怖~い、とても怖~い女の確執?
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おほほほほ。。。
『新しい古代日本史』サイトから
出向してきたので
ござ~♪~ますわ。
デンマンさんが
出ろっつんですのよ!
あたくしは嫌~♪~だ
イヤ~♪~だと
言ったんでござ~♪~ますのよ。
でも、出ないのなら、
バンクーバーへ来ても
追い返すっつんですよ。
あたくし、今年の夏休みには
ぜひともバンクーバーへ行って、
レンゲさんのようにデンマンさんに
甘えたいんでざ~♪~ますのよ。
うひひひひ。。。。
あらあぁ~~ごめんなさいね、
個人的なことを申し上げてしまって。。。
今日はね、怖~い、とっても怖~い女の確執について
デンマンさんが書いてくれるはずですわ。
デンマンさん、この程度のご紹介でよろしいでしょう?
おほほほほ。。。。
まあ。。。仕方ないですよね。
どうでも良いことを並べ立てて、全く紹介になっていないんですが、
卑弥子さんの事だから、この程度で上等でしょう。
とにかく、今日は奈良時代の怖い怖~♪~い女の確執について書いてみようと思います。
実は、6月9日にRealogで書いた記事(『愛と憎しみの原点?PART 3』)に更紗さんから次のようなコメントをもらったんですよ。
この記事の全文を1ページで読みたい人は次のリンクをクリックしてください。
『愛と憎しみの原点?』
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不破内親王と安倍内親王の両方が、
お互いがお互いの歌を万葉集に載せないように、
大伴家持に圧力をかけたのかもしれませんね。
女が喧嘩する時は、絶対にタイマンをはりませんから。
必ず周囲を巻き込んで、「私の味方をしなさい!」って言って、
複数VS複数の戦いにする傾向があるんです。
大伴家持もそれに巻き込まれて、
双方から
「私の味方になりなさい!
そして、あの女の歌を万葉集から削除しなさい!」
。。。って言われていそうです。
by 更紗 2006/06/13 18:23
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更紗さん、コメントありがとう!
面白い解釈ですよ!
またインスピレーションが
湧いてきましたよ。
記事が書けそうです。
いつも貴重なコメントありがとね。
ところで、“タイマンをはる”というのは
どういう意味ですか?
僕は使った事がないんですよ。
“怠慢になる”ということですか?
もし時間があったら説明してくださいね。
17日か19日に、このことで記事を書きたいと思います。
更紗さんのコメントを使わせてもらうので、よろしく。
とにかく貴重なコメント感謝してま~♪~す!
じゃあね。
Thanx millions!
by デンマン 2006/06/14 12:46
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タイマンとは、「一対一の喧嘩」の意味です。
あまり上品な言葉ではないので、
辞書には載っていないかも…(^^;)
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by 更紗 2006/06/14 14:11
僕が使っている三省堂国語辞典には載っていませんよ。
初めて目にしました。
そうなんですか。。。
「一対一の喧嘩」ねぇ~~
方言なのですかねえぇ~~?
僕は生まれは埼玉県なんですが、そういう言い方はなかったですよ。
もしかすると、最近流行の俗語なんでしょうか?
とにかく興味深いことです。
勉強させてもらいました。
このことでも記事が書けそうですよ。
うへへへへ。。。。
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とにかく、すばやい返信ありがとね。
感謝で~♪~す!
じゃあね。
by デンマン 2006/06/15 14:48
『愛と憎しみの原点?PART 3』のコメント欄より
そういうわけです。
では、怖い女性の一人を紹介します。
不破内親王(ふわないしんのう)
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生まれは723年(養老7年)頃で
795年(延暦14年)頃亡くなったとみなされている。
聖武天皇の娘。
母は県犬養広刀自。
姉は光仁天皇の皇后になる井上内親王。
同母弟に安積(あさか)親王がいる。
孝謙天皇の異母妹。
塩焼王の妻。
739年頃、天武天皇の孫で新田部親王の子である塩焼王に嫁ぎ、志計志麻呂(しけしまろ)・川継(かわつぐ)の二人の息子を産む。
ただし、一部には両者を同一人物とする説もある。
757(天平宝字1)年、夫の塩焼王は臣籍降下して氷上真人塩焼と改名。
764年に夫の塩焼王は恵美押勝の乱に加わったとして処刑される。
769年、県犬養姉女、忍坂女王、石田女王らと共に称徳天皇を呪詛し、息子の志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとしたとして、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ--“台所の下女”という意味)という名に改名された上、平城京から追放された。
志計志麻呂は土佐国に流罪となる。
771年にそれが冤罪(えんざい)だったと判明し、帰京する。
782年、息子の川継が謀反(氷上川継の乱)を起こして伊豆国に流されたのに連座し、不破内親王も淡路国へ流される。
795年、淡路から和泉国に移されたのを最後に、史料上での消息が途切れる事から、この頃に亡くなったものと思われる。
SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
不破内親王の姉である井上内親王は哀れな女性で非業(ひごう)の死に方をしています。
773(宝亀4)年、難波内親王(光仁天皇の姉妹)を呪詛した罪で、大和国宇智郡の没官の宅に息子の他戸王と共に幽閉されました。
しかし、井上内親王母子が難波内親王を呪詛すべき理由は見当たらないのです。
藤原式家の藤原百川と山部親王(後の桓武天皇)らの謀略に陥れられたと見る歴史家が多い。
775(宝亀6)年、幽閉先で他戸王(25才)と共に変死したことになっていますが、
僕は暗殺されたと見ています。
不破内親王の弟である安積親王は17才の時に藤原仲麻呂に毒殺されました。
この事については次の記事にかきました。
『性と愛の影に隠れて---万葉集の中の政治批判』
とにかく同母姉も同母弟も不幸な死に方をしています。
不破内親王はどうだったのか?
実はどのように亡くなったのかは記録に残っていないんですよね。
少なくとも795年には生きていたという事が分かっています。
その年に亡くなったとすると、72才です。
つまり、けっこう長生きをしたんですよね。
更紗さんのコメントの中に“不破内親王姉妹(安倍内親王の異母姉妹)も悪霊扱いされています”と書いてあります。
井上内親王も不破内親王も恨みを呑んで亡くなったようなので、“悪霊”扱いされるのが分かるような気がします。
しかし、この二人の女性に関する本を読んでゆくと井上内親王に対しては同情的でも、不破内親王に対しては、けっこう辛らつな見方をしている歴史家がかなり居ます。
つまり、殺された姉と弟とは異なり、不破内親王は、かなり“したたか”な女だったのではないか?
とにかく、この当時の朝廷には権謀術策を弄する輩(やから)がたくさん居ました。
しかも、陰謀が渦を巻いているような状況でした。
事実、この不破内親王は次のような事件に巻き込まれているのです。
1) 天平14(742)年10月、夫の塩焼王が伊豆へ配流された事件。
なぜ塩焼王が流罪になったのかは明記されていない。
この事件は巫蠱厭魅(ふこえんみ: まじないをして人を呪うこと)であって、その主犯に不破内親王を想定している歴史家が居ます。
2) 天平宝字元(757)年7月、橘奈良麻呂の変の際に塩焼王が皇嗣候補に担がれた。
しかし、塩焼王は、危うく連坐を免れた。
この事件をきっかけに、塩焼王が皇位への望みを捨てるように氷上真人という姓をもらい、臣籍降下させられた。
不破内親王も何らかのとばっちりを受けた可能性がある。
3) 天平宝字8(764)年9月の恵美押勝の乱に係わっていた。
この乱で、塩焼王(氷上真人塩焼)が恵美押勝に「今帝」と担がれた。
塩焼王は斬殺される結果となった。
不破内親王も夫の行動に従っていたと考えられる。
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興福寺の国宝・阿修羅像
後年、称徳女帝になる阿部内親王が16才の時に作られた像。
この時、16才の内親王がモデルになったと僕は信じています。
詳しくは次の記事を読んでください。
『日本女性の愛と情念の原点』
4) 神護景雲3(769)年5月の巫蠱事件。
県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王のもとで氷上志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとする巫蠱厭魅を行った。
称徳女帝の髪を盗んできて、佐保川の髑髏に入れて呪詛するという、おぞましいものであった。
この事件によって、不破内親王は「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」と名前を改めさせられて京外追放された。
志計志麻呂は土佐に配流となった。
5) 延暦元(782)年閏正月、息子の氷上川継(かわつぐ)の乱。
氷上川継は伊豆へ流罪。
母親の不破内親王は『養老律令』に「謀反人」の母に連坐規定がないにもかかわらず淡路に配流となった。
このように不破内親王は5件もの事件にかかわっているのですね。
すべてが冤罪(えんざい)と見るには無理があるというわけです。
最後の事件など、『養老律令』に「謀反人」の母に連坐規定がないにもかかわらず淡路に配流となった、という事実がある。
つまり、不破内親王は直接事件に関わっていたのではないだろうか?という疑問が頭を持ち上げてきます。
これだけの事件に、不破内親王の名前が出てきて、しかも、少なくとも72才まで生きたという事は、彼女が相当にしたたかな女ではなかったのか?
僕も、不破内親王を調べながら、だんだんそのような気になってきましたよ。
しかし、実際はどうだったのだろうか?
不破内親王は、事件に直接関与した、したたかな女だったのだろうか?
それとも、不本意にも陰謀に巻き込まれた哀れな女にすぎなかったのだろうか?
不破内親王は阿倍内親王に毛嫌いされた!
塚野重雄さんが『不破内親王の直叙と天平十四年塩焼王配流事件』の中で、この事件を巫蠱厭魅(ふこえんみ)だと見て、その主犯に不破内親王を想定しています。
天平14年に起こったこの事件も皇位継承に絡んだものです。
当時、聖武帝の唯一の息子であった安積親王を差し置いて阿倍内親王が前代未聞の女性皇太子となったのです。
安積親王の同母姉である不破内親王が憤りを覚えて阿倍内親王を厭魅呪詛(えんみじゅそ)したと言うのです。
不破内親王の気持ちは良く分かりますよね。
この当時生きていたら、あなたも僕も絶対に不破内親王の肩を持つはずです。
なぜなら、最近の日本の女帝問題を考えてみてください。
現在、天皇の跡を継ぐ男子が居なくなるので女帝問題が騒がれているんですよね。
もし、天皇の跡を継ぐ男子が皇室に居れば、これほど女帝問題が現在の日本で話題になる事はないでしょう。
天皇継承権を持つ男子が居れば、その男子が将来、天皇の跡を継げば良いのだから、今のように女帝問題がマスコミで取り上げられるはずがないのです。
ところが、天平14年当時、天皇継承権を持つ男子が居た。安積親王です。
だから、何も問題がなかったはずでした。
ところが、安積親王が皇太子にならずに、阿倍内親王が前代未聞の女性皇太子となった。
これでは、問題になるのが当たり前ですよね。
たとえば、同じ状況が明治時代に出現したと想定してみれば良く分かりますよ。
明治のあとは大正ですよね。
その大正天皇は、あなたも知っていると思いますが、精神に異常をきたして大正時代の後年には、当時の皇太子(後の昭和天皇)が摂政になって政務を見た。
僕が子供の頃、祖母が笑い話として話してくれました。
居並ぶ大臣の前で天皇が詔勅を読むときには、卒業式のときに渡される証書のような紙を開いて読むわけです。
大正天皇は一応字が読めるから、一通り読んだそうです。
ところが読み終わったあと、その紙を丸めて、望遠鏡のようにして目に当て、居並ぶ大臣たちを見渡したというのです。
もちろん、僕の祖母がその場に居たわけではありません。
でも、そういう話が庶民の間にまで伝わって、僕の祖母の耳にも入った。
それほど、この大正天皇には奇行があったそうです。
おそらく、精神的に問題がある人だということは大正天皇が皇太子になる以前に分かっていたでしょう。
でも、そうだからといって女性である内親王を皇太子にしたら、明治時代でも大問題になったでしょうね。
ところが、天平14年には安積親王という男子継承者が居るにもかかわらず阿倍内親王を皇太子にしてしまった。
これでは、問題にならない方が不思議ですよね。
誰がこのような無茶苦茶な事をしたのか?
それは次の系図を見るとはっきりと分かります。