わたし的パワースポットのひとつに、キリスト教書店があります♪
今は特にクリスマスということもあって、そうしたクリスマスグッズがたくさん飾られていて、見ているだけでもほっこり幸せな気持ちになれたり。。。
当たり前といえば当たり前なんですけど、キリスト教に関係した本がほぼ90%を占めているのではないかと思われるんですけど、それ以外の本もやっぱり少しは置いてあって、なんとなくそのチョイスが何故かわかるところも面白かったりするんですよね。
この間見た感じだと、戦争関係やクリスマス関係の本、他にジェンダー関係や子供に対する虐待の本などが割と目についたような気がしたり……それと、精神関係というか、精神病に関係することのみならず、心の問題に関してキリスト教からはどうアプローチすべきか――といったような視点の本とか、宗教と心の問題って近似したところがあると思うので、そういった種類の本の中には面白そう……というか、個人的に興味のあるタイトルのものが結構あるんですよね。
結局買って来なかったんですけど、「愛着障害について」という本があったりとか、正確なタイトル忘れちゃったんですけど、「赦せない人を赦すにはどうすべきか」という感じの本があったりして、機会があったら読んでみたいなあと思ったりしました
あ、「愛着障害」については、わたし自身あまり心当たりない気もするものの……定期購読してる本の会計の間、すぐ隣の本棚に置いてあったので、なんとなくぱらぱら見てみたというか。。。
>>愛着障害とは、乳幼少期に何らかの原因により、母親や父親など特定の養育者との愛着形成がうまくいかず問題を抱えている状態のことを言います。
乳幼児期の子どもは、自分の欲求や感情をうまく伝えられません。お腹が空いたとき、眠たいとき、オムツが汚れたときなどに泣いて周りに伝えます。そこで、母親などの特定の養育者が必ず自分のところに駆けつけて、優しい声掛けと愛情あふれるコミュニケーションをとってくれることで、子どもは安心します。
子どもは自分が安心していられる居場所を見つけ、養育者と共に生活していく中で愛着を形成していきます。この愛着は、今後の人生の様々な土台となり、心の発達には欠かせない要素になっています。
愛着障害のある子どもは、愛着形成から得られる自尊心や自立心、社会性などが育たずに成長していきます。大人になってから、社会の中で他人とうまくコミュニケーションが取れなかったり、自己肯定感が下がったりと「社会生活のしづらさ」を感じることでしょう。対人関係や社会性に困難がある大人の中には、愛着障害の可能性がある方もいると言われています。
(『大阪メンタルクリニック・梅田院』のHPさまよりm(_ _)m)
わたし、「愛着障害」については、自分的にあまり心当たりないかな……と思う一方(対人関係がうまくいかなかったとしても、それは親のせいではないという意味で)、「完璧な親などいない」という意味では、誰でも多少なり「自分が他人に甘えられないのは、多少そうした部分もあるかも……」と、思い当たる部分はあるかもしれません。
ただ、症例のケースを見てみると、「なるほど。そういうことなんだ」と納得したりもします。前にちょっと孤児院というか、海外の孤児院について少しばかり調べものをしていた時、たまたまイギリスでは……的なページがあって、読んでみたところ、今はもう孤児院という呼び方は当然してなくて、そうした施設もイギリスでは少ないみたいに書いてありました。
やっぱり、里親制度というか、そこにも当然虐待であるとか、問題はあるにしても、何故里親制度が一番良い選択肢として選ばれるかという理由について、ボウルビィの愛着理論のことが一緒に書いてあったんですよね。それがやっぱり愛着障害ということで、それが父親でも母親でも、赤ちゃんの頃から幼児期や思春期といった人格形成期に至るまで――「この人にならしっかり甘えられる」という、人間じゃなくても犬でも猫でもお猿さんの赤ちゃんでもそうであるように、とにかくがっしりしがみつくことの出来る精神の形成過程がどうしても必要になる、ということだったと思います。
施設で育つ場合、「この人なら信頼できる」、「甘えられる」、「がっしりしがみつける」、「絶対嫌われない安心感がある」……といった人がいるといいわけなんですけど、何人も里親にあたる形の施設の職員の方がいるといった形だと、どうしても遠慮が生まれたり、その部分がうまくいかないことのあることから、里親の家庭で育つことのほうが子供の精神の成長過程にはどうしても良いということになる、ということだったんですよね。
いえ、わたしイギリスが舞台の18~19世紀の孤児院の状況がいかにひどいものか……という映画を見たり小説を読んだりしていたもので、そうした劣悪な環境から今はそういった形に落ち着いた、でも里親制度にも問題がないわけではない――という、そうしたことなのかなと思ったわけです(^^;)
それで、もうひとつの「赦せない人をどう赦すか」という本なんですけど、こちらは著者の方がキリスト教徒ということで、ちょっと読んでみたいなと思いました。たぶん、著者の方の体験談的なことでもあるようだったので……あ、今特に「あいつのことが赦せない~!!ムキ―ッ!!」みたいなことはないとはいえ、わたし自身は祈りを通していてさえ、「(ある程度)諦める・手放す・忘れる」ということも大切なのかなあということに落ち着いたという人なので、他の方はどういった過程を通して人を赦すのだろう……と思ったというのがあります。
他に、ニーバー兄弟やボンヘッファーに関する本などが不思議と目についたりして、結局クリスマス関係の本も欲しかったりで、どの本を優先して買うべきかわからず帰ってきました(@_@)。
ええっと、わたし自身は結構「キリスト教徒の基礎知識として、そんくらいのこと知っとけよ☆」ということに関して、知らないことが本当に多くて……それのみならず、普段もそうした本を優先して読むのではなく、他の全然関係ない推理小説を読んでいたりで、そうした知識がなかなか深まっていかないという。。。それで、キリスト教書店へ行くと「ああ、あの本も読みたい。この本も買いたい」と思うものの、結局いつも迷ってしまって、本を一冊か二冊に絞れずに帰ってくるわけです
>>神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。
一日一日を生き、
この時をつねに喜びをもって受け入れ、
困難は平穏への道として受け入れさせてください。
これまでの私の考え方を捨て、
イエス・キリストがされたように、
この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。
あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。
そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。
アーメン
これは、ニーバーの祈りとして有名なものみたいです。わたし自身はマザー・テレサの本に掲載されてるのを読んで知ったのですが、「変えることの出来ないものを静穏に受け容れる勇気をお与えください」って、すごいなあって思います。
いえ、やっぱり人の心とか、変えられないものじゃないかなって自分的に思うので……自分が最大限努力して相手が変わらないといった場合、わたし自身は割と「諦める」、「手放す」、「神さまにお委ねする」……というか、そうしたプロセスを通るような気がします。
この祈りは「静穏の祈り」と呼ばれているそうなんですけど、最初から静穏でいる、いつでも人格の成熟した人間として静穏な精神状態でいるとか、基本的には無理と思うわけです。そして、続く祈りの中で「ああ、今日も受け容れられない困難があるけれど、そんなのわたしだけじゃないんだな。がんばろう」、「いや、がんばれなくても、がんばれないこと含め、そのすべてをイエスさまにお委ねしよう」といった気持ちになることが出来るような気がします。
それではまた~!!
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