【キリストの磔刑】アルブレヒト・アルトドルファー
>>この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。
また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。
(ヨハネの福音書、第19章28~37節)
このイエスさまのわき腹の傷は、わたしやあなたや、その他全人類のためにつけられたものだ……なんて聞かされても、ノンクリスチャンの方にとっては「なんやそら☆」といった感じだとは思います(^^;)
でも、一度教会で主イエス・キリストを受け容れる祈りをし、聖霊のバプテスマを受けると――その時にすぐでなくても、この主のわき腹の傷がわたしが自分でつけたものだということがわかってきます。
直接そのようなことをしたのはローマ兵でも、その他イエスさまのことを>>「もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」(マタイの福音書、第27章43節)と嘲弄し、彼にいばらの冠をのせ、それだけでなく下着さえもくじ引きをして奪ったのも――他でもないこのわたしがしたことだということがわかってくる、というか。
もちろん、普通に考えた場合「え?イエス・キリストが十字架にかかったのって今から二千年以上前でしょ?べつにうちら関係ないじゃん」といったところだと思うのですが、イエス・キリストのことを十字架につけたのは、他でもないこのわたし自身なのです。
イエスさまのわき腹の刺し傷は、主が十字架上で息を引き取られてのちつけられたものですが、この血と水というのは、わたしの持っている聖書の注解によりますと、>>血と水――罪を贖う血と、永遠のいのちを与える水を意味する。とあります。
これはイザヤ書の>>「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ書、第53章5節)の成就でもあり、イエスさまは十字架上でこれ以上もないほどの恥辱にまみれ(本当は神の子であられる方なのに!)、わたしたちのために極みまで苦しまれ、一度息を引き取られてからも、そのわき腹にさえ傷をつけられました。
イエスさまはその公生涯の間、人々に父なる神の教えを説き、人々の病いを癒し、また悪霊に縛られている人から霊の追い出しをなさってくださり……ようするにとにかく、人間にとって良いことしかなさらなかった方でした。
そのような「罪なき方」が十字架上で生贄の子羊として屠られたからこそ、そのことがわたしたち全人類の罪の贖いとなったわけですが、民衆が一度は「救世主(メシア)」として認め、もてはやされた方が、それは究極にまで失墜した瞬間でもありました
もちろんこの時、「なんだ。あんな奴ほんとはメシアなんかじゃなかったんだ」と思い、心が主イエスから離れてしまった人もあったかもしれません。そしてもちろん、弟子のユダに彼を裏切らせたサタン(悪魔)は、自分の策略がうまくいったこと(神に勝ったこと)を小躍りして喜んだことでしょう。
けれども、イエスさまの十字架の死は、実はここからこそが勝利のはじまりでした。
生前弟子たちに予告されていたとおり、三日ののちに甦られたのです。
もちろんこんなこと、普通に考えたら、「その昔、とても心正しい人がいて、多くの良い業を行った。ゆえに彼を慕う人々がそのような話を作って広めたのだろう」といったような、そんなふうに感じられることかもしれません。
けれど、イエスさまはこの世に受肉して以降、わたしたち人間と同じところにまで身を落とされ、人が経験すべき苦しみや悲しみや痛みのすべてを経験され、そして最後にはもっとも残酷な刑罰の頂点で死までも味わう……といったことを経験されなくてはなりませんでした
しかも、これらすべてがわたしたちのためであると同時に……神の子であるイエスさまにそれらのことすべてを行ったのもまた、わたしたち人類のすべてでもあるのです。
この部分は聖霊さまを通してしか理解されないことと思うので、説明は省こうと思うのですが(汗)、イエスさまはこんなにも愛のゆえに、わたしたち人間のために極みまで傷つかれたのです
今、心の傷ついている方はいますか?
その方は是非、イエスさまのわき腹の傷に触れて癒されてください。わたしたちの心の傷つき、その傷そのものをイエスさまは愛してくださいます。何故なら、イエスさまはこれもイザヤ書に、>>「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病いを知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ書、第53章2~3節)とあるとおり、「人から蔑まれ、除け者にされ」、しかも十字架上では父なる神との霊的断絶までも味わわれた方だからです。
つまり、これは自分の親からも捨てられ、人からも裏切られ捨てられ、また一度は慕ってくれたことのあった人たちさえもが離れ去り、まったくの究極的孤独をイエスさまは味わわれたということを意味します。
しかも、健康で精力の溢れている時にそのような目にあったというわけでもなく、自分がもっともつらい時にそれら一切のことがすべて起きたといっていいでしょう。
そしてもちろん、それであればこそイエスさまはこの「苦しみの杯」を飲み干すことでは父なる神に祈っています。>>「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカの福音書、第22章42節)と……。
このイエスさまの祈りは彼を信じる者すべての祈りの模範ともいうべきものですけれども、なかなか「神さまのみこころのとおりになさってください」とは言えないものですよね(^^;)
けれども、このイエスさまの態度を見習って、イエスさまが父なる神にすべてをお委ねしたように、わたしたちもまたすべてのことをイエスさまにお委ねすること……これこそが信仰生活において一番大切なことなのかなと思います。
イエスさまの生涯は、多くの弟子たちに慕われたり、御業をなさった方に心から愛されたりといった良いことのある一方で、「この世的」な見方をしたとすれば、とても悲惨な生涯だったと思います。けれども、イエスさまが「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」(ヨハネの福音書、第17章5節)と祈られたとおり――イエスさまは、天上の報いを見つめて離れませんでした。
わたしたちにもまた、もしかしたらイエスさまとはべつの「悲惨さ」が人生にあるかもしれません。けれども、イエスさまが完全に父なる神に信頼していたように……わたしたちにはイエスさまがいます。この方を慕い、信じ従うなら、聖霊さまを通して色々な助けや力や解決などが与えられます。
この父なる神・神の子なるイエス=キリスト・聖霊からなる三位一体の神がキリスト教における神なのですが、「父なる神・神の子なるイエス=キリスト・聖霊からなる三位一体の神」などと聞かされても、多くの人には当然意味が不明です(^^;)
けれども、教会でイエスさまのことを信じ受け容れる祈りをし、聖霊のバプテスマを受ける時……最初すぐにでなくても、さらに教会で教えを受けるなら、これこそが神さまが人に与えた<奥義>なのだということが理解されてきます。
>>この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
(使徒の働き、第4章12節)
もちろん、他の宗教を信じている方にとっては、その宗教の神さまの名前こそが神でしょうけれども(汗)、一度「ああ、そういうことなんだ!」ということがわかると――神さまはわたしたち人間のために、最後の砦ともいうような救いの名を与えてくださっていたのだ……ということがわかってくると思います。
それでまた~!!
>>この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。
また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。
(ヨハネの福音書、第19章28~37節)
このイエスさまのわき腹の傷は、わたしやあなたや、その他全人類のためにつけられたものだ……なんて聞かされても、ノンクリスチャンの方にとっては「なんやそら☆」といった感じだとは思います(^^;)
でも、一度教会で主イエス・キリストを受け容れる祈りをし、聖霊のバプテスマを受けると――その時にすぐでなくても、この主のわき腹の傷がわたしが自分でつけたものだということがわかってきます。
直接そのようなことをしたのはローマ兵でも、その他イエスさまのことを>>「もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」(マタイの福音書、第27章43節)と嘲弄し、彼にいばらの冠をのせ、それだけでなく下着さえもくじ引きをして奪ったのも――他でもないこのわたしがしたことだということがわかってくる、というか。
もちろん、普通に考えた場合「え?イエス・キリストが十字架にかかったのって今から二千年以上前でしょ?べつにうちら関係ないじゃん」といったところだと思うのですが、イエス・キリストのことを十字架につけたのは、他でもないこのわたし自身なのです。
イエスさまのわき腹の刺し傷は、主が十字架上で息を引き取られてのちつけられたものですが、この血と水というのは、わたしの持っている聖書の注解によりますと、>>血と水――罪を贖う血と、永遠のいのちを与える水を意味する。とあります。
これはイザヤ書の>>「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ書、第53章5節)の成就でもあり、イエスさまは十字架上でこれ以上もないほどの恥辱にまみれ(本当は神の子であられる方なのに!)、わたしたちのために極みまで苦しまれ、一度息を引き取られてからも、そのわき腹にさえ傷をつけられました。
イエスさまはその公生涯の間、人々に父なる神の教えを説き、人々の病いを癒し、また悪霊に縛られている人から霊の追い出しをなさってくださり……ようするにとにかく、人間にとって良いことしかなさらなかった方でした。
そのような「罪なき方」が十字架上で生贄の子羊として屠られたからこそ、そのことがわたしたち全人類の罪の贖いとなったわけですが、民衆が一度は「救世主(メシア)」として認め、もてはやされた方が、それは究極にまで失墜した瞬間でもありました
もちろんこの時、「なんだ。あんな奴ほんとはメシアなんかじゃなかったんだ」と思い、心が主イエスから離れてしまった人もあったかもしれません。そしてもちろん、弟子のユダに彼を裏切らせたサタン(悪魔)は、自分の策略がうまくいったこと(神に勝ったこと)を小躍りして喜んだことでしょう。
けれども、イエスさまの十字架の死は、実はここからこそが勝利のはじまりでした。
生前弟子たちに予告されていたとおり、三日ののちに甦られたのです。
もちろんこんなこと、普通に考えたら、「その昔、とても心正しい人がいて、多くの良い業を行った。ゆえに彼を慕う人々がそのような話を作って広めたのだろう」といったような、そんなふうに感じられることかもしれません。
けれど、イエスさまはこの世に受肉して以降、わたしたち人間と同じところにまで身を落とされ、人が経験すべき苦しみや悲しみや痛みのすべてを経験され、そして最後にはもっとも残酷な刑罰の頂点で死までも味わう……といったことを経験されなくてはなりませんでした
しかも、これらすべてがわたしたちのためであると同時に……神の子であるイエスさまにそれらのことすべてを行ったのもまた、わたしたち人類のすべてでもあるのです。
この部分は聖霊さまを通してしか理解されないことと思うので、説明は省こうと思うのですが(汗)、イエスさまはこんなにも愛のゆえに、わたしたち人間のために極みまで傷つかれたのです
今、心の傷ついている方はいますか?
その方は是非、イエスさまのわき腹の傷に触れて癒されてください。わたしたちの心の傷つき、その傷そのものをイエスさまは愛してくださいます。何故なら、イエスさまはこれもイザヤ書に、>>「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病いを知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ書、第53章2~3節)とあるとおり、「人から蔑まれ、除け者にされ」、しかも十字架上では父なる神との霊的断絶までも味わわれた方だからです。
つまり、これは自分の親からも捨てられ、人からも裏切られ捨てられ、また一度は慕ってくれたことのあった人たちさえもが離れ去り、まったくの究極的孤独をイエスさまは味わわれたということを意味します。
しかも、健康で精力の溢れている時にそのような目にあったというわけでもなく、自分がもっともつらい時にそれら一切のことがすべて起きたといっていいでしょう。
そしてもちろん、それであればこそイエスさまはこの「苦しみの杯」を飲み干すことでは父なる神に祈っています。>>「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカの福音書、第22章42節)と……。
このイエスさまの祈りは彼を信じる者すべての祈りの模範ともいうべきものですけれども、なかなか「神さまのみこころのとおりになさってください」とは言えないものですよね(^^;)
けれども、このイエスさまの態度を見習って、イエスさまが父なる神にすべてをお委ねしたように、わたしたちもまたすべてのことをイエスさまにお委ねすること……これこそが信仰生活において一番大切なことなのかなと思います。
イエスさまの生涯は、多くの弟子たちに慕われたり、御業をなさった方に心から愛されたりといった良いことのある一方で、「この世的」な見方をしたとすれば、とても悲惨な生涯だったと思います。けれども、イエスさまが「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」(ヨハネの福音書、第17章5節)と祈られたとおり――イエスさまは、天上の報いを見つめて離れませんでした。
わたしたちにもまた、もしかしたらイエスさまとはべつの「悲惨さ」が人生にあるかもしれません。けれども、イエスさまが完全に父なる神に信頼していたように……わたしたちにはイエスさまがいます。この方を慕い、信じ従うなら、聖霊さまを通して色々な助けや力や解決などが与えられます。
この父なる神・神の子なるイエス=キリスト・聖霊からなる三位一体の神がキリスト教における神なのですが、「父なる神・神の子なるイエス=キリスト・聖霊からなる三位一体の神」などと聞かされても、多くの人には当然意味が不明です(^^;)
けれども、教会でイエスさまのことを信じ受け容れる祈りをし、聖霊のバプテスマを受ける時……最初すぐにでなくても、さらに教会で教えを受けるなら、これこそが神さまが人に与えた<奥義>なのだということが理解されてきます。
>>この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
(使徒の働き、第4章12節)
もちろん、他の宗教を信じている方にとっては、その宗教の神さまの名前こそが神でしょうけれども(汗)、一度「ああ、そういうことなんだ!」ということがわかると――神さまはわたしたち人間のために、最後の砦ともいうような救いの名を与えてくださっていたのだ……ということがわかってくると思います。
それでまた~!!
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