【善き羊飼いキリスト】バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
>>主を恐れよ。その聖徒たちよ。
彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
若い獅子も乏しくなって飢える。
しかし、主を尋ね求める者は、
良いものに何一つ欠けることはない。
(詩篇、第34編9~10節)
>>私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。
(詩篇121編)
究極、人生でもっとも一番困った時って――普段その存在を信じているかどうかは別として、必ず<神>とか、<神さま>という概念が意識のどこかに出てくるものですよね(^^;)
たとえば、病気で入院して手術をする時とか、あるいは経済的にものすごおおーく困窮している時とか、人間関係のことなどで、こんな日々が続くなら死んだほうがマシだと感じている時など……「わたしをこんな目にあわせて、神は一体どういうつもりなんだっ!!」、「いや、俺をこんな目にあわせるだなんて、そもそも神なぞ存在してはいないんだ」……などなど、<神>ということは必ず心のどこかにあるものだ、というか。
さて、今回のタイトルは「あなたは助けられ、救われる」なのですが、「神など信じても、助けられもしなければ救われもしない」と感じる方というのは、もしかしたら多いかもしれません。
わたしも自分がキリスト教を信じる前――仮に神という存在がこの地球上、あるいは宇宙のどこかにいるのだとしても、もし自分の「生きるか死ぬか」というくらい困っている問題を解決してくださらないなら、そんな神はいてもいなくてもどっちでも同じだ(=神などいないに違いない)……と思っていた時期がありました。
けれどもその後、キリスト教と出会い、何故かイエスさまのことを信じて救われることが出来ました(笑)
たぶん、ノンクリスチャンの方にとっては、何をもってして「自分は救われている」とそんなにもハッキリと信じられるのか……ということかもしれません。また、キリスト教では、イエスさまが十字架で流された血潮の力を信じるなら、イエスさまが神さまの御子であると告白するなら、その人の罪はすべて赦される……と言われます。
でも、教義としてだけこう聞かされると、なんとも不思議な気がしますよね(^^;)
一体何をもってして、あなたは「自分は神から赦されている」などと、傲慢なことを言えるのか……という話でもあるかもしれないのですから。
けれども、こうしたある種の確信――他に、「イエスさまのことを信じるなら、死後に天国へ行ける」ということも含めた確信――は、すべて聖霊さまによって受けるものだと思います
この<聖霊>というのは、英語で言うならHoly Spirit、三位一体の神である父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、そして第三位格の聖霊のことを言うのですが、この聖霊を教会で受けてのち、その後の人生が変わってきた……と答えるクリスチャンの方は多いと思います。
もちろん、突然聖霊がどうこうなんて言われても、ピンと来ないどころか、わたしが今突然友人に電話して、「教会でイエスさまを救い主として告白したら、聖霊を受けたのよ~♪」なんて喜々として言おうものなら、「宗教狂いの頭おかしい奴やww」としか思われないこと請け合いです(笑)
でも、この<聖霊>さまがどのような方かということがわかると……「自分の祈りなんか聞かれない。聞かれるわけがない」とか、「他の、自分よりももっと困ってる人から順に祈りが聞かれるのだとしたら、自分など58億1510番目くらいにでもならないと、神さまはわたしの祈りなんて聞くことはないだろう」とか、そうしたことに関して疑念がなくなります。
いえ、もちろん人によってはイエスさまを信じたあとも長い学びの時が続いて、なかなかそうした疑念が拭い去れない――という方も、場合によってはおられるかもしれません。
けれども、この聖霊を受けて、マーリン・キャロザースさんの「感謝と賛美の実践」ということを続けていくと……人生というのは本当に変わってくるなあと、自分としては深い実感とともに、本当にそう思います♪
そして、ここまでが仮に「救い」に関することだとしますと、「(神さまからの)助け」というのも、聖霊さまによってもたらされるということなんですよね。
>>御霊(聖霊)も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章26~28節)
この御霊(聖霊)さまのとりなしによって、イエスさまはわたしたちの苦しみや悩みや悲しみをご覧になり……そして折に触れてこの聖霊さまを通してわたしたちに祈りの中で啓示を与えてくださったり、あるいは意外な方法、自分では考えてもみなかった事柄を通して――そんなに大きなことでなく、日常の小さなことでも、これは神さまから来た答えだといったように教えてくださるのです。
これはあくまで、わたしの個人的な考えですが、「神さまに祈ってなんになる?」と、功利的に考える人というのは、おそらくこの世的なそうしたプラスマイナスの法則――ああすればわたしはこれだけ得をし、こうすればあれだけ損をする――に基本的には支配され、結局のところとても損をします(^^;)
でも、祈っている人というのは、そうしたこの世的法則に支配されず自由であり、最終的にはもっとも得をする……のではないかなと、わたし自身はそのように信じています
まあ、ようするに、「(聖霊さまによって)祈らないと損なだけだよ~☆」という、今回は何かそんなお話でした(笑)
それではまた~!!
>>主を恐れよ。その聖徒たちよ。
彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
若い獅子も乏しくなって飢える。
しかし、主を尋ね求める者は、
良いものに何一つ欠けることはない。
(詩篇、第34編9~10節)
>>私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。
(詩篇121編)
究極、人生でもっとも一番困った時って――普段その存在を信じているかどうかは別として、必ず<神>とか、<神さま>という概念が意識のどこかに出てくるものですよね(^^;)
たとえば、病気で入院して手術をする時とか、あるいは経済的にものすごおおーく困窮している時とか、人間関係のことなどで、こんな日々が続くなら死んだほうがマシだと感じている時など……「わたしをこんな目にあわせて、神は一体どういうつもりなんだっ!!」、「いや、俺をこんな目にあわせるだなんて、そもそも神なぞ存在してはいないんだ」……などなど、<神>ということは必ず心のどこかにあるものだ、というか。
さて、今回のタイトルは「あなたは助けられ、救われる」なのですが、「神など信じても、助けられもしなければ救われもしない」と感じる方というのは、もしかしたら多いかもしれません。
わたしも自分がキリスト教を信じる前――仮に神という存在がこの地球上、あるいは宇宙のどこかにいるのだとしても、もし自分の「生きるか死ぬか」というくらい困っている問題を解決してくださらないなら、そんな神はいてもいなくてもどっちでも同じだ(=神などいないに違いない)……と思っていた時期がありました。
けれどもその後、キリスト教と出会い、何故かイエスさまのことを信じて救われることが出来ました(笑)
たぶん、ノンクリスチャンの方にとっては、何をもってして「自分は救われている」とそんなにもハッキリと信じられるのか……ということかもしれません。また、キリスト教では、イエスさまが十字架で流された血潮の力を信じるなら、イエスさまが神さまの御子であると告白するなら、その人の罪はすべて赦される……と言われます。
でも、教義としてだけこう聞かされると、なんとも不思議な気がしますよね(^^;)
一体何をもってして、あなたは「自分は神から赦されている」などと、傲慢なことを言えるのか……という話でもあるかもしれないのですから。
けれども、こうしたある種の確信――他に、「イエスさまのことを信じるなら、死後に天国へ行ける」ということも含めた確信――は、すべて聖霊さまによって受けるものだと思います
この<聖霊>というのは、英語で言うならHoly Spirit、三位一体の神である父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、そして第三位格の聖霊のことを言うのですが、この聖霊を教会で受けてのち、その後の人生が変わってきた……と答えるクリスチャンの方は多いと思います。
もちろん、突然聖霊がどうこうなんて言われても、ピンと来ないどころか、わたしが今突然友人に電話して、「教会でイエスさまを救い主として告白したら、聖霊を受けたのよ~♪」なんて喜々として言おうものなら、「宗教狂いの頭おかしい奴やww」としか思われないこと請け合いです(笑)
でも、この<聖霊>さまがどのような方かということがわかると……「自分の祈りなんか聞かれない。聞かれるわけがない」とか、「他の、自分よりももっと困ってる人から順に祈りが聞かれるのだとしたら、自分など58億1510番目くらいにでもならないと、神さまはわたしの祈りなんて聞くことはないだろう」とか、そうしたことに関して疑念がなくなります。
いえ、もちろん人によってはイエスさまを信じたあとも長い学びの時が続いて、なかなかそうした疑念が拭い去れない――という方も、場合によってはおられるかもしれません。
けれども、この聖霊を受けて、マーリン・キャロザースさんの「感謝と賛美の実践」ということを続けていくと……人生というのは本当に変わってくるなあと、自分としては深い実感とともに、本当にそう思います♪
そして、ここまでが仮に「救い」に関することだとしますと、「(神さまからの)助け」というのも、聖霊さまによってもたらされるということなんですよね。
>>御霊(聖霊)も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章26~28節)
この御霊(聖霊)さまのとりなしによって、イエスさまはわたしたちの苦しみや悩みや悲しみをご覧になり……そして折に触れてこの聖霊さまを通してわたしたちに祈りの中で啓示を与えてくださったり、あるいは意外な方法、自分では考えてもみなかった事柄を通して――そんなに大きなことでなく、日常の小さなことでも、これは神さまから来た答えだといったように教えてくださるのです。
これはあくまで、わたしの個人的な考えですが、「神さまに祈ってなんになる?」と、功利的に考える人というのは、おそらくこの世的なそうしたプラスマイナスの法則――ああすればわたしはこれだけ得をし、こうすればあれだけ損をする――に基本的には支配され、結局のところとても損をします(^^;)
でも、祈っている人というのは、そうしたこの世的法則に支配されず自由であり、最終的にはもっとも得をする……のではないかなと、わたし自身はそのように信じています
まあ、ようするに、「(聖霊さまによって)祈らないと損なだけだよ~☆」という、今回は何かそんなお話でした(笑)
それではまた~!!
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