なんというか、迷いというのは本当に人を惑わせる。
どんなことにも付きものなのだが。
幼い頃から、面倒くさがりだった。
小学校の頃の数学、当時は算数だがそれも面倒なので、全部覚えることにした。ということを勝手に自分で決めてしまった。
本質を理解することが算数であるのに。
まあ、周りがすんなり進んでいくので、そんなもんなんだろうと当時は思っていたが。
きっと、帰ってからも勉強をするのが当たり前だったんでしょうね(苦笑)
当時勉強は学校でするものという何だか頑なな拘りが在ったように思う。
それが、面倒くさがりだった自分の解決方法が全部覚えるという、行為に繋がった様にも思う。
昔から一人、いや妹が居たか。何だか戦友の様なきもちもあるが、それも中学の時に失せたか。
場所を変えるか、時間の使い方を変えるか、人付き合いを変えるか。か。。。
ネットとは本当に不思議だ。
今の世の様に個人が様々な場所で自分の考えを述べ合っている。
私がネットを始めた2000年の境90年後半頃ならば考えられなかった様なことだ。
その頃はダイヤルアップだったし。あの電話に繋げるピ~ピィリリーって音が何だか懐かしい。
当時までに、HIDEのCDを聞くことが有ったが、そんな音で感覚を共有しているようで益々好きになったことをCDを聞いて思い出すこともある。
英語とはなんだろうか。
英語を勉強していると何時も感じることである。
そして、心理学史も勉強しているとやはり重なってくる。
日本語は感覚に寄り添った言語だと思う。
平安時代は今よりもっと情緒豊かな表現があった。
いかにしてもっと巧くその内容を表現することを競っていた。
そして現代である。
日本語が英語化してしまった様に感じる。
総てを対象化して見るようにする。
私はそれは違うんじゃ無いかと感じるし思う。
心理というモノの認められる過程を見るにつけやはりそういう対象かにより科学とされる。
海外的な制御すること。が科学というものの本質になっている。
まあ、解る人が見れば当然だと言われそうだが、私が言いたいのはその先に有る日本語としての科学という、ものである。
それは科学では無くなるのだろうか?
私は違うと思う。
制御をベースとした考え方に今の世は限界に来ているのでは無いだろうか?
日本語的な思弁とでも言うのかそれから出発した思考により、それが計測出来ればそれこそがより深い探索に成るのでは無いだろうかと、最近思わずには居られない。
なんな考えをした人が居ないのかと思っていたときににた考えの人が、三枝博音だった。
彼の文章は旧字体で非常に難解だが、興味深い所もあった。
どんな事を論じていたのか、一部しか読んでいないので何とも言いがたいが。
日本語は半身の、魂の半身の様な存在であると私は最近よく考えるのだ。