神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

主イエスとともに祈る。主のみこころに死ぬ。

2018年02月14日 | キリスト教
【ゲッセマネの祈り】アンドレア・マンテーニャ


 >>それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。

「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい」

 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。

 そのとき、イエスは彼らに言われた。

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」

 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」

 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。

「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」

 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。

「わが父よ。どうしても飲まずに済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください」

 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。

 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。

 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。

「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました」

(マタイの福音書、第26章36~46節)


 >>聖木曜日の夜のイエスのように、無力感のうちに愛し、沈黙にとどまること。そしてイエスの祈りを聖霊がわたしたちのうちで祈ってくださるようにすること。十分愛の沈黙を生きること。

「どこにいようと、聖木曜日の闇と沈黙のうちに、空の聖櫃を離れない。わたしたちに何も理解することができなくても、オリーブ山でイエスと共に目覚めていること。オリーブ山――何のご出現もなく、啓示もなく、ご変容もない、ただ深い沈黙だけが山を覆う」

(『イエスの渇き~小さなテレーズとマザー・テレサ~』ジャック・ゴティエさん著、伊従信子さん訳/女子パウロ会より)


 イエスさまがそのご生涯の中でもっとも大変な瞬間を迎えようとする時……弟子たちは眠りこんでしまいました

 もしわたしがその場にいても、おそらくまったく同じようだったでしょうけれども、この時弟子たちが眠ってしまったのは、後世に聖書を読むわたしたちのためという部分もあったのではないでしょうか(^^;)

 けれど、イエスさまの復活後、ペンテコステの時に聖霊さまがおくだりになり、弟子たちは完全に(霊的に)目覚めた状態となりました。

 わたしたち(キリスト教徒・クリスチャン)が<祈る>という時、イエスさまの御前に出て祈ることが大切だ――といったように以前教会で教えてもらったのですが、その中でも特に重要なのが、「イエスさまとともにゲッセマネで祈る」ということなのではないでしょうか。

 人にはそれぞれ事情があって、毎日色々と忙しく、「イエスさまに祈る時間をなかなか取れない」ということはよくあると思います。また、わたしも毎日祈っていても、「ただ形式的に祈っているだけではないだろうか?」との疑念が拭い去れないことがよくあります。

 もちろんこれは、わたしの場合、月~土曜日の間に祈る課題がそれぞれあって、そのことについて祈るわけですけれども、たとえば「北朝鮮に拉致された方のために祈る」といった場合、もちろん、毎週そのことを祈っていても、実際の現実のほうは全然動いていかないわけですよね(^^;)

 こういう時、同じ事柄について継続して祈り続けるって難しいことがあります。

 北朝鮮の拉致問題といったことでなくても、世界のどこかで災害が起きた時にも――「十分な物資が迅速に届けられますように」とか「経済が十分に間に合い、満たされますように」と祈っても、なんかちょっと嘘っぽいっていうんでしょうか(^^;)

 それが自分にとっての今目の前にある現実の問題なら、当然必死に祈りますよね。あるいは、自分じゃなくても自分の知っている身近な人だったとしたら……でも、中東で起きている戦争などもそうでしょうけれども、こうした時に「世界が平和でありますように」とか「一日も早くこの戦争が終わりますように」と祈ったとしても、どこか他人ごととして祈ってるっていうんでしょうか。

 けれども、本当の祈り、ゲッセマネでイエスさまとともにいるというくらい、そう感じられるくらいの強い祈りって、そうしょっちゅう持つのは難しいような気がします

 いつでもそうあれるのが理想でしょうけれども、やっぱりわたしの中でそれに近いものっていうと、人の問題について祈るよりも、自分が今目の前に迎えている困難について祈るといった場合なんですよね(^^;)

 たとえば人間関係の問題とか、経済的な問題とか、まずは自分の問題が解決されたら、他の人のことについても祈れる……というか、そうした側面がある気がします。

 でも、毎日自分の心の中を祈りの中でチェックしたり、祈るための時間があんまりなくて、早口でいつも祈っていることを羅列するような形でも……とにかくなんでもいいから<祈る>っていうのが大切なんだなって、自分的には経験的にそう思うんですよね(^^;)

 わたしが最初に救われた先の教会(主の十字架クリスチャンセンター)では、毎日まずは一時間祈るといったように教えていただいたと思うのですが、それも無理なら、まずは五分からはじめても全然いいと思います。

 まず最初に五分祈れれば、その後それを10分、20分と伸ばしていければいいと思いますし、経験的にわたしが「とにかくなんでもいいから祈る」ことが大切というのを実感的に感じたのは――まず「そうした継続的な祈りを主は無視されない」ということだったでしょうか。

 もちろん、祈ってると特に最初のうちは思いますよね(^^;)「この切なる必死な祈りを神さまは聞いているのか、それとも聞いておられないのか~!!」みたいに。

 でも、聖霊さまを通してイエスさまに祈り、また聖霊さまから折に触れて助けや力を受ける時……なんというか、実感としてわかることがあります。たとえば、北朝鮮の拉致問題について祈る時も、中東の戦争とか、世界のどこかで起きた災害のことについて祈るといったことについて祈りつつ――「ただわたし、形式的に祈ってるだけなんじゃないかなあ」みたいに疑問に感じる時も、そんなふうに色々迷ったり考えたりしつつわたしが祈っているということを主は見ておられ、むしろそれゆえにこそ、わたしの個人的な対人関係の問題ですとか、経済的に逼迫した状態を助けてくださったりとか、直接そのことについてのみ祈るよりも……そんなふうに色々祈りの中で思索しつつ人が祈るということをイエスさまは喜ばれるのだな……ということがわかってからは、ますます神さまに祈るということがわたしの中で喜ばしく楽しいことになりました♪

 もちろんわたしには、何が「正しい祈り」かというのはわかりません

 でも、「どう祈ったらいいかわからない」といった場合は特に、教会でそのことを牧師さんに教えていただいたり、あるいは他の教会員の方に「普段どんなふうに祈ってるか」を聞くこともできるでしょうし、また教会の祈り会に参加したりと、そうしたところからはじめてみるのがいいのかなって思うんですよね

 それではまた~!!





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« トイレの凍結、主に感謝♪(笑) | トップ | あなたは助けられ、救われる。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事