いにしえの愛を求めて。。。
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春過ぎて夏来たるらし白たえの
衣(ころも)ほしたり天(あめ)の香具山
これは万葉集の中に収められた持統天皇の歌です。
「白たえ」の“たえ”は楮のこと。
こうぞ・くわ科の落葉低木で、春、淡黄緑色の花が穂状に咲く。
六月頃に熟して赤く、甘くなる。
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樹皮は和紙の原料になる。
「白たえ」とは、この楮の樹皮で作った白い布。
「衣」は一人二人が洗濯して干したものではなく、調(みつぎもの・古代日本の税制。みつぎ物として納める土地の産物の類)として諸国から集められた真っ白な衣であると言う説もある。
東京都調布市は多摩川のほとりでさらされた「調(みつぎ)もの」の布が産出された地という。
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天の香具山」は奈良県橿原市にある山。
藤原京の東南にある海抜148メートルの山。
麓からは48メートルの丘。
高天原から天降った山と伝えられている。
大和三山の中でも特に神聖視されていた。
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上の歌の意味は、詳しいことを何も知らないで解釈すれば次のようになるでしょう。
春が過ぎて夏が来たようだ。
天の香具山に美しく真っ白な衣が干してあるなあぁ~
この歌は万葉集の中でも有名な歌ですよね。
僕が初めてこの歌を目にしたのは中学のときの国語の時間だったように覚えています。
先生が感動したようにこの歌を解説してくれましたが、
なんでそれほど有名な歌なのか、僕にはさっぱり分かりませんでした。
高校の古文でもこの歌を目にしたように記憶しています。
先生は、やっぱりこの有名な歌を一通り解説してくれましたが、
僕にはこの歌のすばらしさが分かりませんでした。
大体次のように説明してくれたものです。
初夏になって爽やかな日の下、香具山のふもとで村人が衣服の虫干しをしている。
持統天皇がこの様子を藤原京の宮殿から眺めて上の歌を詠(よ)んだ。
青々とした新緑の香具山に白い布が干してある美しい姿を見て、春が過ぎて夏が来たという季節感を詠んだ。
季節感がこの歌の主題である。
四季の変化への感動を詠(うた)っている。
「春過ぎて夏が来た」ということを詠(よ)みたかったのである。
初句と二句で夏が来た感動を詠み、三句と四句でその感動を起こさせた対象を詠った。
そして結句で天香具山といふ具体的な場所を取り上げている。
日本人の生活はきはめて規則正しい四季の変化の中で営まれる。
日本は季節の変化がそのまま自然の変化である。
それゆえに我が国の詩歌には季節の移り変りを詠った歌に良い歌が多い。
この持統天皇の歌はその代表格の歌である。
さらに古文の先生は続けたものでした。
小高い宮城から持統天皇が村人が虫干ししているのを見て微笑んでいる。
この有名な歌には天皇が暖かい目で農民を見守っていることが見て取れる。
決して農民を虫けらのごとく扱っていない。
そして農民たちの生活がますます豊かになることを、和歌を通じて祈りたい気持ちが初夏の息吹とともに伝わってくる。
僕もこのような説明を聞きながら、“そういうものかなあぁ~”。。。と思ったものです。
それにしても腹が減ってきたなあぁ~、早くお昼になってくれないかなあぁ~弁当を食べたいなあぁ~。
実は、僕はどうでもよいと思いながら聞いていたんですよ。うへへへ。。。。
しかし、今考えてみると、持統天皇の歌をどのように解釈しても、それほど有名な歌の中に、感動を呼び起こすようなところがどこにも感じられないのですよね。
少なくとも僕には感じられない。
持統天皇が詠んだものでなければ、取り上げてもらえなかったのではないのか?
この歌を、仮に名もない村人が詠(うた)ったものだとしたら、取り上げてもらえなかったのではないか?
では、一体この歌のどこに万葉集に載せるだけの価値があるのだろうか?
僕はおとといの記事(『性と愛の影に隠れて ☆ 万葉集の中の政治批判』)で書いたように、万葉集は大伴家持が政治批判のために編纂したものだという自論を持っています。
大伴家持はこの歌を万葉集に取り上げることで何を後世の我々に伝えたかったのか?
僕は、そのような見方で、もう一度持統天皇の歌を読み直してみたのです。
僕は上の記事の中で次のように書きました。
大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。
彼女は天武2年(673年)に父・天武天皇の指図に従って伊勢神宮に奉仕する最初の斎王(いつきのみこ)となり、伊勢の斎宮(いつきのみや)に移ってお勤めをするようになったのです。
しかし、大津皇子が自害した1ヶ月余りの後に、弟の罪により斎王の任を解かれて飛鳥に戻ったのです。
現身(うつそみ)の
人なる吾(われ)や
明日よりは
二上山を
弟背(いろせ)とわが見む
(巻2-165)
この世に生き残った私は、明日からは、
弟が葬られている二上山を弟と思い見て、
慕い偲ぶことにしよう。
上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、大伯皇女が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。
死体を掘り起こして他の場所に埋めなおす。
なぜそのような酷(むご)いことをしなければならないのか?
大伯皇女も、そう思って心が痛んだことでしょう。
平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。
大津皇子の霊が龍となって崇りを起こしたため、大津皇子の師であった僧の義淵(ぎえん)が皇子の霊を祈祷によって鎮めた。
つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
その罪を着せたのは誰あろう持統天皇なのです。
そして、大津皇子の死体を二上山に移して、皇子の霊を飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのも持統天皇のしたことです。
持統天皇が詠んだ上の歌と大津皇子とは、何か関係があるのではないか?
僕は、そう思いながら大津皇子の残した次の辞世の歌を読んでみたのです。
ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨(かも)を
今日のみ見てや 雲隠(くもがく)りなむ
無実の謀反の罪を着せられて自害しなければならない。
大津皇子は自害する前にこの歌を詠んだわけです。
大体次のような意味です。
大和の磐余の池に鳴く鴨を見ることも、今日を限りとして私は死ななければならないのか。。。
痛ましいですよね。
哀れだと言う他にないですよね。
。。。で、この歌と持統天皇の歌に何か関連性はないものか?
僕は一生懸命考えました。
磐余(いわれ)の池とは、一体どこにあるのか?
そう思いながら調べ始めました。
上の地図を見てください。
もしかすると、あなたは上の大津皇子の辞世の歌を読んだ時に地図の中に書いてある“磐余の池”が目に浮かんだかも知れませんよね?
僕はそのつもりで書き込んだのですよ。
実は、この“磐余の池”の所在地まだ確定されていないのです。
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この辺に“磐余の池”があったのだろうと思われる所に、現在は大津皇子の辞世の歌碑があります。
一面田んぼや畑に囲まれ、のどかな風景が広がっています。
歌碑の後ろには稲が青々と茂っていました。
ここに昔、池があったこと物語っているように葦も生息していました。
日本書紀にはこう書かれています。
「冬十月戊辰朔己巳。皇子大津謀反発覚。逮捕皇子大津。・・・(中略)・・・庚午。賜死皇子大津於譯田舎。時年廿四。妃皇女山邊被髪従跣。奔赴殉焉。見者皆歔欷。・・・(後略)・・・」
10月2日 大津皇子の謀反が発覚する。大津皇子は逮捕された。
…(中略)…
10月3日。大津皇子は於譯田舎(おさだの家)にて死を賜る。
この時24歳だった。
妻の山辺皇女は髪を振り乱し裸足で駆けて行き、共に殉死された。
見るものは皆哀しんだと言う。・・・(後略)・・・”
妻の山辺皇女は髪を振り乱し
裸足で駆けて行き、共に殉死された。
なんとも痛ましいではありませんか!
むごすぎますよね。
大津皇子の辞世の句は、じっくりと読めば次のようになるのでしょうね。
大和の磐余の池に鳴く鴨を見ることも、
今日を限りとして私は死ななければならないのか。。。
口惜しいことよ。やり残したことはある。
私は間違ってはいない。
だが、行かねばならないようだ。
それが私の運命だと言うのなら仕方がない。
この身に受けよう。
上の地図を見てください。
持統天皇は、天香具山を眺めながら、このページのトップに掲げた歌を詠(うた)った。
女帝の歌を読む限り、どこにも大津皇子との関連は無いように見えます。
しかし、大津皇子の辞世の歌を読めば“磐余の池”がはっきりと詠まれている。
だからこそ、1300年もたっているのに、その歌碑が現在“磐余の池”と思われるところに立っている。
持統天皇は上の歌を詠んだ時に、“磐余の池”が目に入らなかったのか?
確かに、天香具山に隠れて“磐余の池”を見ることはできない。
しかし、心の目ははっきりと“磐余の池”を見ているはずなんですよね。
大津皇子の霊が崇りを起こしたので、飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのが、この持統天皇です。
だから、天香具山を眺めて“磐余の池”の見えないはずがありません。
持統天皇の詠った歌は、大津皇子の怨霊に対する鎮魂の歌だったに違いない、と僕は思うようになりました。
しかも、大津皇子が自害した後、髪を振り乱し裸足で駆けて行き、共に殉死した山辺皇女は持統天皇の腹違いの妹なんですよ。
持統女帝も山辺皇女も天智天皇の娘です。
それに、大津皇子は持統女帝の、すでに亡くなっている実のお姉さんの息子なんですよね。
持統天皇は、こうして二人の肉親を死に追いやったのです。
上の歌には行間に、女帝が死に追いやった二人の肉親の怨霊への鎮魂の気持ちが込められているはずです。
そうでもしない限り、持統天皇の心の平穏は永遠に訪れないでしょうね。
寝覚めが悪いし、グッスリ眠れませんよ。
あなたも、そう思いませんか?
しかし、この歌を選んだ大伴家持は、果たして“磐余の池”にまつわる大津皇子の悲しいエピソードを知っていたのだろうか?
ところで、おととい(6月3日)、Realogで書いた記事(『性と愛の影に隠れて PART 4』)に更紗さんから次のようなコメントをもらいました。