小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

神風特攻隊

2009-01-25 01:35:40 | Weblog
神風特攻隊
国家、軍部が計画し、強制した神風特攻は、国家の横暴、強制、という点に於いては悪いこと極まりないが、それを信じ、夢も希望もありながら国を守ろうと身を捨てて敵艦に肉弾突入した特攻隊員は勇気のある崇高な人達である。私が日本を誇れる理由の一つも特攻隊員の存在があるからである。しかし特攻精神を持った人間は日本人だけではない。勇気とか、愛とか憎しみとか、そういう人間の根源的な感情には民族差は無い。外国のアメリカンフットボールの選手なんかは、特攻精神を持った人間であるし、チキンゲームやロシアンルーレットは外国のものである。だから私は精神の優位性という点で日本を誇っているのではない。まあ、歴史の事実に対して、と言おうか、日本の宿命に対して、と言ってもいい。
ただ特攻に於いて嫌な事が一つある。それは、特攻隊員の格好よさ、である。特攻といえば、多くの人は敵艦への航空特攻が頭に浮かぶだろう。あの姿は実に格好いい。航空服に日の丸の鉢巻をし、別れの水杯をし、ゼロ戦に乗って出撃する。全てが格好いい。男らしい。しかし私はその外見の格好良さに目を向けてはならないと思うのである。特攻を知ってる人なら知ってるが、特攻は、いわゆる航空特攻だけではない。人間魚雷、回天、人間ロケット桜花、無謀な敵陣殴りこみ、その他、追いつめられた日本はありとあらゆる事をやった。中には格好の悪い特攻だってある。そういう人達も精神の勇ましさでは、凛々しい航空特攻と全く同じなのである。区別してはならない。私が日本を誇れるのは、あくまで特攻隊員の精神の勇ましさに於いてのみであり、また、そうでなくてはならないと思うのである。
しかし、やはり心情としては、航空特攻の外見の格好良さにも惹かれてしまうのも事実である。あの航空服も日の丸の鉢巻もゼロ戦も実に美しい。ここで私は三島由紀夫の思想より梶原一騎の思想の方が上だと思うのである。三島は、「美しい」という事に死ぬまでこだわった。文学においても、文章が美しい、ということが絶対の条件だった。そして、また「葉隠れ」の思想にも、「美しさ」というものがある。しかし「葉隠れ」で説いている「美しさ」は、外見の美しさではない。あくまで精神の美しさ、である。梶原一騎も、「葉隠れ」の思想だったが、梶原は精神の美しさを表現し、外見の美しさは、むしろ嫌っている。梶原漫画では主人公は徹底的に格好わるく生きる。そういう点、梶原の葉隠れ観の方が、三島由紀夫の葉隠れ観より、上だと思うのである。三島の最期の作品である「豊穣の海」では、私は第二巻の「奔馬」が生理的に嫌いである。あれは、世間では、四部作の中で、一番いい作品として評価されているようだが、私は嫌いである。どうして思想的な死に、美しい夜明けの日輪と断崖と輝く海が必要なのよ。と言いたくなる。まあ、それが、軽い気持ちだったらいいが、三島にとっては外見の美しさも氏の思想の中で根をはってしまっているのである。思想の美と外見の美との両立という思想は私にはグロテスクにさえ思える。 そういう点、三島の短編の「憂国」は、そういうグロテスクさがなく、思想の美と外見の美とが無理につくらずに出来ているので、「奔馬」よりずっと気持ちよく読める。
ちなみに私は文芸評論家の奥野武男氏より、はるかに正確に三島由紀夫を理解していると自負しているから、時間があったら、「三島由紀夫論」も書きたいと思っている。奥野武男氏は「鏡子の家」を評価しているが、いささか的が外れた評価だと思う。三島文学を理解するにはエロティックな、性倒錯な性格の人でなければ出来ないのではないかと思うのである。

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