樅ノ木は残った。
山本周五郎の名作、「樅の木は残った」を例にとって、文学を考えてみたい。
「樅の木は残った」は氏の代表作であり、名作である、ということはもう誰も疑わない。文学の殿堂に入っている。あの作品のすごい所は、伊達騒動で悪役と見られていた原田甲斐を、とほうもない自己犠牲の善人で藩を守った人間、というように歴史を覆した所にあるだろう。そして、あの作品は人間の心の美しさを描いた所に文学的価値がある、と見なされている。歴史を覆した所に作者の凄さがある、と考えられている。では私は名作となった「樅の木は残った」が本当に名作か、と覆してみたい。私があの作品を読んで、まず感じた事は、「ちょっと人間をきれいに脚色しすぎている」・・・である。原田甲斐が本当にあんな自己犠牲の素晴らしい感動的な人間だっただろうか、というのが、率直な感想である。そして、文学というものは、大体において、見えすいた、そらぞらしい作り物の人間美の話は、かえって嫌気がさすものである。私だって、エロティックな小説だけではなく、人間美を描く作品くらい書こうと思えば書ける。しかし、私は文学の価値とは、作者の偽らぬ心の真実を書く事に価値があると思っている。見えすいたつくりものの感動話はかえって、読者にそらぞらしさを感じさせてしまう。しかし、文学には本当に優れた作品もあって、人間美を描きながら、真に読者を感動させるものも無数にある。いい例が、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」だと思う。あれは、作者に読者を感動させてやろうという意図が感じられず、虚心坦懐に書かれてあると感じるからである。また、作者のオスカー・ワイルドも、実際、うけようと意識して書いたものではないだろう。作者の感性が自然に作品になっているから、感動するのである。
こう書けば読者にうけるだろう、という作者の意図が見えてしまうと、しらけてしまうのである。
さて、そういう点で、「樅の木は残った」を考えてみると、やはり山本周五郎という人間につきあたる。彼は、どの作品においても、人間の心の美しさを書きたいことが、彼の文学のテーマだった。打算はない。読者を意識して、ねらって書いたものではない。氏は、直木賞を辞退するほど、また文学においても信念をもった作家だった。だから「樅の木は残った」は、やはり氏の真心によって書かれた作品なのだ。氏は、膨大な多作家であり、文学的体力があるとはいえ、「樅の木は残った」は大長編であり、資料を集めるのも大変だったろうし、単につくりものの感動話や、歴史の覆し、という次元が、動機だったら、とても、書く決断はもてなかっただろう。なので、やはり「樅の木は残った」は名作としか言いようが無い。作品は作者の訴えたい純粋な真心だけであり、いかなる打算も驚かし、もないのである。
結局、「樅の木は残った」が名作である、という説をくつがえす事は出来なかった。
山本周五郎の作品は、ストーリーも文体もしっかりしているのに、ちょっと読みにくい。設定がわからず、いきなりアクションから小説に入るのはいいが、人物の説明や設定の説明が無い。アクションから小説に入っても、大抵の作家は、少ししてから、設定や人物の説明を書く。しかし氏は、それが無いのである。これは、どうしてか疑問である。あれほどの小説を書けるのに、読者に対する親切心というものが無いのだろうか。しかし、小説は読みやすい。読みやすい、というのは、文体を持っているという事と読者に対する親切心があるからだ。これは疑問である。こういう点で対照的なのは芥川龍之介などだろう。芥川の小説はオーソドックスなのである。
山本周五郎の名作、「樅の木は残った」を例にとって、文学を考えてみたい。
「樅の木は残った」は氏の代表作であり、名作である、ということはもう誰も疑わない。文学の殿堂に入っている。あの作品のすごい所は、伊達騒動で悪役と見られていた原田甲斐を、とほうもない自己犠牲の善人で藩を守った人間、というように歴史を覆した所にあるだろう。そして、あの作品は人間の心の美しさを描いた所に文学的価値がある、と見なされている。歴史を覆した所に作者の凄さがある、と考えられている。では私は名作となった「樅の木は残った」が本当に名作か、と覆してみたい。私があの作品を読んで、まず感じた事は、「ちょっと人間をきれいに脚色しすぎている」・・・である。原田甲斐が本当にあんな自己犠牲の素晴らしい感動的な人間だっただろうか、というのが、率直な感想である。そして、文学というものは、大体において、見えすいた、そらぞらしい作り物の人間美の話は、かえって嫌気がさすものである。私だって、エロティックな小説だけではなく、人間美を描く作品くらい書こうと思えば書ける。しかし、私は文学の価値とは、作者の偽らぬ心の真実を書く事に価値があると思っている。見えすいたつくりものの感動話はかえって、読者にそらぞらしさを感じさせてしまう。しかし、文学には本当に優れた作品もあって、人間美を描きながら、真に読者を感動させるものも無数にある。いい例が、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」だと思う。あれは、作者に読者を感動させてやろうという意図が感じられず、虚心坦懐に書かれてあると感じるからである。また、作者のオスカー・ワイルドも、実際、うけようと意識して書いたものではないだろう。作者の感性が自然に作品になっているから、感動するのである。
こう書けば読者にうけるだろう、という作者の意図が見えてしまうと、しらけてしまうのである。
さて、そういう点で、「樅の木は残った」を考えてみると、やはり山本周五郎という人間につきあたる。彼は、どの作品においても、人間の心の美しさを書きたいことが、彼の文学のテーマだった。打算はない。読者を意識して、ねらって書いたものではない。氏は、直木賞を辞退するほど、また文学においても信念をもった作家だった。だから「樅の木は残った」は、やはり氏の真心によって書かれた作品なのだ。氏は、膨大な多作家であり、文学的体力があるとはいえ、「樅の木は残った」は大長編であり、資料を集めるのも大変だったろうし、単につくりものの感動話や、歴史の覆し、という次元が、動機だったら、とても、書く決断はもてなかっただろう。なので、やはり「樅の木は残った」は名作としか言いようが無い。作品は作者の訴えたい純粋な真心だけであり、いかなる打算も驚かし、もないのである。
結局、「樅の木は残った」が名作である、という説をくつがえす事は出来なかった。
山本周五郎の作品は、ストーリーも文体もしっかりしているのに、ちょっと読みにくい。設定がわからず、いきなりアクションから小説に入るのはいいが、人物の説明や設定の説明が無い。アクションから小説に入っても、大抵の作家は、少ししてから、設定や人物の説明を書く。しかし氏は、それが無いのである。これは、どうしてか疑問である。あれほどの小説を書けるのに、読者に対する親切心というものが無いのだろうか。しかし、小説は読みやすい。読みやすい、というのは、文体を持っているという事と読者に対する親切心があるからだ。これは疑問である。こういう点で対照的なのは芥川龍之介などだろう。芥川の小説はオーソドックスなのである。