神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神を信じる愚か者。

2024年02月07日 | キリスト教
【ヨブと彼の友】イリヤ・レーピン

 愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。
 彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。
 善を行なう者はいない。

 主は天から人の子らを見おろして、
 神を尋ね求める、悟りのある者が
 いるかどうかをご覧になった。

 彼らはみな、離れて行き、
 だれもかれも腐り果てている。
 善を行なう者はいない。ひとりもいない。

 不法を行なう者らはだれも知らないのか。
 彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、
 主を呼び求めようとはしない。

 見よ。彼らが、いかに恐れたかを。
 神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。
 おまえたちは、悩む者のはかりごとを
 はずかしめようとするだろう。
 しかし、主が彼の避け所である。

 ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。
 主が、とりこになった御民を返されるとき、
 ヤコブは楽しめ。
 イスラエルは喜べ。

(詩篇、第14編)


「神を信じている人はいもしないものをいると信じ込んでいる可哀想な人たち」……といったように考えるということは、無神論者の方でもあまりないのではないかと思われます(^^;)

 どちらかというと、「人には信仰の自由がある」ので、自分や家族にその宗教を強要するなどして迷惑さえかけて来なければ、その方がどんな神を信じる信仰を持っていても、ある程度尊重する場合のほうが多いのではないでしょうか。

 また、仮に「自分は無神論だ」と言っている方でも、日本でなら仏教の行事、あるいは神社の行事を尊重する方は多いと思いますし、キリスト教国の方で「自分は無神論だ」と名乗っていたとしても、やはりクリスマスには贈り物をしたり、「わざわざクリスマスカードなぞ送ってくれるな」といったように、強く物申すことまではないような気がします。

 他に、「神を信じてもあまりいいことはない」とか、「宗教の対立などということがあるから紛争といったことが起きるのだ」として、神を信じることに虚しさを感じる方もおられます。

 冒頭の詩篇の中の「愚か者」はそういった意味ではなく、自分自身に罪があるので、「神はいない」と心の中で呟いているものと思われます。


 >>神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。

 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

(ヨハネの福音書、第3章16~21節)


 神さまがもしいなかったとすれば、確かに「いくらでも悪を行おう。だって神はただの人間の脳の産物に過ぎず、死後の地獄や裁きなんぞというものは、ただのまやかしにしか過ぎないのだから」ということになるのではないでしょうか。

 でも実際にはそこまでの極論に走る人というのは少なく、やっぱり人間には良心というものがあるので、何かの宗教儀式を行って身を清めるなど、人にはそうした宗教的なものを求める心がそもそも最初から備わっているのだと思います。また、自分が割と健康で、死や病気による苦しみといったものが遥か遠くの世界にあるような時は別として、何かの病気によって心身ともに弱っていたり、あるいは死を間近に感じる時……人はやはり神さまのことを求めはじめ、お見舞いに来てくれた人が「あなたの病気の癒しのために祈っています」と言ってくれたり、あるいは実際にベッドのそばで祈ってくれたとしたら――もし仮に同じ宗教を信じようとまでは思わなかったとしても、その心や気持ちについては涙が出るほど嬉しいと感じるなど、心境の変化といったものが必ずあるものだと思います。


 >>鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、
 神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
 私のたましいは、神を、生ける神を求めて
 渇いています。
 いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。

 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。
 人が一日中
「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。
 私はあの事などを思い起こし、
 御前に私の心を注ぎ出しています。

 私があの群れといっしょに行き巡り、
 喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群衆とともに
 神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。

 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。
 御前で思い乱れているのか。
 神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
 私の救い、私の神を。

(詩篇42編)


「おまえの神はどこにいるのか」と敵からそしられる間、この詩篇の作者はどれほどつらかったろうかと思います。ただ、そのことのせいで神の実在を疑っているとか、根本としてそうしたことではないんですよね。これはイザヤ書の51章23節ですが、「背中を地面のようにし、また、歩道のようにして、彼ら(敵)が乗り越えて行くのにまかせた」とあるように……神の民にも時としてそうしたことというのは起こりえます。

 むしろ逆に「そんな経験なぞ一度もしたことがない」方のほうが少なく、イエスさまの受難を同じように忍ぶため、そうした困難や苦しみの底を味わうということは十分ありえると思います。そして、そのような自分の敗北の様を見て、「一体どうした、おまえは神を信じているんじゃなかったのか」と、キリスト教徒でない方に指摘されるようなことも、時としてあるかもしれません。

 それでも、戦争や災害といったことについては、>>「わがたましいよ。なぜおまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を」とあるように、絶望し、思い乱れない人はひとりもいないわけであり、と同時にクリスチャンにはわかっているわけですよね。ヨブ記のヨブと同じように「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ記、第1章21節)という信仰を持つ必要があるということは、一応理屈によっては……。

 ヨブは自分の息子や娘や財産などを失っても、「罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった」と聖書にありますが、そのような彼を持ってしても、さらなる苦悩と苦難の襲来にはとうとう耐え難くなり、おおまかに言えば「自分がこんな目に遭わなければならないどんな罪があるというのか」、「そのことを自分は神と論じあいたい」、「こんなことなら自分はこの世に生まれて来ずに、死産の子のように世を去っていたほうが良かった」……といったように、神に対してつぶやくようになっていきます。

 というのも、ヨブの災難を慰めに来たはずの友人三名が、彼に罪を想定し、「それで今あなたはそんな目に遭っているのでは」とか、「神の御前に悔い改めるべきだ」とか、「そうすれば再びあなたは神に祝福されよう」といったように、ヨブの己の不幸に対する嘆きについて攻撃して来たからなのです。

 ヨブ記は最終的に神の顕現によって問題が解決されて終わり、ヨブはその後、苦難に遭う前の二倍以上もの祝福を神さまから受けるのみならず、この三名の友人たちよりもヨブはその正しさを神さまに認められもするわけですが……それでもこの「答え」に納得できない方は多いのではないかと思われます(^^;)

 ヨブ記のこのあたりのことに関しては以前にも書いたので端折りますが、わたし自身の個人的な意見として「遭う必要のない苦難」とか、「する必要のない苦労」といったものは存在すると思っています。つい先日、とあるドラマの中で「神は乗り越えられない苦難を与えない。だから頑張ろう」的なセリフがあったのですが、「乗り越えられない苦難というものは存在する」、「だから人は助けあわなければならない」というのが、わたしが即座に感じたことでした。。。

 いえ、わたし自身は先に引用したヨハネの福音書にあるとおり、「神さまが先にわたしたち人間を愛してくださったから」そうした考え方が出来るのであり、乗り越えらないような酷い苦難が存在するということは、それは神がいないということの存在証明である……といったようには考えないのです。このことはある人々には小さな違いかもしれませんけれども、わたしにとってはとても大きな違いでした。

 今、本当に色々なことがありますが、日々、とにかく祈っています。これもまたある人々にとっては愚かなことでしょうけれども、人は神を愛するように誰かを愛そうとすることによって祝福され、誰かを救おうとすることによってむしろ救われ、癒そうとすることによって逆に自分のほうこそが癒される……そうした良い循環に物事が流れていくといいのですが、世界にあるのはこの反対の悪循環なのだと思います。そして、その悪循環のループに嵌まり込んでいる人を救うことが出来るのも、究極的な意味で言えば神以外にありえないと、そのように思っています

 それではまた~!!






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