日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

予断と錯覚 追記20180807

2018-08-04 00:32:11 | 日記
 この様な状態に何故為ってしまったのか・・。普通に考えれば高校時代の問題のようにも思うが,高校時代の問題は中学時代の問題であり,それは小学時代の問題でもある。私の人生の中で足を引っ張っている数学と英語。

よく,数学と英語だけは塾に行かせていると言う同級生を見かけた。彼らは低学年の時は私の方が成績が良かったのに,高学年などの時には大きく成績を伸ばしている様だった。当時は認めたくない気持ちが今思えばあり,否定していた様にも思える。

どう否定していたのかと言えば,見ない様にしていたと言えるのかもしれない・・。そんなことをしても何の解決にもならないのに。。

それでそれが許せない気持ちもあり,算数塾に通い出したが,此処でも妹に邪魔され私の行動を妨げて,更にはやる気を削がれる。そこで又,一瞬考え付いた事も妨げさせられる。そんな事に意識を取られてはいけないのに。


そんな事を下敷きにしつつ,思うこと。それは算数で数学の本質がズレて行ってしまった選択。それは何故だろうかと言う思い。


先ず,第一には身近に周りにファーストカレッジの人物が居なかったということ。父方の祖父は優秀で,そうではなかったが早死にしてしまったこと。

第二に周りの大人達が私には良く話し合っている姿を見て聞いていて,分からない事が多くあったりしたし,もっと高学歴な人達は更に良く知っているんだと思えたし,加えて今,目の前に居るこの大人たちがこんなに,真面目に真剣に真摯に語っているんだから,もっと学んで国に尽くしている人たちは高潔に誠実に将来のために尽くしているんだろうと思い込んでしまったこと。


そういう第一第二を下敷きにしてしまった結果,そういう政治的目的を排していると当時思えた数学や理科などはしっかりと誠実に真面目に,将来に意味があり、それに資する様に教えられている筈だと解釈してしまったんだろうな。それが,判断を誤った事を高学年になり気付かされた事だったのかも知れないな。 (追記)小学校高学年の気付きはそれでも数学や理科は誠実で真摯な態度は高等教育に為ってからだろうと何となく思ってしまったのかな・・。否、思いたかったのか。。 人間にあるという楽観主義と言うヤツか・・


特に数学の話が逆だったとは思わなかったよな。数学の様な所がしっかり教えられていれば,塾に通う必要も無い訳で,更には逆にする事で数学の本質を見失わせ,物事の抽象化を妨げさせ,社会現象と何も関係ないかの様に錯覚させ,完全に独立されせられた世界のように思わせ,感覚と切り離して行くという工作が行われた。GHQの洗脳工作。


こういう状態に陥らない為にはどうしたものか・・。小学時代から社会が何だか欺瞞が溢れている様で何かがおかしいと言う思いは感じ,社会構造の何処がそれを感じさせるのかと言う思いはあり,米国に負けたという事実が何処までを侵しているのか,取り上げられるものだと思っていたものな。それも,前述した誠実さがあると錯覚していた所以でもあると・・。


此処までは遣らないだろうという,思い込み違うか・・予断・・・なのかもしれないか。。


思い込みというの私も結構あるんだよなー。大学入りたての時もそうだった気がする・・・・。
コメント
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