日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

幻想の片鱗  20180612-16 修正-17

2018-06-12 23:51:49 | 日記
 人の幻想とは何だろうか。そう思うのは最近複数の言語を学習する事が,複眼的な見方が出来るとする言葉を見かけたからだ。


私にとってはとても不思議な事で,私にはそれは複眼的な見方には為らないと思うからだ。


そう思うのは学んだから解る事であるが,葉の状態を想像してみると良く解る気がする。それは表の葉から見るのと,裏の葉から見るのと,側面から見るのではそれぞれ見方が違うと言うことだがそれは表の表面は日光を受け易くできて,裏には孔があったり。側面ではそれはギザギザ状で凹凸があったりと。それを見る時の認識の仕方だろうか。それが様々な道具である様に思う。修正。此れの話に付いてが未だ自分の中で固まっていなくて興味のあり深めていることであった。生けないところが又出てしまった。こういう思い込みのような所に傾き易いと言うところが私の過ち易い所だと言うのに。傲慢と言う事になってしまうのかな・・。仕方が無いか,何と言っても眠たくなる寸前に文章を書いているんだもんな(微笑)


その何れも葉を見てはいるが,葉の構造が解るだけで,葉がどの様な役割なのかは解っていない。引いてみると多くある葉の状態が解る。葉の構造は似ていても,今どの様な状態にあるのか,或いは他に幹はあるのかなど。位置を変えているだけで,複眼には成って居ない様に思う。これは非常に重要な事で重大な錯覚だと思うのだが。


物事を複眼的に見ると言うことはその多くの幹が,森でどの様な立場にあるのか,地形はどうか,それからの流れはなど。それは全体像を把握するということで,一箇所では出来なくてそういうことではないだろうか。


最近外国言語を学んでいる人が,他の言語との違いとして日本語は多くの比が用いられると語られていたが,此処に何か答えがありそうだと思い文が進む思いに至る。日本の図書館に大学を含めて一館しかない高い本があり,取り寄せるにも千円掛かるらしいので,それを買っていたのでそれを読む時が来たのかな。


私が知っていたのは線で表した模式図が記憶にあるがどうも感覚が理解できなかったが,解る気がしてきた。あの本なんだったかな・・。



何だかミームと言うものが単発だったのもが,重ね合わせて感覚が解って来た気がする。


何だか本質が重なってどういう風に重なって行くかが分かって気がする。
コメント
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