神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神さまの愛の深さ。

2024年01月06日 | キリスト教

 ええと、自分的に今年最初の記事(しかも1月1日)があれで良かったのかな……というのがありまして、今回は神さま、イエスさまの愛の深さについて何か書いてみたいと思いました

 というか、ひとつ下の「宇宙人・悪魔・幽霊」については、書いてたのは年末の二十何日かだったと思います。それで何かと忙しく、ちょっと時間を置いて読み返したのがたまたま1月1日だったというか

 それで、神さまの愛の深さについてなのですが、「すべての人間は公平ではないし、人生は何かと不平等だ」と感じている方は実際のところ多いと思います。ところがキリスト教ではですね、「神さまはすべての人を平等に愛しておられる」と礼拝メッセージで聞いたりしますし、信者の方の中にさえも、「いやまあ、一応建前としてはそうなんだけどさあ」みたいに、内心では思っていることがある……んじゃないかなあと、個人的には思います。

 わたしの持っている大好きなクリスチャン向けの本にも、次のようなことが書いてあったりします。「神さまはあなたを愛しておられる」とか、「神さまはあなたを唯一無二の者としてデザインし、他にふたりといない存在であるあなたのことを愛しておられる」といったように。

 わたし、この本に書いてあることが大好きですし、著者の方も素晴らしい方と思うので、これは内容批判ではなく、こう書いてあっても、クリスチャンと呼ばれる人々でさえ「いやまあ、一応建前上はそうなんだけれども……」ということは、確かにあると思うわけです(^^;)

 まず、デザインということであれば、性別や容姿その他、わたし自身は神さまに文句言おうとまでは思わなかったにしても、「絶対これじゃなきゃいけなかった」とまでは思わない――という方は、おそらく多いのではないかと思います。また、「もっとイケメンに生まれたかった」とか、「次に生まれ変わったら絶対美人に生まれたい」とか、生まれつき何かのご病気を持っておられたり、障害があってとてもつらい思いをしながら成長した……など、自分が選択できなかったことについても、キリスト教では究極「神さまに感謝すること」が推奨されています。

 つまり、「神さまがわたしを愛してるなんてほんとかな?」と思ったりするわけですけど、「神さまはありのままのあなたを愛しておられる」とか、言葉として嘘とは思わないけれども、どうもこう実感薄いんだよね……ということは、ノンクリスチャンの方でなくても、クリスチャンの方にも時としてあることかもしれません。。。

 わたし自身が思うに――おそらく、神さまの愛というのはむしろ、そうした表面的なところを突き抜けたところにこそ存在するのではないか……と、実は思っていたりします。キリスト教では「すべての人は罪びとである」と言われるわけですけど、そうした人間の罪性といったものは、神さまの聖らかな目にはおそらく「見たくもない、汚らわしく醜いもの」でしょうし、肉が腐ってカビが生え、ひどい匂いを放つその上をハエが飛び交い、それらが卵を産みつけ、ついにはウジがわく――というくらいのものではないでしょうか。

 でも、神さま、イエスさまはそのような人間の醜い罪性含めて「ありのままのあなたを愛している」とおっしゃってくださる。普通の人間の感覚で言えば、(神さまに対してなんとも不敬な言い方ですが)「おめえ、頭おかしーんでねえの?」くらいなものだと思います。

 ところが、創造の原理ということを考えてみると、ウジもハエもカビも、牛や馬、羊その他の動物の肉、動物そのもの自体を創ったのは神さまということになります。野生の動物の世界は弱肉強食で、テレビでドキュメンタリーを見ていても、その過酷さというのは時に目を覆いたくなるほどのものさえあります。わたしたちはライオンが鹿を襲ったりするのを見ると、「可哀想」と思いますし、どの生物にも大体天敵に当たるものが存在して、そんなふうにしてこの地球という惑星では生命が循環しています。

 その昔、自然の多い山のほうへ出かけていって、イチゴが実っているのを見、持ち帰って来ようとしたことがありました。子供らしい考えで、そのイチゴを根の深いところから苗ごと持ち帰り、家の庭にでも植えれば……またイチゴが実るのではないかと単純に考えたわけです。でもそれはヘビイチゴで、ザクっとシャベルで掘り返してみると――もう、気味の悪いくらい根のところを何十匹もの蟻が蠢いていましたその時、家族で出かけていて、おばあちゃんが隣にいたのですが、ふたりで「おえっ☆」といったようになり、「こりゃあダメだね」と言って諦めるということになりました。

 地中には他にもミミズやダニその他、一般的人間の感覚として「おえっ☆」となる生物がたくさん存在しています。正直、人間にもそうした「おえっ☆」となる気味の悪さはあるわけであり、でも神さまは自然の中の美しいものだけでなく、その生物の姿ありのままを愛しておられるという。

 わたし自身は自分が、「最低でも地中のダニよりは少なくともマシであろう」とはまったく思いませんが、地球に存在する、人間の美的基準としては醜いとさえ思われる昆虫その他の生物さえも、そのすべてを神さまは愛しておられるんだなあ……と感じられる時、自分もまた「生きていていいんだなあ」と感じられるというか。まあ、その割に家に蜘蛛その他よくわからぬ昆虫めらが姿を現すなり、「ギョエ~ッ!!」となり、即座にブッ殺してしまうというのがなんですが。。。

 実際のところ、今のように我々人間が誕生する遥か昔、地球は昆虫だらけの(わたしたちの価値基準にしてみれば)恐ろしい惑星だった時代もありますし、恐竜が滅んだのはある日突然神さまに愛されなくなったからだ……とも思いません。またその後、恐竜に踏み潰されるなどして絶滅しなかったのが不思議なくらい小さな我々のご先祖さまが――過酷な環境を生き抜き、今日の姿にまでやがて進化した……というのは、まさしく奇跡としか思われません。

 まあ、キリスト教は進化論を否定してると思いますが、個人的にはそう矛盾しないような気がしています。進化論を取った場合においても、人間……というより、この地球に生命が誕生し、我々のような知性を持つ存在になるまでには、途方もない時間がかかっています。でも、ここまで神さまが人間というものを大切に育んでくださったにしても、わたしたちは自分の今日・明日・明後日、あるいは三か月後や半年後や一年後などにこれこれのイベントがあるといった、そんな短期スパンの出来事のほうが遥かに大切としか思えず、事態が悪いほうへ転がるたび「どうにかしてよお、神さま~っ!!あんた、わたしたち人間を創ったんだから、どうにかする責任っつうもんがあんでしょうが!!」と駄々をこねるという、そんな矮小な存在にしか過ぎません。

 以前、イスラエルの牧師さんのレオン・マジンさんが、礼拝メッセージの中で「神さまと我々とは、たとえばアメーバと人間、人間とボールペンというくらい差がある」みたいにおっしゃっていたことがあって、自分的にポイントとして物凄くよくわかりました(笑)。我々がアメーバだったりボールペンであったとすれば、到底神さまの創造の深い真意といったものは理解出来ないでしょうし、神さまが本当はそのくらいかけ離れた存在だというのではなく、自分たち人間と同じ、ある限定された思考回路しか持たない存在として同列に捉えようとするからこそ――「なんでえ~っ。神さまって意地悪~!!ぴえ~んっ!!」みたいになるっていうことですよね(^^;)。

 ただ、神さま、イエスさまの愛の深さ、その偉大なところは、「そんなこともわかっているよ、我が子よ」とおっしゃってくださるところだと思います。イエスさまのことを信じる告白をし、聖霊さまを受けると、内住してくださった聖霊さまが、真理の解き明かしをしてくださって、目からうろこが落ちるように霊的な分野に関しても必ず成長させてくださいます。

 特にその時、「何が必要」ということもなく、ただイエスさまが十字架上でなされた血の贖いは自分の罪が赦されるためだったと信じればいいだけというところも……そして、その時には「聖霊の内住ってなんじゃろう?」くらいに思っていたとしても、聖霊のバプテスマを求めるならそれが起きてくるということ、「他の人はそうでも、自分はそうじゃなかったらどうしよう」と心配する必要もないことなど……神さま、イエスさまのなさることは創造の御業以外においても、本当に不思議だなあと思わされます。

 それではまた~!!






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