神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神は愛です。

2022年11月03日 | キリスト教
【放蕩息子の帰還】レンブラント・ファン・レイン


 神は愛です。

(ヨハネの手紙第一、第4章16節)


 確かに、この世界に神さまがいらっしゃるとしたら、間違いなくきっとそうでしょう。

 けれども、わたしたちは思います。

「神さまが愛なら何故、こんなひどいことや悲惨なことによってこの世というところは満ち満ちているのだろう」と……。

 わたしも戦争など、世界で何か恐ろしいことが起きるたびにそのことを考えてきましたし、当然わたしのような蟻の如き凡人がそんなことを思う以前に、この世界に生きてきた人々はこの難問に取り組んできました。そして最近、シモーヌ・ヴェイユの本を読んでいて、あらためて思ったことがあるんですよね。

 シモーヌ・ヴェイユについては、ウィキの「生涯」のところを読んでいただくと、彼女が短いながらもどれほど凄まじい人生を生きたかがわかると思います。彼女は死後に生前書いていたものが出版されてベストセラーになったわけですが、第二次世界大戦という激動の時代を生きた人としての言葉は含蓄に富み、哲学的で難解でもありますが、その純粋無垢な精神には驚かされるばかりです。

 そのシモーヌ・ヴェイユの言葉を読んでいて、ふと思ったわけです。以前、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』について書いたことがありましたが、彼女もまた、イワン・カラマーゾフの言葉に同意する、といったような文章がありました。簡単に短くつづめて言うと、「もしこの世界に神が存在するのならば、何故このような悲惨が存在するか。たとえば、戦争によって他民族の赤ん坊が殺されることがあるが、この赤ん坊にいかなる罪があるのか。あるいは、親の子供に対するむごいまでの虐待。その時にこの子供が便所で隠れて流した涙について、神は死後に天国があるから耐えよとでも言うのか」……言い方は違いますが(抜粋すると長くなりますので)、大体そうした、どんなに神さまを強く深く信じている人でも、返答に窮するような問いについて、イワンは並べているわけです。

 それで、わたしもその答えについては当然答える言葉を持たないわけですが、シモーヌ・ヴェイユの文章に触れていて、ふとこう思ったのです。「戦争を起こそうとする者は、すなわちもう一度キリストを十字架に磔(はりつけ)にしようとする者である」ということを。

 もちろん、こうしたことはすでに誰かが同じことを言っているでしょう。事実、戦争といった大きなことだけではありません。わたし自身、自分の小さな行いにおいて、一体何度イエスさまのことを再び十字架に磔にし、そのことを悔い改め、十字架の主の御元で祈ってきたことでしょうか。

 この世界に生きるすべての人は罪びとである……そう聖書は言っています。また、イエス・キリストのイエスは、イェシュア(ヨシュア)神は救いであるという意味ですが、イエスさまはこうしたすべての罪びとを救うために、十字架に磔にされ、この世の罪のすべてを背負われ、ご自身の死によって贖うため、人の世にやって来られました。

 このこと(イエスさまが神さまより救い主として遣わされた神の子であること)を信じる者は、自分の罪のすべてをイエスさまが十字架によって磔にし、その血によって贖ってくださったわけですから、「罪がまったくない」わけです。そして、そのように「罪がまったくない清い者」しか天国へ行くことは出来ないのです。

 もちろん、理屈だけでこう聞かされると、詭弁のようにしか聞こえないかもしれません。けれども、イエスさまのことを信じ、聖霊を受けたクリスチャンはすべて――「その時すぐに」ということはなかったとしても(このことを霊的に悟り、その瞬間涙を流されるといった方はたくさんいらっしゃると思います)、「イエスさまのことを十字架に磔にしたのは、他でもないこのわたし自身のしたことだ」という、罪の大きさに気づきます。そして、イエスさまのことを鞭打ったのも自分なら、荊の冠を被せ、下着を脱がせ、「おまえが神の子なら、今救っていただくがいい。何しろ神の子だと自分でそう言っているのだから」と、つばを吐きながら言ったのも、他でもないこのわたし自身がしたことなのです。

 言うまでもなく、こんなひどいことをした人間は同じように苦しい十字架刑にでもかかって死ぬべきです。天国ですって?とんでもない。こんな人間はひとり残らずすべて、地獄へ行くべきでしょう。けれども、イエスさまはこの十字架に手足を釘で打ち抜かれた状態で上げられてのち――ご自身の左右にいたという、罪びとのひとりが「あなたが天国へ行った時には、どうかわたしのことを思いだしてください」と言うのを聞き、「あなたは今、わたしとともにパラダイス(天国)にいます」とおっしゃいました(パラダイスとは、もともと古ペルシャ語に由来し、囲いのある庭園といった意味です)。

 また、イエスさまは十字架に架かって墓へ葬られ、三日後に甦られてのち、弟子たちに姿を現され、それから昇天されたわけですが、イエスさまがおっしゃっていたメッセージというのはようするに、「今はわたしの死が悲しく思われ理解できなくても、喜びなさい」ということでした(※聖書にイエスさまのまったく同じ言葉があるわけではありません)。

 これは言葉を変えていうと、イエスさまのことを鞭打ち、罵り、恥をみせ、唾を吐きかけ、彼という全存在を否定したというのに――それにも関わらず、わたしたち罪深い人間たちは赦されている、ということです。また、本来ならこんな人間は地獄へ行くのが当然なのですが、逆に天国で神さまとともに永遠に生きることが出来るというのです。

 聖書には、有名な放蕩息子のたとえがありますが、話を少し変えるとしたならば、あるところにひとりの怠け者の息子がいて、まったくもって聞き分けがなく、親がその行動についてあれこれ言うたび、家庭内暴力を振るうので、どうにもしょうがない。しかもこの家の父親はお金をたくさん持っている資産家だったため、この息子はある時「家から出ていってやるから、そのかわり金くれ親父」と言いました。そこで、この父親は息子の言うとおり、自分が死んだあと、息子にいくであろう金を持たせてやることにしたのでした。

 こののちこの息子は、この世の厳しさ・大変さ・つらさに直面し、あんなにたくさんあったお金も、くだらないことやつまらないことで使い果たし、スッカラカンのすかんぴんになってしまいました。この時、ボロアパートで寒さに凍えていたこの息子は、とうとう悔い改めます。その時彼は、父に対して反抗的な態度ばかり取っていたこと、また母親の顔を殴ったことを思い出しては、とめどもなく涙が溢れてきました。

「そうだ。今さら赦してもらえるとは思わないが、せめても自分がどうしようもなく救いようのない人間であることを認め、そのことを両親にあやまろう」……そう考え、息子は故郷へ帰ることにします。「あんなに金を与えたのに、一体何に使ったんだ」と父親に言われ(聖書の放蕩息子の場合は、遊女に溺れて父親からもらったお金を食い潰したとあります)、母親には「今さら一体何をしに帰ってきたんだい?あんたみたいな息子、もう野たれ死んだと思っていたよっ!」と怒鳴られるかもしれません。

 けれども、この両親は、もうひとりよく出来た兄息子がいるにも関わらず(稼業のほうはこの息子に継がせました)、出来の悪い次男が帰ってきたことがわかると、心から喜び、涙を流して抱きしめたのです。

 おわかりでしょうか。これこそが、聖書、キリスト教の教える神さまの愛です。また、聖書には「わたしはあなたがたを捨てて、孤児にはしません」(ヨハネの福音書、第14章18節)とあります。それから、「彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう」(イザヤ書、第57章17~19節)といったようにも……。

 神さまの愛の前には、理性による理屈など、なんの役にも立ちません。それに、わたしたち人間の間でも、それはまったく同じでしょう。「あんな奴」、「あんなひどい奴」、「どうしようもない奴」……そう思う人間に、人生の中で一度も出会ったことがない人のほうが、おそらく少ないはずです。でも、忘れないようにしましょう。イエスさまはわたしたちがそのように下に見たり蔑んだりする人々のことをこそ、「神さまの愛にもっとも相応しい者」として、立たせてくださるのですから(イエスさま自身、パリサイ人といった宗教権威者からは「あんな奴」、「あんな程度の奴に何故我々が負けるのか」と、下の者として見られ、蔑まれていたのですから)。


 >>まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。

 これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか」と言わなくてもよい。

 また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか」と言わなくてもよい。

 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。

(申命記、第30章11~14節)

 >>なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(ローマ人への手紙、第10章9~10節)


 神さまの愛は、宇宙の果てであるとか、そんな遠くにあるものではありません。また、「心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とは、十分にキリスト教について理解し、そのことに同意する、ということを意味しません。たとえば、あの分厚い聖書をすべて読み、そこに書かれていることに納得したから信じた……という方は、とても少ないだろうと思います。

 そうではなく、教会で賛美を聞いていて何故か涙が溢れてきて信じたとか、他の誰も泣いてなどいないのに、その時に聞いた牧師さんの礼拝メッセージの言葉に霊的に深く触れられて、魂がじーんと来るような体験を通して信じた――など、その人にとっての「信仰の不思議」ということが必ずあるわけですよね。

 ちなみにわたしの場合は、特に賛美に感動するでもなく、礼拝の言葉の何かが心に引っかかったということでもなく、「この中でイエスさまを信じたい方は手を上げてください」と、3回くらい言われたのです。キリスト教についてなんて、まだ何もわかりませんでしたから、「まだ同意することは出来ない」と思い、1度目も2度目も手を上げませんでした。でも、集われている方の人数自体が少なかったので、「これはきっと手を上げたほうがいいんだ」みたいに思ったわけです。

 それで、その時わたし、賛美についても、神さまの御言葉についても、何ひとつ理解してないながらも、そこにいた人々が「本当に心から神さまを信じている」といった空気感だけは感じていたんですよね。やって来る前までは、「おかしなところだったらすぐ逃げ帰ろう&もう二度と来なければいいだけ」と思っていたのですが、その次の日曜には「ここへは来なければならない」といったように、心が変えられていました。

 もちろんこれが、「聖霊さまの働き」によることだと、今はよくわかるわけですが、「キリスト教ってなんか難しそう」、「聖書なんてあんな分厚いもの、とても読めそうにない」とか、そうした心配は実は何もいらないのです。信じたあとの理解力といったものは、聖霊さまによって必ず与えられます。それであればこそ、「普段は小説とか、そうした難しい本は一冊も読まない」という方が、聖書と信仰書についてのみ何冊も読んでいたり、信仰の奥義に触れるような事柄について、本当に「不思議な理解力」が聖霊さまによって与えられていくのですから。

 そして、この聖霊さまが与えられるためには、まず教会で「口で告白し、信じる」必要があるわけです。「キリスト教について十分理解し、納得したら信じる」ということであれば、きっと今ごろキリスト教という存在自体滅んでいたかもしれません。けれども、そうした「信仰の不思議」の聖霊さまによる継承が連綿と続いてきていればこそ、キリスト教は今もなお神さまの教えとしての権威を持ち続けているのだと思います。

 どうか、今この瞬間も、世界のどこかでイエスさまを信じる方が、聖霊さまの御力の注ぎかけによって起こされていますように

 それではまた~!!






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