ゆえあって(?)、ゲド戦記の第Ⅰ巻、影との戦いを再読中です♪(^^)
これでわたしゲド戦記を読み返すのは何度目かな……と自分でも思うのですが、おそらくこれから十年後、二十年後もわたしは忘れた頃に「ゲド戦記」を読み返していると思います。そのくらい、とても魅力的な本です
そして、読み返すごとに心に残る言葉が変わってきたりと、こうした現象が何度も起きることから見ても、「ゲス戦記」はこれから幾世紀にも渡り読み継がれるファンタジーの金字塔といっていいと思うんですよね(言わずもがな☆(・ω・))
また、読まれた方によってⅠが一番良かった、いや、やっぱり一番面白いのはⅡの「こわれた腕輪」だろうとか、あるいはⅢの「さいはての島へ」がなんと言っても最高に面白い――など、感想は人によってかなりのところ変わってくるかもしれません。
そして、わたし自身はⅠ~Ⅲのうち、どの物語も愛してやまないのですが、今回は再読中のⅠにのみ絞って何か書いてみたいと思いますm(_ _)m
とても有名なお話ではありますけれども、一応あらすじから先にはじめたほうがいいでしょうか(^^;)
>>ゲド(ハイタカ)の少年期から青年期の物語。ゲドは才気溢れる少年だったが、ライバルよりも自分が優れていることを証明しようとして、ロークの学院で禁止されていた術を使い、死者の霊と共に「影」をも呼び出してしまう。ゲドはその影に脅かされ続けるが、師オジオンの助言により自ら影と対峙することを選択する。
(ウィキペディアさんより☆)
ところで、「ゲド戦記」はアースシーという世界が舞台になっていて、そこで魔法を使う魔法使いはみな「まことの言葉」によって呪文を唱え、風を操ったり姿変えの術により動物の姿になったりと、この「ことば」ということが非常に重要視されています。
たとえば、人はみな普段呼ばれている名前の他に、「まことの名」を持っており、主人公のゲドであれば、普段人から「ハイタカ」というあだ名で呼ばれているのですが(ちなみに彼の母がゲドに与えた名はダニーと言いました)、まことの名を人に明かすというのは非常に危険なことでなので(魔法使いということになれば尚更)、本当に信頼できる大切な人にしか真の名前について明かすことはありません(逆にいうと、相手がもしそのような真の名を明かしてくれたとすれば、それだけ自分のことを愛し、信頼してくれていることの証明でもあります)。
ここはキリスト教のことについて何か書くという主旨のブログですので、当然クリスチャンにとってこのことに関連して思いだされるのが、次の聖書のことばだと思うんですよね。
>>初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
(ヨハネの福音書、第1章1~5節)
そして、わたしこれまで読み返した時にはそんなふうに思ってみたことなかったんですけど、仮にわたしたちが死んで天国へ行くか携挙されるかした場合――なんとなく、天国では「まことの名」で呼ばれるのではないだろうかという気がしませんか?
ええと、こうしたネットで本名について書くのは危険らしいので、自分の名前で説明できないんですけど(笑)、わたし、自分が天国へいってからも「佐藤なつ子」とか「鈴木岩男」とか、あるいは「勅使河原緑子(てしがわらみどりこ)」とか、その他なんでもいいのですが、とにかく今の本名で呼ばれるような感じがしません(^^;)
いえ、聖書には人は死んで復活してのち、その時こそ真の名が永遠とともに与えられる……だなんて書いてあるわけじゃありませんから、あくまでもこれはわたし個人の想像の世界の出来事と思ってお読みください。
それで、わたしがもし「佐藤なつ子」さんであるとして、誰かから「あなたは生前佐藤なつ子さんではありませんでしたか?」と聞かれた場合、「ああ、はい。確かに地上ではそのように呼ばれる者でした。でも今は『―――(真の名☆)』と呼ばれております。ところで、あなたさまの本当のお名前は?」、「わたしは今は『―――(真の名☆)』と呼ばれる者ですが、地上では鈴木岩男と呼ばれていました」、「そうでしたか!地上では非常にお世話になりました」……といったような、もしや何かそんな感じになるのではないかと(^^;)
>>イエスはシモンに目を留めて言われた。
「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします」
(ヨハネの福音書、第1章42節)
>>イエスは彼らに言われた。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」
シモン・ペテロが答えて言った。
「あなたは、生ける神の御子キリストです」
するとイエスは、彼に答えて言われた。
「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」
(マタイの福音書、第16章15~18節)
イエスさまがもとはシモンと呼ばれていた彼をペテロ(岩)と呼ばれたように、彼の信仰はその名のとおり岩の上に堅く立ったのと同じような力がゲド戦記いうところの「真の名」には秘められているのかなと、そんな気がします。
さて、ゲドは魔法を使う覚えも早く、ローク魔法学院でも頭角を表していくわけですが――この魔法学院に入学したての頃から、ゲドには気に入らないヒスイという名のライバルがいました。ゲドは容姿的におそらくイケメンという部類ではなく、無骨な田舎出身の青年で、家の育ちも貧乏でした。ところがこのヒスイという青年はお金持ちの領主を父に持ち、魔法の才能もあるようで、どうやら容姿的にも華やかなところがあるという、ゲドとはまったく正反対の青年のようです。
ある時、ゲドはこのヒスイに煽られる形で、ある禁じられた呪文を唱えてしまいます。そしてその時に死者の霊の他に<名なき者>、すなわち<この世の者ならぬ影>ともいうべき存在を呼びだしてしまいます。そいつは呼び出したゲドに襲いかかり、ゲドは瀕死の重傷を負い、この恐ろしい存在を追い散らすために――大賢人ネマールは命を落とすことになりました。
自分の浅はかな行動をゲドは痛悔しますが、彼が呼びだしてしまった<名なき者>、すなわち<影>は、今もこの世界のどこかに存在しており、ゲドと入れ替わろうと常につけ狙っているのです。ローク魔法学院は、たくさんの偉大な魔術の使い手、魔法使いのいる学院ですから、幾重にも張り巡らされた魔法の守りにある環境で、それでゲドには手出し出来ないのです。
かといって、このままずっと永遠に死ぬまでローク魔法学院にいるべきなのかどうか……ゲドは西海域の人々が竜の脅威にさらされていると聞き、そのあたりに住む人々の身の安全を守るため、影の脅威に怯えながらもそちらへ出向く決意をします。
さて、紆余曲折あって、<影>に発見されてしまったゲドは、いつまた彼に襲われ、生きながらにして血を吸われるような恐怖を味わわされることになるかと思い、まずはこの地における自分の魔法使いの任務を終えようとします。すなわち、人々がいつ襲われるかと脅えるペンダー島に住む竜を退治しに向かったのです。
人間vs竜……あんな大きな生き物に、たとえ魔法が使えたとしても、一体どうやって立ち向かうというのでしょうか。
ところが、ゲドには秘策がありました。ローク島で習った竜の歴史から、おそらくこれがペンダーの竜の<まことの名>ではないかと推測した名で竜のことを呼んだのです!竜の使う言語もまた人間が「まことの言葉」と呼ぶ魔法の言葉なのですが、竜が使う場合には人間が普段使っている日常言語と同じく、嘘をついたり話を捻じ曲げたりすることが可能だという点が違うんですよね。そして人間の側がこの「真のことば」を使用する場合には、決して嘘をついたり偽って何か言ったりすることが出来ない。
竜のほうでは、この島に昔住んでいた人間の財宝を与えてやろうとか、ゲドが追われている<影>の名前を教えてやろうとか、ゲドとなんとかうまいこと取引しようとしますが、ゲドのほうではこの竜との知恵比べに見事打ち勝ち、竜自身の「真の名にかけて」もう多島海(アーキペラゴ)のほうへはやって来ないという契約を結ばさせます。
いかに竜といえども、自分の真の名によって契約したことには拘束力があり、決して破るということが出来ないのです。
こうしてゲドは任務を無事に終え、ロークへ帰還しようとしますが、どうしても魔法学院のあるローク島へ船が辿り着いていきません。ロークには決して邪悪なものは近寄れないという強い魔法の守護の力が働いていますから、例の<影>が自分を追跡しているゆえに、自分はロークへ戻ることが出来ないのだとゲドは悟ります。
さて、なんといっても相手はゲド自身の<影>ですから、世界中どこへ逃げても追ってきます。ゲドはどうしたらいいのかわからず、またも病的な恐怖に襲われ苦しみますが、ある港で会った男の言葉を聞いて、北のテレノン宮殿がある場所へ向かいます。
ところが、ゲドはここでも<影>とはまた別種の邪悪な力に呼ばれて、危うくその罠に嵌まりそうになるのでした。こうしてゲドはここからも命からがら逃げだしますが、もはや地上に身を置く限りはいつどこにいても<影>に追われることになるのだと、ゲドにはわかっていました。そこで、姿変えの術によりハヤブサの姿に化けると、自分の生まれ故郷のゴント島へ舞い戻ってゆくことになります。
ゲドはあまりに長くハヤブサの姿でいたために、人間に戻ってからも何日間かは口も聞けないほどでしたが、ゴント島のル・アルビにいる魔法使いの師匠、オジオンに助けられ、ようやく元通りになることが出来たのでした。
ゲドがオジオンに助言を請うと、彼はこう言いました。
>>「向きなおるのじゃ。もしも、このまま、先へ先へと逃げて行けば、どこへいっても危険と災いがそなたを待ち受けておるじゃろう。そなたを駆り立てているのはむこうじゃからの。今までは、むこうがそなたの行く道を決めてきた。だが、これからはそなたが決めなくてはならぬ。そなたを追ってきたものを、今度はそなたが追うのじゃ。そなたを追ってきた狩人はそなたが狩らねばならん」
こうして、己の呼び出した<影>と向き合うことに決めたゲドですが、こののち、少し不思議なことが起きます。
ゲド自身が<影>に脅える間、相手はとても自分が勝てるとは思えぬ強大な力を持っていたのですが、今度はゲド自身が覚悟を決めて「狩られる者」ではなく「狩る者」になってみると、なんと、<影>のほうがゲドに背を見せて逃げ出したのです!
なんにしても、あのような<この世のものならぬ邪悪な存在>を呼び出してしまった責任はゲドにあるのですから、この命と刺し違えてでも<影>を退治しなくてはならないと、ゲドは己の<影退治>へと乗り出してゆきます。
オジオンはこの世界に「名を持たぬものはなかろうに」と言い、竜は(嘘かもしれませんが)「<影>の名前を教えてやろう」と言い、またゲドを罠にかけようとした太古の精霊の宿る<石>の配下も、「テレノンが教えてくれます」と言ってゲドを誘惑しました。
となると、ゲドが教えもせぬのに<影>が彼のまことの名を知っていたように(神さまや天使といった存在にではなく、邪悪そのものなる存在に己の「真の名」で呼ばれるなど、なんとぞっとすることでしょうか)、ゲドのほうでもやはり<影>の名前を知る手立てはあるということなのかどうか……。
ラストのほうは読んでのお楽しみといったところですけれど、「ゲド戦記」はこの終わり方がなんといっても素晴らしいと思います♪(^^)
そして、何かの不安や恐怖に毎日脅え暮らす……というのはたまったことではありませんが、そのような不安や恐怖があればこそ、人は成長するというのも本当のことだと思うんですよね。たとえば、過剰なまでに<影>に脅えるあまり、ゲドは自分の住む家のまわりに何重もの魔法の守りを巡らしますが、毎日こんなことをしていたのではいざ竜が襲ってきた時なんにもならないと思い、直接竜と対峙するという道を選びます。
その近辺に住んでいた人々はゲドの気が狂った、あるいは若い魔法使いの血気にはやった気違い沙汰と思いますが、ゲドにはある勝算があって、それにすべてを賭けることにしたわけです。人は何か大きなことを成し遂げようという時、「そんなことが本当に出来るだろうか」と思い、臆病になり、不安に迷って苦悩します。けれど、ある一定の期間悩む、あるいは悩みきったのちであればこそ、大きな勝負に出、勝ちを収めることが出来る――そういうものなのではないでしょうか。
もちろん、苦悩や不安など、ないに越したことはないのですけれど、そのようなものにより強大な力を与えるのも自分自身なら、打ち勝つことが出来るのも自分でしかない……ゲド戦記は原語版が1968年出版という古い本かもしれませんが、そのメッセージは今も深く生きています。そして読者のひとりひとりのに「生きる」とは何か、「本当に生きる」とはどういうことかを教えてくれる、本当に素晴らしい本だと思います
それではまた~!!
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