神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

聖霊の働き。

2015年03月30日 | キリスト教
【聖霊降誕】エル・グレコ


 十二弟子についてのお話が長くなってしまいましたが(汗)、再びマルコの福音書の続きに戻りたいと思います♪(^^)


 >>「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。

 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」

(マルコの福音書、第3章28~29節)


 このイエスさまの御言葉って、本当の意味がわかるのは、聖霊のバプテスマを受けているクリスチャンだけなんじゃないかな、という気がします(^^;)

 わたしもクリスチャンになる前はそうでしたが、「セーレイってなあに?」みたいな、そんな感じだったような気が。。。

 一応、聞いたことだけはあるんですよね。<聖霊>って。でも「聖霊と精霊ってどう違うのら?」みたいな(笑)

 高校生の時にも、世界史の授業であった気がします。わたしの場合、その頃まだクリスチャンではなかったのですが、学校の科目の中では世界史が一番目か二番目くらいに好きだったもので、二ケア会議がどうとか、三位一体がどうとか、本当の意味では意味わかってないのに、テストの空欄を埋めて点数だけはもらったという記憶があります(^^;)

 でも、クリスチャンになってからよーやくわかったんですよね。「あー、聖霊のバプテスマってこういうことじゃん!」っていうことが

 いえ、初めて教会へ行った時にも牧師さんが「聖霊のバプテスマを求めて祈るといいよ」とかって言ってたのですが、その時はたぶんまだ「聖霊さまってなんじゃろう?」みたいな感じだったと思います。

 それでも不思議と不審感だけはなかったんですよね。そしてそうしたことも含めて教会全体が実は聖霊さまの御力に満ち溢れていることが大切なのだ……ということがわかったのも、もう少しあとのことでした。

 ただ、聖霊のバプテスマが与えられた時に、わたしの場合は異言の賜物を与えられるということはありませんでしたし、「聖霊のバプテスマを求めて祈るといい」と牧師さんが言っていたのでその通りずっと祈っていたところ――なんか気づいたら与えられていたという、そんな感じだったと思います(^^;)

 つまり、聖霊のバプテスマが与えられた時に「おお、今こそ与えられたーッ!!」という感じだったわけではなく、とにかくひたすらそう祈っていたところ、ある日気づいたら「あー、そっか。これが聖霊さまってことだ」ってわかった感じといいますか。

 この<感覚>というのはまずもってクリスチャン以外の方にはわからないものなので、上記のイエスさまの言葉がわかるのは真実のキリスト教徒だけ……ということになると思います。つまり、聖霊を汚す罪というのは――「イエスさまのクソバカアホッタレ。おまえなんか神の子じゃないぞ、こんちくしょう☆」とか言ったとしても、ぶっちゃけ(?)神さま、イエスさまのことを真実知らない方が言った場合には許される、ということだと思うんですよね(わたしの場合、仮定としてこう書くだけでも胸が痛みますが^^;)

 ただ、一度は聖霊を受けていながらその上で聖霊さまを悲しませる、裏切るような罪は決して許されない……この感覚も聖霊さまを与えられた信者だけがわかることで、なかなか一般的解釈としてわかるように伝えるのは難しかったり。。。

 なんていうか、聖霊さまというのは、三位一体の神の第三位格として信者に与えられるものなので、イエスさまに色々とりなしてくださるのも聖霊さまですし、「本当にあなたは、日々わたしに良くしてくださる神」というのが、聖霊さまの正体とでも言うのが一番適切でしょうか(^^;)

 たとえば、わたしが神さまに背く道っていうわけではないんだけれど、人間的に考えて「こうすればお金も地位も手に入って一石二鳥☆」なんていうことを考えてた場合、聖霊さまにその道を選ぶのを止められるということがあります。でも自分的に「えー、なんでー?べつにいーじゃん。わたしはこの世的にも成功して、神さまのことも信じてて、死んだあとは天国へ行くんだもん。グフフ」なんていう信仰心だと、時々痛い目を見ることになると言いますか。

 もちろん、この考え方でいくと、「じゃあクリスチャンってお金や地位を手に入れちゃいけないの?」とか、そういう話にもなると思うんですけど、キリスト教徒の中には凄いお金持ちで高い社会的地位を持ってる方もたくさんいらっしゃいますよね。でもなんというか、あくまでわたし個人の場合はこういう考え方を持つと大体、あとから「それは間違ってる☆」といった感じの刈り取りをすることが多かったように思います(^^;)

 う゛~ん。だからこの聖霊さまを通して日々祈るっていうのは凄く大切なことなんですよね。神さまが選んで欲しいと思っている道と、人間的には一見正しいように見えて神さまにとってはあまり価値のない道……そういうのがふたつ並んでいた場合、祈ってよく聞かないと、やっぱり人っていうのは誰しも自分にとって好ましいほうの道を選んでしまうものだと思うので。

 それと、わたしは小さい頃から神さまに祈るということが大好きで、夜眠る前によく祈っていたのですが、クリスチャンになった今では聖霊さまによって祈るということがどれほど大切なことかがわかります。何故かというと、自分なりの形式によって祈っていると、どうしても限界があるんですよね。たとえば、ある願いが叶えられなかっただけでもう、「神さまなんてほんとはいないんだ、ぐっすん」みたいになってあとはもう「祈るのなんかやーめた☆」みたいになったりしてしまうというか。

 でも聖霊さまを通して祈ってさえいれば、あとになってから「あれは叶えられなくて当然だったな」とか、そういうこともわかってきますし、とにかく聖霊さまが日々良くしてくださるので、その良くしてくださることに対して、わたしは祈る以外に神さまに一体何が出来るのか……といった気持ちで、聖霊さま自身が弱い信者であるところのわたしを助けてくださって、日々祈る力もまた聖霊さまにいただいて祈ることが出来るというか。

 まー、でも、こんなエラそーなとこと書いてますが(笑)、わたしだって当然自分の思ったとおりにならなくて「神さまなんかもう知らない。激おこプンプン丸」みたいになったことが何度かありますし、でもそうした状態って三日も続かないというか。何故といって自分の内側に動機として何か悪いものがあったであるとか、そういうことって薄々わかってるものですし、聖霊さまに力を与えられて日々祈るということが習慣化していると、そこから離れることが出来なくて結局戻ってきてしまいますし。

 でも、信者の方でもやっぱり時にあるのかもしれません。そこからそのまま離れて戻ってこない、聖霊さまの促しを感じても神に祈ることもなく、「イエスさまがなんだっちゅうねん」みたいになってしまうことが。。。

 その場合でも、何年か後、たとえば十年後にでも戻って来れる場合もあると思うし、でもその間その方に与えられている聖霊さまはとても悲しんでいる……あんなにも良くしてくださる聖い方を裏切るなんて、それは確かに許されない罪なのかなって思うんですよね。

 でもこの場合、イエスさまは聖霊をけがす者とおっしゃっていますから、これはかなり強い表現だと思います。つまり、弱~中程度(?)の裏切りであれば、最後に神さまに許していただけるというか、許していただける余地がまだあるにしても、聖霊さまを汚すというところまで落ちてしまうと、もう「Go To Hell!!」確定っていうことなのかもしれません(←?)

 なんにしても、聖霊さまや三位一体については一般的に説明するのがすごく難しいな~といつも感じます。というか、それをほんとの意味でわかっちゃったらその人はもうクリスチャンってことじゃんっていう

 ではでは、次回はマタイの福音書の第四章からはじめたいと思います♪(^^)

 それではまた~!!




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