【聖母の行列】フレデリック・レイトン
これは前にもどこかに書いた気がするのですが……わたしがまだノンクリスチャンであった頃、こんなふうに考えていました。
わたしは小さい頃から祈ることが好きな子供だったので、色々な神さまの名前を挙げて祈っていました。山の神さま、海の神さま、川の神さま……といった自然の神さまにはじまって、タンスの神さま、冷蔵庫の神さま、電子炊飯ジャーの神さま――といった具合に、神さまの名前はどんどん増えていき、最終的にありとあらゆる神さまの名前を挙げていくうちにぐっすり眠ってしまうという。。。
つまり、最後に「来年、3年生になったらクラス替えがあるので、△□ちゃんと同じクラスにしてくださいっ!!」といった願いごとを具体的に口にする前に、先に寝てしまうわけです(笑)。
そして、ここからさらに信仰(?)が成長してからは、今度はまたべつの事柄が神さまに関連して浮かんできました。仮に神さまという存在がいたとしても、わたしが神さまに祈りの言葉を申し上げる前に、大体軽く50億飛んで六百五十七人くらい、同じように神さまに願いごとを叶えてもらうべく行列を作ってる人がすでにいるのではないか、ということです。
「いくら神さまだって、七十億以上もの人間の願いごとを一度に聞いたりは出来ないだろうし……何より、明日食べるのにも困っている人や、困窮の最中にあってもっと困っている人たちだってたくさんいる。わたしだって、そんな人たちを押しのけてまで自分の願いごとを神さまに聞いてもらおうとは思わない」というのでしょうか。人間的にそんなふうに考えるようになってからは、神さまに祈ることも次第になくなってゆきました。
ところが、ですね。教会でイエスさまのことを知って聖霊さまのことがわかった時――この聖霊のネットワークということがあれば、確かに神さまは70億以上もの人間の心の中を瞬時にして読みとることが可能だろう……ということがわかったのです(^^;)
これもまた、大体似たようなことを前にも書いてると思うのですが、仮に神さまがスーパーコンピューターというか、スーパーコンピューターすら超える情報処理能力の持ち主だった場合、それが仮に70億を超える人間に関することであれ、瞬時にしてわたしたちの心の中にあることを読み取ることが出来る――という、あえてわかりやすいように人間的な言い方をしたとすれば、何かそんなような感じのことだということなんですよね。
わたし、前回【4】のところで、マーリン・キャロザース先生のご著書の言葉を引用して、イエス・キリストという神を聖霊さまを通して信じた場合、そのことはわたしたちの批判的知性のコントロール・センターを通らないで起きることだ、といったように書きました。
また、【3】のところでは、進化論で有名なダーウィンさんのことを引用したのですが、ダーウィンさんはこの世に「悪がある」、「悲惨なことがある」という現実を見て、そのことと御自身の打ち立てた進化論の理論とを合わせて――最終的に、キリスト教の神を否定するに至ったのかもしれません。
それで、「悪」ということに関してですが、以前、ある本の中でこんなふうに書いてあるのを読んだことがあります。著者の方は確か精神科医の方で、精神鑑定その他のことで、刑務所へ行き、受刑者の方のお話を聞いたりするという立場の方だったと思います(作家としても有名な方なので、名前を言われたら「あーっ!」てなるはずなんですけど、ど忘れしててすみません)。
そして、その作家さん曰く、受刑者さんのお話を聞いたりするうちに、あるひとつの疑問が浮かび上がってきたということだったんですよね。つまり、人間のうちの善人たちの頂点にいるのは神である、このことは誰もが容易に受け容れることの出来る真理である……けれど、悪人の頂点にいるのもまったく同じ神なのではあるまいか――といったような疑問だったと思います。
確かに、キリスト教においても、楽園にすら蛇がおり、さらには地上において悪魔(サタン)がこの世の終わりまでも活動することを、神は許しているわけですよね。また、これはまた別の方が本の中で書いておられたことなんですけど、「キリスト教の神は、この世に悪があるのはすべて悪魔や悪霊のせいであるとしているが、それらの活動を許しているような神を、わたしは決して容認することは出来ない」といったことだったと思います。
また、これは再びわたしたちの脳の話に戻ることでもありますが、たとえばある殺人者が殺人事件を起こした場合――そうした方と何人も面談して話を聞いていると、人を殺した瞬間のことを「夢のようだ」と語ることがあるそうです。殺された方の遺族にしてみれば、「夢のようだって?ふざけんなっ。だったら今すぐおまえを殺してやるっ!それで本当に夢のようかどうか、自分で確認してみるがいいっ!!」ということになると思うのですが、わたしたちの脳というのは、いつまでも覚えていると苦しみやストレスや絶望の元にしかならない記憶について……その効果を薄れさせるために「忘れる」という機能があるわけですよね。また、誰かを殺して警察の刑事さんが聞き込みにきた時、色々なことを言って誤魔化そうとするのも――その真実でない虚偽を本当かのように見せかける行為も、わたしたちの心、というよりも脳の機能に備わっている<合理化>ということについて考えれば、なんらの不思議もないということになるらしいです。
ちょっと話が逸れてしまいましたが、善人の頂点にいるのも神であり、悪人の頂点にいるのも神である……ということの矛盾、この難問を解ける人はおそらく、人間の中にはいないでしょう。それと同じく、「神がいるなら何故~~」という疑問についても、そうした疑問は今から数千年前にもあったことでしょうし、これから地上に人類が生き続ける限り、なくなることはない疑問と思います。
そして、「その疑問が解けたら」、「十分納得できる答えが得られたら」、「神を信じてもい」――とするなら、人間はこれから先、永遠に神さまを信じることはないでしょう。
ところが、にも関わらず、それらの神に対して不利な証言が山のようにあるにも関わらず、この世界には変わらず何かの宗教や神を信じる人々が絶えたことはないわけです。「神は脳がつくった」を読むと、人間の脳の進化理論と合わせて、そのあたりのことが何故なのか、我々の脳がそのように進化してきたからだ……ということがわかるわけですが、わたしがここで言いたいのはそうしたことではありません(笑)。
以前、キリスト教を信じる前、わたしは人間的に考えて、神さまに祈りを聞いてもらうのに長い行列に並ぶのはやめようと思いました。でも、そこには今も変わらず、神さまに自分の祈りや願いごとを聞いてもらおうとして、長い行列に並ぼうとする人が絶えたことはありません。
けれど、やっぱりみんな、行列に並び続けることには疲れるし、とても待ちきれなくて挫折してしまうのです。そして、わたしと同じように行列に並ぶことに疲れた人々は、かといってどうしていいかもわからず、ただ絶望してそこらへんに座りこむという、ただそれだけです。
イエスさまの福音というのは――まさしく、こうした人々にもたらされるものだと思います。「やれやれ。神なんか信じてもしょうがねえやな」といったように思っていると、「行列に並ばなくてもあなたの祈りの言葉や願いの声を聞いてくれる別の神がいるよ」と教えてくれる人がいて……まあ、そのままそこに座っていたって事態が何か変わるわけでないことを思えば、眉につばをつけつつ、その人物のあとについてゆこうというものです(笑)。
そして、「神がいるなら何故△□」といったようなことは、教会で聖霊さまに触れると、ある意味どうでもよくなる……という言い方はおかしいかもしれませんが、そうした疑問については変わらずわからないままでも、「神さまがいる」とか「天国はある」とか、そうした確信が与えられるわけです。
「神は脳がつくった」の中では、わたしたちにはそうした、神とか、自分たち人間を超えたスピリチュアルな存在を感じる領域がある――といったように書いてあって、このあたり、読んでいて非常に面白いのですが、わたし自身は自分に関する限り、「だからわたしはキリスト教の神であるイエス・キリストを信じた」とは言えないなと思いました(^^;)
何故といってわたしはもともと、キリスト教徒=偽善者と無意識のうちにも思っていたような人間であり、カトリック幼稚園のバスを見かけただけで、「偽善者養成所に通わされる可哀想な子たち!」と心の中で思っているという人間でした。また、小学生の時、エ○バの人たちが校門の前にいて、イエスを信じたら死後に天国へ行き、信じない人間は地獄へ行く――といったことを、天国と地獄それぞれの絵を見せて子供たちに話すのを見て……「そんなの、絶対本当の神じゃない!!」とか、「キリスト教の神だけは絶対神ではない」との確信を深めたという人間だからです。
そうした疑り深い人間がですね、ろくに聖書も読まず、礼拝で歌われる賛美歌の意味もわからないにも関わらず――まあ、とにかく信じたわけです。意味なんてわからないのにですよ?それはわたしの脳が理性的に考えて導きだした合理的な考えでもなければ行動でもなかったと思います。ようするに、最初にそこへ行った時から「よくわからないけど、とにかくここへ来なくてはならない」という、そうした霊的な引っ張る力がその教会には備わっていたわけです。
逆にいうと、わたしが脳の中で色々な理屈をこねて、「だから神はいないんだ~!ふんぬ~!!」などといくら頑張ろうとも……理屈抜きの霊の引っ張る力のようなもの(これが聖霊の力ということですが)があって、わたしはイエスさまのことを自分の救い主と信じ、今に至るわけです。
前にも書きましたが、わたしにとってイエスさまを信じたこと、キリスト教徒になったことは、自分の人生で起きた一番素晴らしいことだったと思います。ですから、今度はわたしのほうこそが、以前のわたしがそうであったように、暗闇で絶望して座っているような人々に、同じように伝える義務があると思っています。
「あんなに長い行列に並んでも、その先にいるのは本当の神ではない。人は自分で信じたいように神を信じる自由があると思うけど、聖霊さまを通してあなたもイエス・キリストを信じてみませんか?」――おお!なんとうさんくさい言い種かと思いますけど、昔のわたしが同じだったように、こんな勧誘の言葉でも、眉につばをつけつつついて来る方は今もおそらくいるはずです。
何故なら、聖書に「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネの福音書、第4章24節)とあるとおり、神さまは確かに霊だからです。わたしの説明の仕方が稚拙であるとかなんとか、そんなことは関係ありません。聖霊さまを通してイエスさまが働いてくださるので、同じように<何か引っ張る力>を感じた方というのは、わたしと同じく「よくわかんないけど、なんか信じよう」と、神さまの霊が働く時に、本当の信仰が生まれてくるのです。
それではまた~!!
これは前にもどこかに書いた気がするのですが……わたしがまだノンクリスチャンであった頃、こんなふうに考えていました。
わたしは小さい頃から祈ることが好きな子供だったので、色々な神さまの名前を挙げて祈っていました。山の神さま、海の神さま、川の神さま……といった自然の神さまにはじまって、タンスの神さま、冷蔵庫の神さま、電子炊飯ジャーの神さま――といった具合に、神さまの名前はどんどん増えていき、最終的にありとあらゆる神さまの名前を挙げていくうちにぐっすり眠ってしまうという。。。
つまり、最後に「来年、3年生になったらクラス替えがあるので、△□ちゃんと同じクラスにしてくださいっ!!」といった願いごとを具体的に口にする前に、先に寝てしまうわけです(笑)。
そして、ここからさらに信仰(?)が成長してからは、今度はまたべつの事柄が神さまに関連して浮かんできました。仮に神さまという存在がいたとしても、わたしが神さまに祈りの言葉を申し上げる前に、大体軽く50億飛んで六百五十七人くらい、同じように神さまに願いごとを叶えてもらうべく行列を作ってる人がすでにいるのではないか、ということです。
「いくら神さまだって、七十億以上もの人間の願いごとを一度に聞いたりは出来ないだろうし……何より、明日食べるのにも困っている人や、困窮の最中にあってもっと困っている人たちだってたくさんいる。わたしだって、そんな人たちを押しのけてまで自分の願いごとを神さまに聞いてもらおうとは思わない」というのでしょうか。人間的にそんなふうに考えるようになってからは、神さまに祈ることも次第になくなってゆきました。
ところが、ですね。教会でイエスさまのことを知って聖霊さまのことがわかった時――この聖霊のネットワークということがあれば、確かに神さまは70億以上もの人間の心の中を瞬時にして読みとることが可能だろう……ということがわかったのです(^^;)
これもまた、大体似たようなことを前にも書いてると思うのですが、仮に神さまがスーパーコンピューターというか、スーパーコンピューターすら超える情報処理能力の持ち主だった場合、それが仮に70億を超える人間に関することであれ、瞬時にしてわたしたちの心の中にあることを読み取ることが出来る――という、あえてわかりやすいように人間的な言い方をしたとすれば、何かそんなような感じのことだということなんですよね。
わたし、前回【4】のところで、マーリン・キャロザース先生のご著書の言葉を引用して、イエス・キリストという神を聖霊さまを通して信じた場合、そのことはわたしたちの批判的知性のコントロール・センターを通らないで起きることだ、といったように書きました。
また、【3】のところでは、進化論で有名なダーウィンさんのことを引用したのですが、ダーウィンさんはこの世に「悪がある」、「悲惨なことがある」という現実を見て、そのことと御自身の打ち立てた進化論の理論とを合わせて――最終的に、キリスト教の神を否定するに至ったのかもしれません。
それで、「悪」ということに関してですが、以前、ある本の中でこんなふうに書いてあるのを読んだことがあります。著者の方は確か精神科医の方で、精神鑑定その他のことで、刑務所へ行き、受刑者の方のお話を聞いたりするという立場の方だったと思います(作家としても有名な方なので、名前を言われたら「あーっ!」てなるはずなんですけど、ど忘れしててすみません)。
そして、その作家さん曰く、受刑者さんのお話を聞いたりするうちに、あるひとつの疑問が浮かび上がってきたということだったんですよね。つまり、人間のうちの善人たちの頂点にいるのは神である、このことは誰もが容易に受け容れることの出来る真理である……けれど、悪人の頂点にいるのもまったく同じ神なのではあるまいか――といったような疑問だったと思います。
確かに、キリスト教においても、楽園にすら蛇がおり、さらには地上において悪魔(サタン)がこの世の終わりまでも活動することを、神は許しているわけですよね。また、これはまた別の方が本の中で書いておられたことなんですけど、「キリスト教の神は、この世に悪があるのはすべて悪魔や悪霊のせいであるとしているが、それらの活動を許しているような神を、わたしは決して容認することは出来ない」といったことだったと思います。
また、これは再びわたしたちの脳の話に戻ることでもありますが、たとえばある殺人者が殺人事件を起こした場合――そうした方と何人も面談して話を聞いていると、人を殺した瞬間のことを「夢のようだ」と語ることがあるそうです。殺された方の遺族にしてみれば、「夢のようだって?ふざけんなっ。だったら今すぐおまえを殺してやるっ!それで本当に夢のようかどうか、自分で確認してみるがいいっ!!」ということになると思うのですが、わたしたちの脳というのは、いつまでも覚えていると苦しみやストレスや絶望の元にしかならない記憶について……その効果を薄れさせるために「忘れる」という機能があるわけですよね。また、誰かを殺して警察の刑事さんが聞き込みにきた時、色々なことを言って誤魔化そうとするのも――その真実でない虚偽を本当かのように見せかける行為も、わたしたちの心、というよりも脳の機能に備わっている<合理化>ということについて考えれば、なんらの不思議もないということになるらしいです。
ちょっと話が逸れてしまいましたが、善人の頂点にいるのも神であり、悪人の頂点にいるのも神である……ということの矛盾、この難問を解ける人はおそらく、人間の中にはいないでしょう。それと同じく、「神がいるなら何故~~」という疑問についても、そうした疑問は今から数千年前にもあったことでしょうし、これから地上に人類が生き続ける限り、なくなることはない疑問と思います。
そして、「その疑問が解けたら」、「十分納得できる答えが得られたら」、「神を信じてもい」――とするなら、人間はこれから先、永遠に神さまを信じることはないでしょう。
ところが、にも関わらず、それらの神に対して不利な証言が山のようにあるにも関わらず、この世界には変わらず何かの宗教や神を信じる人々が絶えたことはないわけです。「神は脳がつくった」を読むと、人間の脳の進化理論と合わせて、そのあたりのことが何故なのか、我々の脳がそのように進化してきたからだ……ということがわかるわけですが、わたしがここで言いたいのはそうしたことではありません(笑)。
以前、キリスト教を信じる前、わたしは人間的に考えて、神さまに祈りを聞いてもらうのに長い行列に並ぶのはやめようと思いました。でも、そこには今も変わらず、神さまに自分の祈りや願いごとを聞いてもらおうとして、長い行列に並ぼうとする人が絶えたことはありません。
けれど、やっぱりみんな、行列に並び続けることには疲れるし、とても待ちきれなくて挫折してしまうのです。そして、わたしと同じように行列に並ぶことに疲れた人々は、かといってどうしていいかもわからず、ただ絶望してそこらへんに座りこむという、ただそれだけです。
イエスさまの福音というのは――まさしく、こうした人々にもたらされるものだと思います。「やれやれ。神なんか信じてもしょうがねえやな」といったように思っていると、「行列に並ばなくてもあなたの祈りの言葉や願いの声を聞いてくれる別の神がいるよ」と教えてくれる人がいて……まあ、そのままそこに座っていたって事態が何か変わるわけでないことを思えば、眉につばをつけつつ、その人物のあとについてゆこうというものです(笑)。
そして、「神がいるなら何故△□」といったようなことは、教会で聖霊さまに触れると、ある意味どうでもよくなる……という言い方はおかしいかもしれませんが、そうした疑問については変わらずわからないままでも、「神さまがいる」とか「天国はある」とか、そうした確信が与えられるわけです。
「神は脳がつくった」の中では、わたしたちにはそうした、神とか、自分たち人間を超えたスピリチュアルな存在を感じる領域がある――といったように書いてあって、このあたり、読んでいて非常に面白いのですが、わたし自身は自分に関する限り、「だからわたしはキリスト教の神であるイエス・キリストを信じた」とは言えないなと思いました(^^;)
何故といってわたしはもともと、キリスト教徒=偽善者と無意識のうちにも思っていたような人間であり、カトリック幼稚園のバスを見かけただけで、「偽善者養成所に通わされる可哀想な子たち!」と心の中で思っているという人間でした。また、小学生の時、エ○バの人たちが校門の前にいて、イエスを信じたら死後に天国へ行き、信じない人間は地獄へ行く――といったことを、天国と地獄それぞれの絵を見せて子供たちに話すのを見て……「そんなの、絶対本当の神じゃない!!」とか、「キリスト教の神だけは絶対神ではない」との確信を深めたという人間だからです。
そうした疑り深い人間がですね、ろくに聖書も読まず、礼拝で歌われる賛美歌の意味もわからないにも関わらず――まあ、とにかく信じたわけです。意味なんてわからないのにですよ?それはわたしの脳が理性的に考えて導きだした合理的な考えでもなければ行動でもなかったと思います。ようするに、最初にそこへ行った時から「よくわからないけど、とにかくここへ来なくてはならない」という、そうした霊的な引っ張る力がその教会には備わっていたわけです。
逆にいうと、わたしが脳の中で色々な理屈をこねて、「だから神はいないんだ~!ふんぬ~!!」などといくら頑張ろうとも……理屈抜きの霊の引っ張る力のようなもの(これが聖霊の力ということですが)があって、わたしはイエスさまのことを自分の救い主と信じ、今に至るわけです。
前にも書きましたが、わたしにとってイエスさまを信じたこと、キリスト教徒になったことは、自分の人生で起きた一番素晴らしいことだったと思います。ですから、今度はわたしのほうこそが、以前のわたしがそうであったように、暗闇で絶望して座っているような人々に、同じように伝える義務があると思っています。
「あんなに長い行列に並んでも、その先にいるのは本当の神ではない。人は自分で信じたいように神を信じる自由があると思うけど、聖霊さまを通してあなたもイエス・キリストを信じてみませんか?」――おお!なんとうさんくさい言い種かと思いますけど、昔のわたしが同じだったように、こんな勧誘の言葉でも、眉につばをつけつつついて来る方は今もおそらくいるはずです。
何故なら、聖書に「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネの福音書、第4章24節)とあるとおり、神さまは確かに霊だからです。わたしの説明の仕方が稚拙であるとかなんとか、そんなことは関係ありません。聖霊さまを通してイエスさまが働いてくださるので、同じように<何か引っ張る力>を感じた方というのは、わたしと同じく「よくわかんないけど、なんか信じよう」と、神さまの霊が働く時に、本当の信仰が生まれてくるのです。
それではまた~!!
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