破戒僧円載(PART 1)

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デンマンさん。。。 破戒僧のお話でござ~ますか?

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そうです。。。 いけませんか?
この平和な平成の世の中で“破戒僧”のお話など“猫に小判 豚に大判”でござ~ますわァ。。。
その諺、この場合にはふさわしくないのじゃありませんかァ~?
とにかく、ネット市民の皆様の関心を引かない話題ですわよう。
じゃあ、40年中国に滞在して日本に帰ろうと船に乗ったら、暴風雨にあって溺死してしまった可哀想なお坊さんの話だと言ったら卑弥子さんは興味を持ちますか?
あらっ。。。 そういうお坊さんがいたのでござ~ますか?
僕も知らなかったのだけれど、夕べ、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。
円載(えんさい) ?-877

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最澄以来の初期天台留学僧の歴史を綴る縦糸は上のごときだが、ここに横糸である円載についても触れておかねばならない。
円載は奈良県の出身、幼くして叡山に登り師と仰ぐは最澄だった。
円仁と共に留学僧として唐にわたる。
現存の『唐決』(未決疑問30条)は、入国を拒まれた円仁(実は帰国と見せて脱走、山東省に上陸、10年余の留学)が円載に託したものを天台山国清寺で長老広修(こうしゅ)とその高足維袷(いこう)から回答を得、従僧仁好に携帯帰国させたもの。
何故か?
実は円載は金に困っていたらしい。
兄弟子円仁から分与されたのはとうに蕩尽、円仁宛学資金(文字通り奥州産出の砂金だ)までも無断で借用、これは身を持ち崩した不良留学生の常の姿だ。
朝廷はしかし両人に砂金200両を贈っている。
そこに会昌の法難が降りかかる。
円仁にとっては塗炭の苦しみの仏教弾圧だったが、円載にとってはどうだったか?
いわれるままに円載は還俗して妻帯し児をもうけ、農地も購入し養蚕もして俗人生活に入った。
しかし、破仏俳仏もやがて収まる、846年武宗が死に、会昌が大中となるや社会は旧に復していく。
円載も再び僧衣を纏い天台山に住するようになったが、どうやら聖俗二重生活をしていたようで手元はいつも不如意、円載は再度朝廷に学資の無心をしている(今度の送金100両)。
そこに円珍が留学してくる。
不良ながら語学に長じ中国社会の表裏に通じた円載と頑迷固陋、狷介孤高な円珍、それでも水と油の二人は長安に同行して法全から金・胎・蘇の三部大法を受けている。
「天台(山)で相見えし日より長安に至るまで、総て無量のことあるも具さには記す能はず」(『行歴抄』)という割には円珍は、受法中に抜け出して食事の招待に与りその後円珍のノート筆写で間に合わす円載をしっかりと記録している。
862年真如(しんにょ)親王が入唐、864年に長安に到着する。
円載はまめまめしくお世話申し上げる。
親王はすでに66歳。
しかし親王は、長安そして中国の仏教に飽きたらず滞在半年にも満たずして、天竺を目指して唐を去っていった。
在唐40年、70の声を聞くと円載、望郷の念抑えがたく、帰国の途につく。
唐の商人李延孝の船で帰るつもりだ。
円載、思えば紆余曲折の留学40年だったが、不良非行の老比丘で終わりたくなかったのだろう。
唐朝廷は紫衣を送り、晩唐の高名な詩人皮日休の「円載上人帰日本国」の「重送」(『全唐詩』巻614)もある。

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雲濤万里最東頭
射馬台深玉署秋
無限属城為裸国
幾多分界是柩洲
取経海底開竜蔵
誦咒空中散蜃楼
不奈此時貧且病
乗桴直欲伴師遊
雲濤万里、東の東
ヤマトの秋は深かろう
中華の外はみな野蛮国
(徐福の裔たる)柩洲(おくに)は一体どこにある?
海の底、竜蔵開いて経を取り
空の中、蜃気楼散らし咒を誦す
貧と病では、仕方がない
ご一緒したいは、やまやまなれど
社交辞令の文飾を割り引いても、晩年の円載は円珍が罵るほどの悪僧ではなかったかもしれない。
877年、大暴風雨に巻き込まれて李ともども溺死。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
479-480ページ 『仏教の事典』
編集者: 末木文美士 下田正弘 堀内伸二
2014年6月25日 初版第2刷発行
発行所: 株式会社 朝倉書店

あらっ。。。 ずいぶん昔のお坊さんではござ~ませんかァ!

でも、可哀想だとは思いませんかァ~?
確かに、海に投げ出されて溺れそうになりながら、“どうしてこうなるのォ~?”と荒れ狂う暴風雨の中で天に向かって叫んだでしょうね!?
そうですよ。。。 僕がこの円載の立場だったら、死ぬに死に切れないですよ。
デンマンさんなら、何が何でも日本に泳いで帰るのですか?
そうです。。。 40年も中国で仏教を勉強して、やっと日本に帰れることになったというのに、暴風雨に巻き込まれて溺れ死ななければならない! “神も仏もいないのかア! どうして俺を助けてくれないのだア! 今まで神と仏を信じながら40年も異郷の地で頑張って来たというのに! この仕打ちはどういうわけなんだア!”。。。 と円載は嘆きながら死んだと思うのですよ。
デンマンさんにも経験があるのですか?
そうです。。。 僕ならば帰れそうですよ。
まさかァ~。。。!?
あのねぇ~、僕も溺れ死にそうになったことがあるのですよゥ。。。 でも、神様が助けてくれたのです。。。 その事は次の記事で書きました。

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■『デンマンの死@玉淀』

デンマンさんが助かったのは偶然だったのですわァ~。

だから、その偶然は、僕が日頃から行いが正しいので神様が僕を見捨てずに、“偶然”を引き起こしてくれたわけですよ。
それは、デンマンさんが そう思い込もうとしているだけでござ~ますわァ。
卑弥子さんが 何がなんでも偶然で片付けたい気持ちは解ります。。。 でも、ここで円載が生きていた西暦800年代の海外旅行のことを考えてみてください。
あなたも知らない日本の悲劇


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こんにちは。。。
デンマンです。
ところで写真の上で小さなアイコンが笑っているように見えますが、
これは、涙を流しているのですよ。
悲しんでいるのですよ。
念のため。。。
写真の中の大きな人物が藤原鎌足です。
この人の名前は歴史を知らないあなたでも聞いたことがあるかもしれません。
日本史では、誰もが無視できない藤原氏の祖先です。
その下の左に座っている小さな人物が鎌足の次男の藤原不比等です。
この人こそ藤原氏の基礎をしっかりと築いた人です。
しかしあまり知られていないのが、右側に座っているお坊さんの定慧(じょうえ)です。
この定慧(じょうえ)は鎌足の長男です。
藤原不比等の名前を知っていても定慧(じょうえ)の名前を知っている人は少ない。
あなたはまず、聞いたことが無いと思います。
実は、この人ほど古代日本で悲劇の人物は居ないと僕は思っています。
古代日本どころか、現在に至るまでの長い日本の歴史で、この人ぐらい悲劇の主人公にふさわしい人も居ないと思うのです。
でも、日本史では知られていません。
なぜ?
ところで、どのような悲劇なの?
それを、これから僕がお話しようと言うわけです。
どうか、最後まで読んでくださいね。
定慧は白雉4年(653)5月に出家し、遣唐使に従って入唐します。
なんと!わずか11歳の時の事でした。
彼と共に中臣渠毎連(こめのむらじ)の息子・安達(あんだち)、春日粟田臣百済(かすがのあわたのおみくだら)の息子・道観などが共に出家しているとはいえ、権臣、藤原(中臣)鎌足の長男が出家するということは、全く異例の事です。
この時、まだ鎌足の次男、不比等は生まれていません。
つまり、定慧は一人息子だったわけです。
どうして鎌足はこの一人息子を、
しかもまだ11歳の幼少の身を出家させて、
危険な船旅へ出したのでしょう。
ご存知のように、この当時の唐への船旅は死を覚悟しなければなりません。
遣唐使の歴史を見れば分かるとおり、千人以上の人が、嵐にあったり、難破したり、座礁したりして、命を落としています。

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ロンドンからパリ行き、あるいは、ロスアンジェルスからニューヨーク行きの飛行機に乗ってハイジャックされ、エッフェル塔やエンパイア・ステートビルディングに突っ込まれて、全員が命を落とすことは、ないとはいえません。
しかし、仕事のために、明日、ニューヨークへ行ってください、パリへ出張してください、あるいはLAへ飛んでくださいと言われた時に、ハイジャックされることを理由に僕が断ることは、まずありません。
しかし、もし、この当時僕が生きていたとして、一ヶ月後に、舟で唐に渡ってくださいと言われれば、真剣になって考え込んでしまうでしょう。
なぜなら、4艘で船団を組んで出発したとしても、先ずその内の一艘か二艘は途中で難破したり座礁したりして海の藻屑となって消えてしまうのが、当時の常識でした。
要するに、10円硬貨を上に放り投げて手のひらで受け取った時の裏が出る確率にほぼ近い。
表が出たら、めでたく命拾いをする。
裏の場合には、海底に沈む運命だと思って諦める。
実際、遣唐使が船出するシーンなどを映画で見ても分かるとおり、もう涙の別れです。
念の入った映画では、水杯(みずさかずき)を交わして、これがこの世で会う最後だといって、見送るのです。
僕は、すでに20年以上をカナダで暮らしています。
しかも旅行好きですから、500回近く航空会社の飛行機に乗っています。
しかも趣味でセスナを運転しますから、少なく見積もっても、1000回ほどは飛行機に乗っているはずです。
しかも、僕は馬鹿だから、女の子を3人乗せて宙返りをするという馬鹿げた事をしてしまったことがあります。

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絶対にしてはならないことです!
反省しています。
この記事を読んでいる女の子の中できっと、ああぁ~、あの人がデンマンさんなのかぁ~!
と呆れる人が出て来ると思います。
馬鹿は死ななきゃ治らない!
僕もそういう馬鹿だったんですよ。
でも、死ぬ前に馬鹿を止めました!
うへへへへ。。。
とにかく、このことを当時の船旅に置き換えてみれば、僕は500回命を落としていることになります。
仮に確率を10回に一度にしても、100回程、命を落としていたことになります。
今、僕が生きていることが不思議なほどですよ。
当時の船旅が、いかに危険と隣り合わせていたかということは、以上述べたことでお分かりいただけたと思います。
もう、これ以上、くどくど述べる必要はないでしょう。

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それほど危険な船旅に、
なぜ定慧を出したのか?
ここで鎌足と定慧の話に戻りますが、11歳の一人っ子を持つ親の身になってください。
もしあなただったら、このような小学生を、生きるか死ぬか分からない、唐への船旅に出しますか?
一ヶ月どころの話ではありません。10年、15年はざらです。
長いのになると、30年帰ってこれない。
もっとひどい例になると、阿倍仲麻呂のように、帰ってきたくとも、もう年をとりすぎて、船旅に耐えてゆけそうにないので、あきらめてしまった。
結局、唐で亡くなってしまったわけです。
これはもう、ひどい話です。
『藤原鎌足の長男』より
(2011年9月4日)
(すぐ下のページへ続く)