一般に「陰陽五行論」は中医学の概念とされています。
しかし、日本漢方にもその影が見え隠れすることがあります。
私は「陰陽」まではわかるのですが、「五行」が出てくると思考がフリーズしがち。
陰陽五行論の歴史的変遷を「東西医学の交差点〜その源流と現代における九つの診断系」(秋葉哲生著、丸善プラネット、2002年発行)を参考に俯瞰してみました。
<ポイント>
・中国医学が輸入される以前の日本の医学には陰陽五行の思想はなかった。
・中国の古医書『黄帝内経』に陰陽の概念が記されている。
・陰陽五行論は宋代の朱子学が始まりで、金元医学を学んだ田代三喜により日本に導入された(後世派)。
・江戸時代に入ると、『傷寒論』『金匱要略』を重んじ、陰陽五行論・臓腑経絡説を批判する古方派が台頭し、現在も日本漢方の中心を担っている。
つまり日本漢方においては、室町時代〜江戸時代までは陰陽五行論・臓腑経絡説が主流であり、江戸時代以降は主役の座から降りて今日に至る、といえます。
*************メモ**************
■ 日本の古典書籍
『風土記』(713年)、『古事記』(712年)、『大同類聚方』(808年)には陰陽や五行などの関連で病態を説明しようとする傾向がない。これらにみられる疾病や治療についての考え方は、古代中国のそれとは明確に異なっている。和方(わが国固有の歴史的な医学の系譜)は今日では民間薬としてその断片を残すのみである。
『医心方』(984年):鍼博士の丹波康頼(俳優の丹波哲郎の祖先)が隋・唐の医書百数十点から撰述して作成した医学全書。『諸病源候論』の引用部分には五行論による展開がみられる。
■ 中国の古典医書
陰陽五行説は遅くとも漢の時代には成立していたようである。
『黄帝内経』:人体構造や疾病を陰陽五行説によって解釈し、それに基づいて治療する考え方が展開されている。『黄帝内経素問』「陰陽応象大論篇」の書き出しに陰陽の二元論が徹底した相対的な存在として語られている。
『傷寒論』:曖昧さが少なく具体的な記述が多いが、『黄帝内経』にみられたと同じ範疇の陰陽や経絡が主要な論理要素として取り上げられているものもある。
■ 李朱医学の台頭〜朱子学が陰陽五行論のはじまり
宋代に興った儒学のうち朱子(1130-1200)により胎生された学派を朱子学と呼ぶ。孔子、孟子を祖とする儒学は主として人間社会を扱っていたが、この時代になると哲学的な命題や事物の法則性の究明などに向かった。
朱子学では天地が分かれる以前の宇宙万物の元始である太極から陰陽五行を導き、それら相互の関係を相性相克で説き、森羅万象を解明しようとした。
宋代に始まり、金・元の時代に至って花開いた、李東垣、朱丹渓らの金元四大家の医学は朱子学と同根の自然哲学に裏付けられていた。
■ 室町/戦国時代に活躍した田代三喜と曲直瀬道三
田代三喜は1487年に明に渡り李東垣、朱丹渓らの新しい医学である李朱医学に接してそれを習得して帰国した。
下野の足利学校に遊学していた曲直瀬道三は田代三喜の門に入り、7年の後に京都へ帰り啓廸院を開いて医生を育成し(門人800〜3000人)、李朱医学を実践した。
田代三喜が明の医学を伝えるに及んで、それまでの『和剤局方』などによる宋医学中心であったわが国の医学事情は大きな変化を迎えることになった。
李朱医学は温補派の医学であった。陰陽五行説や五運六気を唱えるその内容は、今日の中国伝統医学、いわゆる中医学にきわめて近いものであった。
曲直瀬道三の医学は陰陽五行説とそれに派生する臓腑経絡説を立論の根拠とする金元医学の流派であり、この後の18世紀に古方派と呼ばれる流派が確立するに及んで、それと対比させて後世派と呼ばれる。
■ 後世派と古方派(18世紀の日本)
日本における18世紀の漢方医学の2大流派;
【後世派】陰陽五行説とそれに派生する臓腑経絡説を立論の根拠とする金元医学の流派
【古方派】陰陽五行説を否定し『傷寒論』『金匱要略』など漢代の古典を陰陽五行説に染まらない至高のもの理解する流派
古方派の成立は18世紀中葉で、名古屋玄医、後藤艮山、山脇東洋らにより道三流の陰陽五行説・臓腑経絡説に批判が加えられ、吉益東洞が今日残る古方中心の日本漢方の枠組みを提示することになった。
吉益東洞はそれまでも伝統医学の移設を大胆に改変し、『傷寒論』『金匱要略』の正文とされた条文と腹候によってのみ方剤を運用すべしことを主張した。東洞の医説を検証すると、当時の解剖学に基づくオランダ医学から直接否定されることのない諸要素から慎重に構成されていることに驚かされる。
しかし、日本漢方にもその影が見え隠れすることがあります。
私は「陰陽」まではわかるのですが、「五行」が出てくると思考がフリーズしがち。
陰陽五行論の歴史的変遷を「東西医学の交差点〜その源流と現代における九つの診断系」(秋葉哲生著、丸善プラネット、2002年発行)を参考に俯瞰してみました。
<ポイント>
・中国医学が輸入される以前の日本の医学には陰陽五行の思想はなかった。
・中国の古医書『黄帝内経』に陰陽の概念が記されている。
・陰陽五行論は宋代の朱子学が始まりで、金元医学を学んだ田代三喜により日本に導入された(後世派)。
・江戸時代に入ると、『傷寒論』『金匱要略』を重んじ、陰陽五行論・臓腑経絡説を批判する古方派が台頭し、現在も日本漢方の中心を担っている。
つまり日本漢方においては、室町時代〜江戸時代までは陰陽五行論・臓腑経絡説が主流であり、江戸時代以降は主役の座から降りて今日に至る、といえます。
*************メモ**************
■ 日本の古典書籍
『風土記』(713年)、『古事記』(712年)、『大同類聚方』(808年)には陰陽や五行などの関連で病態を説明しようとする傾向がない。これらにみられる疾病や治療についての考え方は、古代中国のそれとは明確に異なっている。和方(わが国固有の歴史的な医学の系譜)は今日では民間薬としてその断片を残すのみである。
『医心方』(984年):鍼博士の丹波康頼(俳優の丹波哲郎の祖先)が隋・唐の医書百数十点から撰述して作成した医学全書。『諸病源候論』の引用部分には五行論による展開がみられる。
■ 中国の古典医書
陰陽五行説は遅くとも漢の時代には成立していたようである。
『黄帝内経』:人体構造や疾病を陰陽五行説によって解釈し、それに基づいて治療する考え方が展開されている。『黄帝内経素問』「陰陽応象大論篇」の書き出しに陰陽の二元論が徹底した相対的な存在として語られている。
『傷寒論』:曖昧さが少なく具体的な記述が多いが、『黄帝内経』にみられたと同じ範疇の陰陽や経絡が主要な論理要素として取り上げられているものもある。
■ 李朱医学の台頭〜朱子学が陰陽五行論のはじまり
宋代に興った儒学のうち朱子(1130-1200)により胎生された学派を朱子学と呼ぶ。孔子、孟子を祖とする儒学は主として人間社会を扱っていたが、この時代になると哲学的な命題や事物の法則性の究明などに向かった。
朱子学では天地が分かれる以前の宇宙万物の元始である太極から陰陽五行を導き、それら相互の関係を相性相克で説き、森羅万象を解明しようとした。
宋代に始まり、金・元の時代に至って花開いた、李東垣、朱丹渓らの金元四大家の医学は朱子学と同根の自然哲学に裏付けられていた。
■ 室町/戦国時代に活躍した田代三喜と曲直瀬道三
田代三喜は1487年に明に渡り李東垣、朱丹渓らの新しい医学である李朱医学に接してそれを習得して帰国した。
下野の足利学校に遊学していた曲直瀬道三は田代三喜の門に入り、7年の後に京都へ帰り啓廸院を開いて医生を育成し(門人800〜3000人)、李朱医学を実践した。
田代三喜が明の医学を伝えるに及んで、それまでの『和剤局方』などによる宋医学中心であったわが国の医学事情は大きな変化を迎えることになった。
李朱医学は温補派の医学であった。陰陽五行説や五運六気を唱えるその内容は、今日の中国伝統医学、いわゆる中医学にきわめて近いものであった。
曲直瀬道三の医学は陰陽五行説とそれに派生する臓腑経絡説を立論の根拠とする金元医学の流派であり、この後の18世紀に古方派と呼ばれる流派が確立するに及んで、それと対比させて後世派と呼ばれる。
■ 後世派と古方派(18世紀の日本)
日本における18世紀の漢方医学の2大流派;
【後世派】陰陽五行説とそれに派生する臓腑経絡説を立論の根拠とする金元医学の流派
【古方派】陰陽五行説を否定し『傷寒論』『金匱要略』など漢代の古典を陰陽五行説に染まらない至高のもの理解する流派
古方派の成立は18世紀中葉で、名古屋玄医、後藤艮山、山脇東洋らにより道三流の陰陽五行説・臓腑経絡説に批判が加えられ、吉益東洞が今日残る古方中心の日本漢方の枠組みを提示することになった。
吉益東洞はそれまでも伝統医学の移設を大胆に改変し、『傷寒論』『金匱要略』の正文とされた条文と腹候によってのみ方剤を運用すべしことを主張した。東洞の医説を検証すると、当時の解剖学に基づくオランダ医学から直接否定されることのない諸要素から慎重に構成されていることに驚かされる。