>>悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
(エペソ人への手紙、第6章11~17節)
前にもJ・R・R・トールキンの「指輪物語」のことには触れたことがあるのですが、わたし、このお話がほんっとーに大好きで
(ちなみに、当ブログにおける「指輪物語」に関する記事は「病いと文学」、「生きるということは、じっと辛抱することよ。」などですm(_ _)m)
キリスト教徒の方が読んだ場合、ほぼ間違いなく聖書のこの箇所などを連想するのではないかと思うのですが(ちなみに、映画はまた表現媒体が違うので、「指輪物語」=「聖書」、「キリスト教的価値観」みたいにはあまりならない気がします)、「指輪物語」って敵にサウロンという闇の帝王のような人(?)が出てきます。
作者のトールキン自身も「指輪物語」はキリスト教的(カトリック的)みたいにどこかで書いてたらしいので、このサウロンという闇の帝王は聖書でいう悪魔、キリスト教徒のすべての敵である悪魔(サタン)、悪霊的勢力のかしらとして表現されているとも読めると思います。
こういう種類のファンタジーというと、今は「ドラゴンクエスト」や「ファイナル・ファンタジー」などに代表されるRPGゲームを連想される方が多いと思うんですけど……「指輪物語」の面白いところは、まずこの冥王サウロンという敵には絶対に勝てないという設定だと思うんですよね。
わたしたちクリスチャンも同じように、神さまの守りや助けがなければ、絶対にこうした悪魔(サタン)、悪霊的勢力には勝つということが出来ません。そしてわたしたちが神さまに聞き従い、神さまの御守りの中にある時に、敵の攻撃からまったく守られたり、あるいは神さまからの「今、こうせよ」といった御命令のあった時に出撃するなら完全に勝利を得られる……信仰の原則に照らしてみるならそういうことだと思うのです。
けれども、言うまでもなく人間というのは弱いもので、神さまが守ってくださっているのに「もしその言葉の通りにならなかったらどうしよう」と恐れるあまり……人間的な力を用いて解決しようと試み、それがただの無駄な努力で終わってしまったり、あるいは「今、出撃せよ」と神さまがおっしゃっておられるのに、現実の脅威に心が震えおののくあまり、ダッと逃げだしてしまったりする――その結果神さまの勝利を得られないといった、実に哀れで惨めな存在です。
そして、「指輪物語」というのは、こうした種類の設定で満ち満ちているのです(笑)
まず、主人公たちが人間よりも小さいホビットと呼ばれる人たちですし、「指輪物語」の主人公はフロドで、彼は滅びの山の亀裂にまで冥王サウロンの「一つの指輪」を捨てにいくという長い……とても長い旅へと仲間とともに旅立っていきます。
何分、冥王サウロンがしていたというだけあって、強大な魔力を秘めた指輪ですから、それはただ「そこにある」というだけで、周囲の人々に恐ろしいまでの力を発揮します。
フロドの旅の同行者に、ボロミアさんという人物がいるのですが、彼はこの冥王サウロンの指輪を用いることで、苦境に陥っている自分の国の軍を救えはしまいかと考えますし、もちろんこれは悪の力によって悪の勢力を一時的にでも押し戻そうというような危険なあやまった考え方なのですが――何より、自分の身内たちが困っている、明日にも命を落とすかもしれないと思ったら、そのような手段を用いてでも助けたいという気持ちは本当にとてもよく理解できるのです
そして、「指輪」自身がそのような隙を彼の中に感じとり、巧妙に影響力を与えた結果として……ボロミアさんは、フロドから指輪を奪いとろうとします。指輪を持つ者は、それを指にはめると姿を隠すことの出来る能力を得ますから、フロドはそのような形でボロミアさんから逃れます。
こののち、ボロミアさんはオークたちと戦って命を落としてしまいますが、本当にここは映画を見ていても「気持ちわかる」というような、痛ましいシーンだったと思います。
そして他に、サルマンという、魔法使い世界でガンダルフと唯一力の拮抗した人物ではないかと思われる、非常に優れた賢人がいるのですが――彼はある時、冥王サウロンの力に捕えられ、その闇の力に屈した結果、その優れた能力のすべてを善なることにではなく、悪そのもの、闇そのものである冥王サウロンへと捧げるしもべとされてしまいます。
このサルマンに関する記述を読んでいて思うのは……一度聖霊を受けていながら信仰の堕落した者は救うことが非常に難しいという聖書の言葉であり、またイエスさまのおっしゃった、唯一聖霊を汚す者だけは許されない――という言葉のことだったでしょうか。
また、ガンダルフはもしかしたら自分が彼であったかもしれないとの思いから、サルマンに最後まで温情をかけていますが、この彼の気持ちもとてもよくわかります。悪そのもの、闇そのものである冥王の力に捕えられたら、それまでの間に仮にどれほどの善行を積み上げていようとも……そのような行いがすべて無意味であったが如く、わたしたちも(神さまの御守りがなかったなら)サルマンのように悪のしもべとして惨めに働くだけの存在に成り下がってしまうことでしょう。
そして、フロドは他の小さい仲間たちと最終的には目的を成し遂げるわけですが、彼の旅の最終目的地というのは、悪そのもの、闇そのものの支配するような地だったのですから、そこに入っていく、そこへ行くという決意をするというだけでも、どれだけの勇気が必要なことだったでしょう。
また、ちょっとお説教くさくなってしまいますが、これこそが信仰の力ということであり、おそらく作者のトールキンは、物語世界の背景にそうしたキリスト教的価値観というものを自分でも感じつつ、筆を進めていたのではないかと思われます
「指輪物語」って設定として、闇99%vs光1%というような、「この条件下で勝利を得るなど、そんなことはまずもって不可能に等しい」、「冥王サウロンを滅ぼすことなど誰にも出来ない」……といった設定が本当にリアルなんですよね。黒門の場面などもそうですが、99%が完全な闇でも、1%の勇気や希望や光があるならば、闇の力を押し返す力が人間にはあるというか、そうした<指輪物語>の持つメッセージ性は本当に素晴らしいものだと思います。
ただ、そちらの闇の力が与える不安や絶望や恐怖といったものに負けてしまったサルマンやボロミアさんやデネソール候、あるいはゴクリ(ゴラム)の気持ちなども、読んでる側にはすごくよくわかるというか
わたしたちクリスチャンにも同様に、フロドが闇の力の支配するモルドールへ行く決意をしたように、そのような勇気ある決断が必要な時があり、99%負けが決まっているようなものなのに、神さまが「そのままの力で行きなさい」とおっしゃるので、1%の自分の力だけで神さまに聞き従い、戦いへ赴かなければならない瞬間があると思います(たとえば、士師記のギデオンのように)。
そして、そうした「勇気」をくださるというのも神さまの聖霊さまを通した恵みだと思うんですよね。このあたりの表現が本当に「指輪物語」は見事で、トールキンの筆の巧みさには舌を巻きます。もちろん、ノンクリスチャンの方がそのまま読んでも映画を見ても面白いですし、クリスチャンの方だったらさらに背景にそうしたキリスト教的価値観のあることがわかるので、二重の意味で楽しめる、「指輪物語」は本当に素晴らしい文学の大傑作だと思います♪
それではまた~!!
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