>>脳の中心部の間脳のあたりに、電気刺激を与えると快感を感じる部位があって、「報酬系」と呼ばれている。これとは反対に、刺激されると不快感を感じる部位があり、これは「嫌悪系」と呼ばれている。ラットだけでなく、ヒトを含むほとんどあらゆる哺乳動物、それに鳥類、魚類などでも報酬系、嫌悪系があることが報告されている。
報酬系の与える快感は強烈で、そこに電極を刺し込んで、自分でレバーを押せばそこを刺激できるようにすると、動物は一時間に何千回もレバーを押し続け、くたくたになって倒れるまでやめない。レバーを押すためには、電気ショックが与えられる通路を通らねばならないような状況を作っても平気で行くし、絶食あるいは絶水状態で、エサや水がそばに置いてあっても、それに見向きもせずレバーを押しに行く。それくらい、報酬系の脳内自己刺激は強い動因を与えるのである。
(『脳を究める~脳研究最前線~』立花隆先生著/朝日新聞社)
ええと、立花隆先生著のこの本、とても素晴らしい本なんですけど、出版された年が1996年ということで、今はもう大分情報として古いのかなとは思います(^^;)
何分わたし、専門家ではないので、もしかしたら間違ったこと書くかもしれないんですけど……ようするにこの脳の「報酬系」と呼ばれる場所って、「あーしてこーしてそうすれば自分の好むものが手に入る」といったような、自分になんらかの報酬(快楽)が与えられることに関する回路なのだと思います(ちゃんと調べてない説明でなんかすみません)
つまり、ネズミとかにも同じものがあって、迷路を抜けるとチーズがある……といったように、「あーしてこーしてそーすれば、自分の欲しいものが手に入る」ということに関する回路らしいんですよね。
そんで、これもわたしが素人として勝手に思うにっていうことなんですけど(汗)、何かのギャンブルとかアルコール依存症とか、「それでしか快楽が得られない」みたいに脳がこの部分で繰り返し覚えるといったような、そういうシステムが脳にあるっていうことですよね。
以前、テレビでギャンブル依存症のことが取り上げられていて――ようするに、家族から借金をしてというか、自分の家からお金を盗んでまでもギャンブルにお金をつぎこんだりとか、それ以前にまず自分でサラ金からお金を借りたりして多額の借金を作る、それを家族が支払うか自己破産する、でもギャンブルがしたい、家からお金を盗む、そして家族のほうでもやがてスッカラカンとなり、持ち家すらも売る……このくらいになると、その問題を起こした息子や兄弟などに対し「死んでくれ」とすら思っても不思議はないかもしれません。
また、これは別のテレビ番組なのですが、アルコール依存症の女性のことが取り上げられていました。朝起きるとお酒、そのあたりでぐうたらしながらお酒、一日中、寝てる時以外はとにかくお酒、お酒、お酒……この女性には息子さんや娘さんがいて、もちろん旦那さんもいます。細かいところ忘れてしまいましたが(汗)、確か三人兄弟の真ん中で、親御さんの気を引くために、いつでも優等生でいなくてはいけない……といったように感じた十代だったそうです。
その後、自動車整備工場で働く旦那さんと結婚し、三人の子どもさんにも恵まれ……アルコール中毒になる前までは、それこそ完璧に家事仕事をこなす理想のお母さんだったそうです。でも、彼女は旦那さんに対しても実は退屈さや不満を感じており、自分の人生に満たされないものを感じていました。そんな中で唯一……お酒を飲むことが彼女にある種の<満たし>を与えるようになっていった――ということなのだと思います。
「そうした種類の<満たされない思い>なんて、誰もが持っているものさ」……とはわたしも思うのですが、わたし、ギャンブルってほとんどやったことありませんし、アルコールも嗜むといった感じではありません。まあ、こう書くと「おまえの人生つまんないねー☆」みたいに思われそうですけど(笑)、にも関わらずわたし、ギャンブル依存症とかアルコール依存症の方などが「何故そうなるか」って、すごくよくわかるんですよ(^^;)
というのも、わたしにも「これだけがわたしに楽しみや面白さや興奮を与える」といったものがあり、まあそれは基本的に誰に責められるでもない趣味のようなものです。でも、ケータイを取り上げられた息子さんや娘さんが親に暴力を振るってまでも取り返す……といったことがあるように、「それを取り上げられたら超腹立つ!!」みたいなことが、誰しもひとつくらいはあるんじゃないかなって思うんですよね。
最初の、ギャンブル依存症の息子さんの場合は治療施設に入り、その次のアルコール依存症の女性の場合も、やはりそうした専門の治療施設で長く治療を受けることになったそうです。
これもまた、素人のわたしが勝手に思うに、ということなんですけど……たぶん、脳の報酬系の部分がギャンブルやアルコールでしか快楽を得られない――といったようにもし繰り返し記憶しているということなら、それとはまたもうひとつ別の回路が必要になってくるのではないでしょうか。
でも、そういうものを見つけるのってとても大変なことですし、そのように導いてくれるような周囲の支えや助けといったものが不可欠だと思います。以前、これもテレビでアルコール依存症から脱出された方が「今は飲んでないけれども、飲みたいと思わない日は一日もない」と言っておられたことがあり、また元麻薬中毒患者の方も「今は麻薬をやってなくても、またやりたいという気持ちは心の中に絶対的にある」とおっしゃっていたことがありました。
また、そうした気持ちを本人も、まわりの人も否定してはいけないそうです。本人も、「そうだよ。出来れば俺は今も酒飲みたいと思ってるよ」とか「麻薬やりたいと思ってるよ。でもそれはしちゃいけないとわかってるよ」みたいに、その時思ってることをそのまま話して、周囲の人もそれを認めてくれること……が大切なんだそうです。
もちろん、一口に「立ち直る」って言っても、並大抵のことではないと思います。でも、こう書くとノンクリスチャンの方には不評を買うでしょうけれども、「イエスさまを信じたことでアルコール中毒から脱出した」とか、「絶対にやめられないと思っていた煙草をやめられた」といった証しをされる方はとても多いんですよね(^^;)
なんというか、自分が今ハマっているものから、対象を神さま、イエスさまに移す、脳の回路を切り換える、心のすべてをそちらへ向けることで……魂が満たされるのがどういうことか、ということを知ることが出来るというのは、至福の体験であるように思います。
>>この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ人への手紙、第12章2節)
もしこれを仮に分子と分母でたとえるとすると、人間って分子のほうは何か努力次第で変えることが出来るけれども、分母の自分の本質のようなものはなかなか変えることが出来ない……それと同じようにギャンブル依存やアルコール依存、麻薬中毒などから脱出することはとても難しいと思います。
でも、「神さま、わたしがどんなに努力しても、分子のほうの数字がちょっと変わる程度で、分母の本質のほうは変わっていかんのです。助けてください」と、わたしたちが自分の今の現状を祈りの中でそのまま差しだすなら、神さまは必ず聖霊さまを通して助けを送ってくださいます。
クリスチャンの方の証しの場合の「わたしは△○から解放された」というのは、特に文章にその説明がなくても、それは聖霊さまを通して解放された、癒されたということではまったく共通だと思うんですよね。
そして、自分も今のところ何かの依存症ではないし、自分の家族にも周囲にも、何か病的な依存症といったタイプの人はいないと思う……という方でも、今の時代はまったく安心ができません(^^;)
たとえば、買い物依存症というのは、今ほどインターネットが普及する前までは、「クレジットや現金で支払う時の快感」を得るために、自分の支払い能力を越えてまでたくさん物を買ってしまうことだったと思うんですけど(また、この中には高額のものを買う前に店員がちやほやしてくれたり、実際にはそうでないのにセレブ感を楽しむことが出来るといったことも含みます)……今はネットでお買い物するっていうのがあまりにも当たり前になってしまいました。
それで、ネット広告ってありますよね。たとえば、ファッションに興味のある方なら、ファッション系のサイトさんをよく見たりされると思うので、そのうちその手の広告がよく表示されると思います。わたしも、服ではなくまったく別のものですけど(笑)、そうした表示によって物を買ったりしたことはありますし、セール品などで、「安い!」と思って、実際は大してそんなに使わないものを買ったりしたこともありました(^^;)
そしてそれ以降そうしたネットでの不要な買い物については注意するようになったんですけど……中高年になってからネットをはじめた方でも、こうしたことにハマりこんでしまう場合ってありますし、「ネット広告でまた物買っちゃった~」っていう方は多いみたいなんですよね。
というのも、「あ!これ欲しい」と思った瞬間にそのサイトを開き、ほんの数クリックで決済までって簡単に済んでしまいますよね。もちろん、ここから実際に商品が運ばれてきて自分の元に届くまでには少し時間がかかるわけですけど……これもわたしが素人として勝手に思うに、脳の報酬系の部分が、このたったの数クリックに快楽を覚えているというのは間違いない気がします。
だから、あるお店で店員さんと少し話して現金なりカードなりで物を買うよりも……この数クリックの快楽を脳が得るために、あれもこれもと買ってしまってあとから後悔する――これはゲームの課金などもそうだと思うんですけど、「俺(私)は今脳がそうなってる」みたいに自覚して、その回路を別の健全なものに繋いで切り換えていくっていうことは、かなり意識的に行う必要のあることではないかという気がします。
わたしも、ある漫画とかアニメとか、嵌まってた時にはあれもこれもとグッズを買ってしまい……その熱が冷めた時に大金をつぎこんだそのすべてがゴミへと変化――といった経験をしたことがありますが、いい年した大人でもこのていたらく(?)なんですから(笑)、十代の子なんてもっと危険だと思うんですよね。
というか、一種の通過儀礼(?)として、一度はびっくりするようなお金を親に支払ってもらい、こっぴどく叱られる……という経験をせずに大人になるっていうのは、今の時代、それが当たり前というか、普通のことになってきているのではないでしょうか(^^;)
なんにしても、ここはキリスト教について何か書くといった主旨のブログなので、そうした自分が「やめられない」と感じる一切からもイエスさまは解放してくださる……ということをこの記事の中では書きたかったのです
わたしも、以前は価値があると自分で感じていたことが、時間の経過したのちにようやくそれが無価値であったと気づいたことは何度もありましたし、もちろん今は今で「わたしはこれしてる時が一番楽しい」といった嵌まっているものがあるとはいえ――一方では、イエスさまの無限にして永遠の価値に比べたら、そんなものはちりあくたに過ぎないともよく自覚しています。
>>しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
(ピリピ人への手紙、第3章7~8節)
この方(イエス・キリスト)に一度目を留め、聖霊さまの恵みによって心を捉えられると、この世界でこの方だけが永遠に変わらず価値のある方であることがわかってきます。わたしも時々というか、よくよそ見してますけど(^^;)、神さまは心の広い方ですからね!そんなわたしたちの弱さをも十分理解し愛してくださるのです
それではまた~!!
報酬系の与える快感は強烈で、そこに電極を刺し込んで、自分でレバーを押せばそこを刺激できるようにすると、動物は一時間に何千回もレバーを押し続け、くたくたになって倒れるまでやめない。レバーを押すためには、電気ショックが与えられる通路を通らねばならないような状況を作っても平気で行くし、絶食あるいは絶水状態で、エサや水がそばに置いてあっても、それに見向きもせずレバーを押しに行く。それくらい、報酬系の脳内自己刺激は強い動因を与えるのである。
(『脳を究める~脳研究最前線~』立花隆先生著/朝日新聞社)
ええと、立花隆先生著のこの本、とても素晴らしい本なんですけど、出版された年が1996年ということで、今はもう大分情報として古いのかなとは思います(^^;)
何分わたし、専門家ではないので、もしかしたら間違ったこと書くかもしれないんですけど……ようするにこの脳の「報酬系」と呼ばれる場所って、「あーしてこーしてそうすれば自分の好むものが手に入る」といったような、自分になんらかの報酬(快楽)が与えられることに関する回路なのだと思います(ちゃんと調べてない説明でなんかすみません)
つまり、ネズミとかにも同じものがあって、迷路を抜けるとチーズがある……といったように、「あーしてこーしてそーすれば、自分の欲しいものが手に入る」ということに関する回路らしいんですよね。
そんで、これもわたしが素人として勝手に思うにっていうことなんですけど(汗)、何かのギャンブルとかアルコール依存症とか、「それでしか快楽が得られない」みたいに脳がこの部分で繰り返し覚えるといったような、そういうシステムが脳にあるっていうことですよね。
以前、テレビでギャンブル依存症のことが取り上げられていて――ようするに、家族から借金をしてというか、自分の家からお金を盗んでまでもギャンブルにお金をつぎこんだりとか、それ以前にまず自分でサラ金からお金を借りたりして多額の借金を作る、それを家族が支払うか自己破産する、でもギャンブルがしたい、家からお金を盗む、そして家族のほうでもやがてスッカラカンとなり、持ち家すらも売る……このくらいになると、その問題を起こした息子や兄弟などに対し「死んでくれ」とすら思っても不思議はないかもしれません。
また、これは別のテレビ番組なのですが、アルコール依存症の女性のことが取り上げられていました。朝起きるとお酒、そのあたりでぐうたらしながらお酒、一日中、寝てる時以外はとにかくお酒、お酒、お酒……この女性には息子さんや娘さんがいて、もちろん旦那さんもいます。細かいところ忘れてしまいましたが(汗)、確か三人兄弟の真ん中で、親御さんの気を引くために、いつでも優等生でいなくてはいけない……といったように感じた十代だったそうです。
その後、自動車整備工場で働く旦那さんと結婚し、三人の子どもさんにも恵まれ……アルコール中毒になる前までは、それこそ完璧に家事仕事をこなす理想のお母さんだったそうです。でも、彼女は旦那さんに対しても実は退屈さや不満を感じており、自分の人生に満たされないものを感じていました。そんな中で唯一……お酒を飲むことが彼女にある種の<満たし>を与えるようになっていった――ということなのだと思います。
「そうした種類の<満たされない思い>なんて、誰もが持っているものさ」……とはわたしも思うのですが、わたし、ギャンブルってほとんどやったことありませんし、アルコールも嗜むといった感じではありません。まあ、こう書くと「おまえの人生つまんないねー☆」みたいに思われそうですけど(笑)、にも関わらずわたし、ギャンブル依存症とかアルコール依存症の方などが「何故そうなるか」って、すごくよくわかるんですよ(^^;)
というのも、わたしにも「これだけがわたしに楽しみや面白さや興奮を与える」といったものがあり、まあそれは基本的に誰に責められるでもない趣味のようなものです。でも、ケータイを取り上げられた息子さんや娘さんが親に暴力を振るってまでも取り返す……といったことがあるように、「それを取り上げられたら超腹立つ!!」みたいなことが、誰しもひとつくらいはあるんじゃないかなって思うんですよね。
最初の、ギャンブル依存症の息子さんの場合は治療施設に入り、その次のアルコール依存症の女性の場合も、やはりそうした専門の治療施設で長く治療を受けることになったそうです。
これもまた、素人のわたしが勝手に思うに、ということなんですけど……たぶん、脳の報酬系の部分がギャンブルやアルコールでしか快楽を得られない――といったようにもし繰り返し記憶しているということなら、それとはまたもうひとつ別の回路が必要になってくるのではないでしょうか。
でも、そういうものを見つけるのってとても大変なことですし、そのように導いてくれるような周囲の支えや助けといったものが不可欠だと思います。以前、これもテレビでアルコール依存症から脱出された方が「今は飲んでないけれども、飲みたいと思わない日は一日もない」と言っておられたことがあり、また元麻薬中毒患者の方も「今は麻薬をやってなくても、またやりたいという気持ちは心の中に絶対的にある」とおっしゃっていたことがありました。
また、そうした気持ちを本人も、まわりの人も否定してはいけないそうです。本人も、「そうだよ。出来れば俺は今も酒飲みたいと思ってるよ」とか「麻薬やりたいと思ってるよ。でもそれはしちゃいけないとわかってるよ」みたいに、その時思ってることをそのまま話して、周囲の人もそれを認めてくれること……が大切なんだそうです。
もちろん、一口に「立ち直る」って言っても、並大抵のことではないと思います。でも、こう書くとノンクリスチャンの方には不評を買うでしょうけれども、「イエスさまを信じたことでアルコール中毒から脱出した」とか、「絶対にやめられないと思っていた煙草をやめられた」といった証しをされる方はとても多いんですよね(^^;)
なんというか、自分が今ハマっているものから、対象を神さま、イエスさまに移す、脳の回路を切り換える、心のすべてをそちらへ向けることで……魂が満たされるのがどういうことか、ということを知ることが出来るというのは、至福の体験であるように思います。
>>この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ人への手紙、第12章2節)
もしこれを仮に分子と分母でたとえるとすると、人間って分子のほうは何か努力次第で変えることが出来るけれども、分母の自分の本質のようなものはなかなか変えることが出来ない……それと同じようにギャンブル依存やアルコール依存、麻薬中毒などから脱出することはとても難しいと思います。
でも、「神さま、わたしがどんなに努力しても、分子のほうの数字がちょっと変わる程度で、分母の本質のほうは変わっていかんのです。助けてください」と、わたしたちが自分の今の現状を祈りの中でそのまま差しだすなら、神さまは必ず聖霊さまを通して助けを送ってくださいます。
クリスチャンの方の証しの場合の「わたしは△○から解放された」というのは、特に文章にその説明がなくても、それは聖霊さまを通して解放された、癒されたということではまったく共通だと思うんですよね。
そして、自分も今のところ何かの依存症ではないし、自分の家族にも周囲にも、何か病的な依存症といったタイプの人はいないと思う……という方でも、今の時代はまったく安心ができません(^^;)
たとえば、買い物依存症というのは、今ほどインターネットが普及する前までは、「クレジットや現金で支払う時の快感」を得るために、自分の支払い能力を越えてまでたくさん物を買ってしまうことだったと思うんですけど(また、この中には高額のものを買う前に店員がちやほやしてくれたり、実際にはそうでないのにセレブ感を楽しむことが出来るといったことも含みます)……今はネットでお買い物するっていうのがあまりにも当たり前になってしまいました。
それで、ネット広告ってありますよね。たとえば、ファッションに興味のある方なら、ファッション系のサイトさんをよく見たりされると思うので、そのうちその手の広告がよく表示されると思います。わたしも、服ではなくまったく別のものですけど(笑)、そうした表示によって物を買ったりしたことはありますし、セール品などで、「安い!」と思って、実際は大してそんなに使わないものを買ったりしたこともありました(^^;)
そしてそれ以降そうしたネットでの不要な買い物については注意するようになったんですけど……中高年になってからネットをはじめた方でも、こうしたことにハマりこんでしまう場合ってありますし、「ネット広告でまた物買っちゃった~」っていう方は多いみたいなんですよね。
というのも、「あ!これ欲しい」と思った瞬間にそのサイトを開き、ほんの数クリックで決済までって簡単に済んでしまいますよね。もちろん、ここから実際に商品が運ばれてきて自分の元に届くまでには少し時間がかかるわけですけど……これもわたしが素人として勝手に思うに、脳の報酬系の部分が、このたったの数クリックに快楽を覚えているというのは間違いない気がします。
だから、あるお店で店員さんと少し話して現金なりカードなりで物を買うよりも……この数クリックの快楽を脳が得るために、あれもこれもと買ってしまってあとから後悔する――これはゲームの課金などもそうだと思うんですけど、「俺(私)は今脳がそうなってる」みたいに自覚して、その回路を別の健全なものに繋いで切り換えていくっていうことは、かなり意識的に行う必要のあることではないかという気がします。
わたしも、ある漫画とかアニメとか、嵌まってた時にはあれもこれもとグッズを買ってしまい……その熱が冷めた時に大金をつぎこんだそのすべてがゴミへと変化――といった経験をしたことがありますが、いい年した大人でもこのていたらく(?)なんですから(笑)、十代の子なんてもっと危険だと思うんですよね。
というか、一種の通過儀礼(?)として、一度はびっくりするようなお金を親に支払ってもらい、こっぴどく叱られる……という経験をせずに大人になるっていうのは、今の時代、それが当たり前というか、普通のことになってきているのではないでしょうか(^^;)
なんにしても、ここはキリスト教について何か書くといった主旨のブログなので、そうした自分が「やめられない」と感じる一切からもイエスさまは解放してくださる……ということをこの記事の中では書きたかったのです
わたしも、以前は価値があると自分で感じていたことが、時間の経過したのちにようやくそれが無価値であったと気づいたことは何度もありましたし、もちろん今は今で「わたしはこれしてる時が一番楽しい」といった嵌まっているものがあるとはいえ――一方では、イエスさまの無限にして永遠の価値に比べたら、そんなものはちりあくたに過ぎないともよく自覚しています。
>>しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
(ピリピ人への手紙、第3章7~8節)
この方(イエス・キリスト)に一度目を留め、聖霊さまの恵みによって心を捉えられると、この世界でこの方だけが永遠に変わらず価値のある方であることがわかってきます。わたしも時々というか、よくよそ見してますけど(^^;)、神さまは心の広い方ですからね!そんなわたしたちの弱さをも十分理解し愛してくださるのです
それではまた~!!
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