医学部5年の夏休みが終わった後の二学期のはじめの時の事である。二学期のはじめに臨床の全科目の中間テストが行なわれた。私はダブりで、このクラスには友達がいないので、二学期の初めに中間テストがあるという事を知らなかった。そのため、全く勉強せずに中間テストを受ける事になった。当然、結果はボロボロである。しかも私は皆が持ってる過去問も持っていなかった。中間テストの結果は発表しなかった。しかし一人だけ、中間テストの結果の悪い生徒達を発表して、さらに呼び出した先生がいた。口腔外科の教授である。先生は変人と噂されていた。先生は成績の悪かった生徒に、「懺悔」を言うよう求めた。確かに変である。しかし変な先生こそ実はいい先生ということはよくある。そういう先生は、他の人がしないことをするからである。
先生は成績の悪い生徒を呼び出した。二十人くらいいた。もちろん私もその一人である。
先生は、君達の懺悔を聞きたい、と叱った。
私は、ああ、いい事をいう先生もいるんだな、と思った。
そして先生はもう一つの話をした。
昔あった事で、先生は、学会に出席した。その年の母校の国家試験合格率は低かった。
他の、旧帝国大学医学部のある教授が、その事に対し、冗談か本気かは知らないが、先生に言った。
「君の学校じゃ、それも、しかたがないね」
この時、私はムカーと怒りが込み上げてきた。私は思わず拳を握りしめていたほどである。
当然、先生の意図は、生徒に発破をかける目的である。
私は、心の中で叫んだ。
「言ってくれるじゃねーか。やったろうじゃねーか。狂ったように勉強して東大生、見返してやろうじゃねえか」
だが、発破が効いたのは私だけだった。
みな、そんな事を言われてもポカンとしている。
中には、替え玉の生徒もいた。
説教の後、「あーあ。遊べなくなっちゃった」などと言っている生徒もいる。
私はあきれた。
こいつらには、意地ってものが無いのか。
そんな事を言われて、口惜しくないのか。
少なくとも私は口惜しい。
私はどんなに頑張っても東大理三(医学部)には入れない。
地元の横浜市大医学部にも、一次試験は通ったが、最終では落ちたほどである。
私には東大出の医者に劣等感がある。
まあ、医学部以外なら、国公立の医学部は東大の理系と偏差値は同じだから、私は東大の理系学部に入る事は出来るだろう。しかし、東大の医学部の偏差値は飛び抜けているのである。まあ彼らは日本で一番、頭のいい連中100人なのである。
まあ、東大ほどではなくとも、横浜市大医学部に入れなかった事は私の劣等感である。
父親の会社も一流で、東大、一ツ橋、慶応などを土つかずで優秀な成績で卒業したものしか採用しない。父親は高卒だか英語が出来たため、うまい具合に入社できたのである。しかし、高卒と大卒とでは、入社後の出世や給料が違うのである。そのため、父親は劣等感が強い性格も加わって、いつもその事でグチを言っていた。そして東大信仰が強いのである。私も東大理三には、どんなに努力しても入れない。なので東大出の医者に劣等感をもっているのである。
また先生は、叱ったはじめに、「哲学書でも読んでいたか?」と言った。これは、あながち私には完全には、はずれていない。5年の一学期は、私は作家として認められたく、彫心鏤骨の思いで、ある文学賞に投稿するための80枚の小説を書いていた。私は本気だったし、生まれてはじめての投稿である上、まだ文章力も十分ではない。少なくとも私は生きる事に精一杯、努力していた。また5年の夏休みは、読んでいなかったが、私は哲学書を読む変人である。
そしてポリクリが始まった。
第二内科(呼吸器)の時だった。
ミニレクチャーで、教授が東大のことにふれた。
その事は、私も以前から何となく思っていた。
教授は言った。
「東大出の医者は、大量の論文を読ませると、それを読んで理解する速さは速い。しかし、彼らは何かを発見するような独創性や創造性は特に優れているわけではない。もちろん、東大出も発見をすることはある。しかし、それは、ほとんど二番煎じ。彼らが何か発見した時には、その発見はもう他の誰かが発見している事がほとんど」
負け惜しみ、か、事実かは知らないが、教授の口ぶりでは、負け惜しみとは感じられなかった。
東大に対する劣等感とは別に、ポリクリでは、指が折れるかと思うほど一字一句、オーベンの言葉はノートした。
また、私は、自分が何かやりだすと、夜昼かまわず、とことんやり抜く人間である事に気がついた。自分でも自分がおそろしくなった。
先生は成績の悪い生徒を呼び出した。二十人くらいいた。もちろん私もその一人である。
先生は、君達の懺悔を聞きたい、と叱った。
私は、ああ、いい事をいう先生もいるんだな、と思った。
そして先生はもう一つの話をした。
昔あった事で、先生は、学会に出席した。その年の母校の国家試験合格率は低かった。
他の、旧帝国大学医学部のある教授が、その事に対し、冗談か本気かは知らないが、先生に言った。
「君の学校じゃ、それも、しかたがないね」
この時、私はムカーと怒りが込み上げてきた。私は思わず拳を握りしめていたほどである。
当然、先生の意図は、生徒に発破をかける目的である。
私は、心の中で叫んだ。
「言ってくれるじゃねーか。やったろうじゃねーか。狂ったように勉強して東大生、見返してやろうじゃねえか」
だが、発破が効いたのは私だけだった。
みな、そんな事を言われてもポカンとしている。
中には、替え玉の生徒もいた。
説教の後、「あーあ。遊べなくなっちゃった」などと言っている生徒もいる。
私はあきれた。
こいつらには、意地ってものが無いのか。
そんな事を言われて、口惜しくないのか。
少なくとも私は口惜しい。
私はどんなに頑張っても東大理三(医学部)には入れない。
地元の横浜市大医学部にも、一次試験は通ったが、最終では落ちたほどである。
私には東大出の医者に劣等感がある。
まあ、医学部以外なら、国公立の医学部は東大の理系と偏差値は同じだから、私は東大の理系学部に入る事は出来るだろう。しかし、東大の医学部の偏差値は飛び抜けているのである。まあ彼らは日本で一番、頭のいい連中100人なのである。
まあ、東大ほどではなくとも、横浜市大医学部に入れなかった事は私の劣等感である。
父親の会社も一流で、東大、一ツ橋、慶応などを土つかずで優秀な成績で卒業したものしか採用しない。父親は高卒だか英語が出来たため、うまい具合に入社できたのである。しかし、高卒と大卒とでは、入社後の出世や給料が違うのである。そのため、父親は劣等感が強い性格も加わって、いつもその事でグチを言っていた。そして東大信仰が強いのである。私も東大理三には、どんなに努力しても入れない。なので東大出の医者に劣等感をもっているのである。
また先生は、叱ったはじめに、「哲学書でも読んでいたか?」と言った。これは、あながち私には完全には、はずれていない。5年の一学期は、私は作家として認められたく、彫心鏤骨の思いで、ある文学賞に投稿するための80枚の小説を書いていた。私は本気だったし、生まれてはじめての投稿である上、まだ文章力も十分ではない。少なくとも私は生きる事に精一杯、努力していた。また5年の夏休みは、読んでいなかったが、私は哲学書を読む変人である。
そしてポリクリが始まった。
第二内科(呼吸器)の時だった。
ミニレクチャーで、教授が東大のことにふれた。
その事は、私も以前から何となく思っていた。
教授は言った。
「東大出の医者は、大量の論文を読ませると、それを読んで理解する速さは速い。しかし、彼らは何かを発見するような独創性や創造性は特に優れているわけではない。もちろん、東大出も発見をすることはある。しかし、それは、ほとんど二番煎じ。彼らが何か発見した時には、その発見はもう他の誰かが発見している事がほとんど」
負け惜しみ、か、事実かは知らないが、教授の口ぶりでは、負け惜しみとは感じられなかった。
東大に対する劣等感とは別に、ポリクリでは、指が折れるかと思うほど一字一句、オーベンの言葉はノートした。
また、私は、自分が何かやりだすと、夜昼かまわず、とことんやり抜く人間である事に気がついた。自分でも自分がおそろしくなった。