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ずっと、「文学の中のキリスト教」みたいなことを書こうと思っていてなかなか出来てないのですが(汗)、それと同様に「赤毛のアン」の中に出てくる聖書の引用、あるいはモンゴメリ作品の中に出てくるキリスト教の描写などについて書いてみたいと思いつつ、それも全然出来てないというww
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そんな中で今回は、「運命の紡ぎ車」というモリー・ギレンさんの書かれたモンゴメリの伝記を取り上げてみたいと思います
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といっても、モンゴメリの生涯について取り上げるということではなく、今回は本の中のほんのある一部分のことを取り上げてみたいと思いましたm(_ _)m
>>七歳になるスチュアートが、教義問答を暗記しているときに、<なぜ神は万物をお創りになったのか?>という問いに、<神の栄光のためである>と答えるくだりに行きあたったのである。
「神に対する憎むべき中傷だという気がしました」と彼女は憤慨して書いている。
息子の日曜学校の先生たち(「粗野で無知な二人の老婦人で、自分の人生に対する独自の考え方はひとつも持ったことがなく」、「エデンの園のもの言うヘビ」を信じない人は誰であれ、極悪非道の異教徒とみなすのであった)に対する軽蔑から、モードはスチュアートに次のように話したのだった。
「あの質問には、あんなふうに答えるべきではないんですよ。神が万物をお創りになったのは、愛と創造の喜び――すばらしい仕事をすることの、美を形あるものにすることの喜び――のためなのです」
(「運命の紡ぎ車」モリー・ギレンさん著、宮武潤三・宮武順子さん訳/篠崎書林より)
<なぜ神は万物をお創りになったのか?>、<神の栄光のためである>……というのは、キリスト教徒、クリスチャンである人々にとっては、そんなに矛盾しないというか、答えとしてそんなに首を傾げるということはないかもしれません
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でもモンゴメリは信仰深かったがゆえに、周囲のただ習慣的儀礼として信仰を守っている堅苦しい人々に疑問を持っていたりと、当時としては口に出して言うことの叶わない彼女独自の信仰に対する考え方を持っている女性でした。
<なぜ神は万物をお創りになったのか?>、<神の栄光のためである>……というのでも、わたしももちろんいいとは思うんですよ(^^;)でもモンゴメリの言うとおり「神が万物をお創りになったのは、愛と創造の喜び――すばらしい仕事をすることの、美を形あるものにすることの喜びのため」というほうがより美しい、神さまの御旨に叶った答えのような気がするのです。
ところで、マーリン・キャロザースさんの「感謝と讃美の教え」というのは、自分を取り囲む外的状況がどのようなものであろうと、そのことを神さまに「感謝し喜ぶ」時に人生が変わっていく……ということだと思うのですが、それは神さまがこの世界を創造した時の喜びとまったく同質のものではないかという気がします
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けれども、わたしたち人間があくまで科学的にものを考えた場合には、標準理論(標準模型)というのがありまして、わたしも頭悪いので難しいことはよくわからないのですが(笑)、ようするにこれは宇宙を造ったのは神ではなく、ビッグバンが起きて以降、今のわたしたち地球の人類の誕生した今に至るまで――すべては偶然の連続によって生まれた……という、突き詰めていえばそのような理論ということらしいのです(もし間違ってたらすみません^^;)
わたし、テレビでこの標準理論についてわかりやすく解説した番組を見たことがあったのですが、でもわたしが物理学について何もわからないヴァカ☆だからというよりも――この番組を見た一般の人々が抱く印象も、おそらく同じではないかと思うんですよね。つまり、数式によってそれが証明されているのだとしても、すべてのことはただ偶然の連続によって今に至るまで続いているのだ……と信じられる人というのは少ないと思うのです。
でももちろん、すべては運命なのだとか宿命なのだと言われても、「それもちょっとどかな~☆
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わたし以前、ネットの書き込み的なもので、「神が自分を賛美してもらうために人間を創ったとかっておかしくね?
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そしてさらに、もっとすごい神に対する疑問が存在します。それはつまり――「神さまが人間をお創りになったことはわかりました。じゃあ、その神さまは一体誰が創ったの?」というものです(笑)
ちなみにこの質問は、ヘレン・ケラーがサリバン先生にしたものなのですが、こうした子供の無邪気さには本当にハッ☆とさせられるものがありますよね
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>>我々は、全能にして可視・不可視を問わずすべての創造主たるひとつの父なる神を信ず。
そして、父なる神より生じ、実体を分け与えられた唯一の神の子を信ず。
そは神から生じた神、光から生じた光、真なる神から生じた真なる神にして、創られたにあらずして、天界・俗界双方の事象すべての源なる父なる神と同体にして、我ら人間とその救済のためにこの世に降り立ち、人の姿に成り代わり、人となり、災いを受け、三日後に甦り、天界に昇って生者と死者を裁かんとす。そして聖霊を信ず。
(『ダ・ヴィンチ・コードの謎を解く』サイモン・コックスさん著、東本貴司さん訳/PHP研究所より)
これは、今日のプロテスタントの教会で唱えられる使徒信条とは文言こそ違えど、意味としては大体同じものではないかと思います。
また、聖書にはこうあります。
>>神の賜物と召命とは変わることがありません。
ちょうどあなたがたが、かつては神にあって不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
(ローマ人への手紙、第11章29~36節)
また、旧約聖書の創世記は、神さまの天地創造からはじまるわけですが――たったの六日間で天地が創造されるだなんて、そんなこと絶対ありえない!というのか、科学者の方の当然の反論だったりもして(^^;)
けれども、神さまが創造の業を六日で終えて七日目に休まれたとあることから……今も我々の暦の一週間は七日なのですし、今に至るまでキリスト教徒、クリスチャンと呼ばれる人々はその安息日を守り、教会に集って神さまのこと、またイエスさまが十字架にかかって甦られたことを喜び、お祝いするのです。
こうしてわたしたちがそれを知覚するかどうかは別として、我々人間は無意識の内にも知らず知らずのうちに神さまに支配されている……そしてわたしたちの霊の中には「神を知りたい」と願う心があればこそ、真実の神がどのような方なのかわからないうちから――「あのような方に違いない、このような方に違いない」と想像したり、また自分の心の中で創ったり、あるいは身近にある神社仏閣などを拝んだりするのではないでしょうか。。。
神さまのほうで「わたしはこのような者である」と人間に知らせようとなさらない限り、わたしたちは目に見えない神を知ることも信じることも出来ないわけですが、神さまがモーセにお現われになった時……「わたしはあるという者である」とお名乗りになった場面を聖書で初めて読んだ時には、わたし自身はとても納得したのを今もよく覚えています(^^;)
何かちょっと議論が中途半端な気もしますが、これ以上書くと長くなりますので(汗)、まあ今回はこんなところで筆を置きたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
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