えられただけだった。行動を主導したり呼びかけた、初期の人々である。それがいくつかの「メディエイター」を経て拡散し、多くの人々に働きかける効果をもたらした。
同時に、同じスローガン、シュプレヒコールなども効果を維持・拡大したであろうことは推測できる。使われたツールがフェイスブックだったのか、ツイッターだったのかという違いは、あまり重要ではないだろう。伝達手段というか、増幅装置としての役割を担うものが、同類のネットワークであったというだけなのだから。
(参考
05年4月>電脳炎上と現実炎上
05年9月>知識階層は弱体化が進んだのか
07年11月>エコーチェンバーはどこにあるか)
現実的な対抗手段というのは、民衆の暴動やデモなどに対しては、警察権力と軍隊というのがあるわけだが、軍隊というのは基本的に自国民を攻撃するようには訓練されていないはずだ。それも、無防備な一般国民を武力で制圧、攻撃するということには、かなりの心理的抵抗があるはずなのである。一方で、内務省系の警察組織となると、ムバラク大統領により近い存在ということになり、権力構造の一翼を担うということにはなるだろう。通常状態であれば、弾圧組織として存在するのがこれら警察組織だからである。
ムバラク大統領は、デモが発生してから一度は大衆に迎合するような姿勢をみせようと、確か内務省の大臣の首を挿げ替えたはずである。目先の不満を逸らそうと、弾圧組織トップの首を差し出して、ご機嫌取りというか国民の許しを請うたということだ。しかし、国民は騙されなかった。というより、満足などしなかった。ムバラク大統領の見え透いた生贄であることは、誰が見ても一目瞭然だったのであり、エジプト人の怒りを納めることはできなかった、ということである。
インターネットは、まさしくエコーチェンバーとしての役割を存分に発揮した、ということである。
最終的には、軍隊の行動が決め手となったのはご存じの通りだ。
エジプト軍は国民の信頼が厚く、サダト大統領時代の第四次中東戦争でシナイ半島を取り返した英雄だ。その軍部は、ムバラク大統領側につくことはなく、エジプト国民側についた。
恐らくは、内務省系との権力闘争という側面があったのではないかと思われる。しかも、長期政権の腐敗した大統領とその腰ぎんちゃくどもの味方をするくらいなら、一般大衆の味方について尊敬を集める方がマシだと考えるであろう、と。
イスラエルとの和平を切り開いたカリスマ指導者であるサダト大統領が暗殺されるという”ラッキー”で、大統領の座を手にしたムバラクがこれほど長期間に渡って権力の座に留まることなど、誰も予想できなかっただろう。当時のエジプト軍もそうだったろう。今回の一件は、そうした過去と決別するいい機会、ということだったのだろう。
もしも軍隊が国民に向かって発砲したり武力制圧を敢行していたとすると、以前に起こった中国の「天安門事件」と同じような結果となっていたであろう。流血の大惨事ということだ。軍隊が一般国民に向けて発砲するとそうなるだろう。少なくとも中国人民軍はそうだった。エジプト軍はその選択を回避した。だからこそ、今回の政権交代劇は成功した、ということなのである。
インターネットのお陰かどうかは判らないが、不名誉が世界中に見られてしまうということの意味が、今回のエジプトでの大衆運動に現れたということではないかと思える。大国といえども、「世界が見ている」という前では、滅多なことはできない、ということである。
ここからは、オマケ的な話。
米国がムバラク大統領の退陣を望んでいたというのは、説得力に欠けるように思える。最初の頃の米国側の反応というのは、「落ち着いて、まあ、落ち着いて、よく話し合いましょう」と双方に自制を促していただけであった。デモ側の支援とか、ムバラク退陣を容認しているような発言は見られなかった。所謂表向きの形式的な態度表明であって、「民主主義は大事、デモや集会の自由とか言論の自由は大事、だから、政府側もデモ側も落ち着いて話し合い、妥協点を見つけ出してくれ」というようなものだった。ところが、エジプト人の怒りの具合が思いの外強いということを知るようになると、ムバラク大統領には「国民の要望を聞け」すなわち暗に退陣を容認するようになったように思われる。情勢判断から、次の政権が穏健的な民主政権が登場しそうだ、ということが読み筋にあったからではないだろうか、と。
イスラエル側の判断としても、次期政権が過激なイスラム原理主義には傾くことはなく、「流血はもうたくさんだ」(by サダト大統領)の姿勢と気分はエジプト国民に広く共有されている、ということだろう。イスラエルとアラブ諸国との和平は現状のまま維持されそうだ、エジプトは強硬路線には行かないだろう、ということでムバラク追い出しの準備が「整いました~」ということでは。米国かイスラエルの支援を受けられるだろうという(エジプト国内の)政治勢力は大体定まった、ということではないだろうか。
いずれにせよ、エジプトの民主化運動は大きな意味を持つものとなった。
エジプト内務省系の治安維持・警察部隊がデモ隊鎮圧に動いており、これら実力行使でデモが終息させられていたなら、ムバラク大統領はまだ政権維持を続けていられただろう。
ところが、現実はそうはならなかった。
人々には、昔にはなかった武器が加わっていたからだ。それは、治安部隊の攻撃を押し返すだけの強力な攻撃兵器―例えば自動小銃など―ではなく、日本の安保闘争で大活躍したゲバ棒だの鉄パイプだのでもなく、インターネットという静かな武器だった。
エジプトでの大規模デモ行動は、まさにインターネットのカスケード効果の威力を見せつけることになった。
最初はごく少数の「刺激」が与えられただけだった。行動を主導したり呼びかけた、初期の人々である。それがいくつかの「メディエイター」を経て拡散し、多くの人々に働きかける効果をもたらした。
同時に、同じスローガン、シュプレヒコールなども効果を維持・拡大したであろうことは推測できる。使われたツールがフェイスブックだったのか、ツイッターだったのかという違いは、あまり重要ではないだろう。伝達手段というか、増幅装置としての役割を担うものが、同類のネットワークであったというだけなのだから。
(参考
05年4月>電脳炎上と現実炎上
05年9月>知識階層は弱体化が進んだのか
07年11月>エコーチェンバーはどこにあるか)
現実的な対抗手段というのは、民衆の暴動やデモなどに対しては、警察権力と軍隊というのがあるわけだが、軍隊というのは基本的に自国民を攻撃するようには訓練されていないはずだ。それも、無防備な一般国民を武力で制圧、攻撃するということには、かなりの心理的抵抗があるはずなのである。一方で、内務省系の警察組織となると、ムバラク大統領により近い存在ということになり、権力構造の一翼を担うということにはなるだろう。通常状態であれば、弾圧組織として存在するのがこれら警察組織だからである。
ムバラク大統領は、デモが発生してから一度は大衆に迎合するような姿勢をみせようと、確か内務省の大臣の首を挿げ替えたはずである。目先の不満を逸らそうと、弾圧組織トップの首を差し出して、ご機嫌取りというか国民の許しを請うたということだ。しかし、国民は騙されなかった。というより、満足などしなかった。ムバラク大統領の見え透いた生贄であることは、誰が見ても一目瞭然だったのであり、エジプト人の怒りを納めることはできなかった、ということである。
インターネットは、まさしくエコーチェンバーとしての役割を存分に発揮した、ということである。
最終的には、軍隊の行動が決め手となったのはご存じの通りだ。
エジプト軍は国民の信頼が厚く、サダト大統領時代の第四次中東戦争でシナイ半島を取り返した英雄だ。その軍部は、ムバラク大統領側につくことはなく、エジプト国民側についた。
恐らくは、内務省系との権力闘争という側面があったのではないかと思われる。しかも、長期政権の腐敗した大統領とその腰ぎんちゃくどもの味方をするくらいなら、一般大衆の味方について尊敬を集める方がマシだと考えるであろう、と。
イスラエルとの和平を切り開いたカリスマ指導者であるサダト大統領が暗殺されるという”ラッキー”で、大統領の座を手にしたムバラクがこれほど長期間に渡って権力の座に留まることなど、誰も予想できなかっただろう。当時のエジプト軍もそうだったろう。今回の一件は、そうした過去と決別するいい機会、ということだったのだろう。
もしも軍隊が国民に向かって発砲したり武力制圧を敢行していたとすると、以前に起こった中国の「天安門事件」と同じような結果となっていたであろう。流血の大惨事ということだ。軍隊が一般国民に向けて発砲するとそうなるだろう。少なくとも中国人民軍はそうだった。エジプト軍はその選択を回避した。だからこそ、今回の政権交代劇は成功した、ということなのである。
インターネットのお陰かどうかは判らないが、不名誉が世界中に見られてしまうということの意味が、今回のエジプトでの大衆運動に現れたということではないかと思える。大国といえども、「世界が見ている」という前では、滅多なことはできない、ということである。
ここからは、オマケ的な話。
米国がムバラク大統領の退陣を望んでいたというのは、説得力に欠けるように思える。最初の頃の米国側の反応というのは、「落ち着いて、まあ、落ち着いて、よく話し合いましょう」と双方に自制を促していただけであった。デモ側の支援とか、ムバラク退陣を容認しているような発言は見られなかった。所謂表向きの形式的な態度表明であって、「民主主義は大事、デモや集会の自由とか言論の自由は大事、だから、政府側もデモ側も落ち着いて話し合い、妥協点を見つけ出してくれ」というようなものだった。ところが、エジプト人の怒りの具合が思いの外強いということを知るようになると、ムバラク大統領には「国民の要望を聞け」すなわち暗に退陣を容認するようになったように思われる。情勢判断から、次の政権が穏健的な民主政権が登場しそうだ、ということが読み筋にあったからではないだろうか、と。
イスラエル側の判断としても、次期政権が過激なイスラム原理主義には傾くことはなく、「流血はもうたくさんだ」(by サダト大統領)の姿勢と気分はエジプト国民に広く共有されている、ということだろう。イスラエルとアラブ諸国との和平は現状のまま維持されそうだ、エジプトは強硬路線には行かないだろう、ということでムバラク追い出しの準備が「整いました~」ということでは。米国かイスラエルの支援を受けられるだろうという(エジプト国内の)政治勢力は大体定まった、ということではないだろうか。
いずれにせよ、エジプトの民主化運動は大きな意味を持つものとなった。