今、ずっと読みたくて読めていなかった「意識はいつ生まれるのか」という本を読んでいるのですが……わたしたち人間の意識の<在処>(ありか)といったものがどこにあるのかというと、『頭蓋骨のなかにあるこぶしひとつ分のニューロンが機能することで生みだされる』と言います。
そして、本のほうは医学生が解剖の授業で、この脳を取りだして手のひらにのせる――というところを理論の出発点としています。これは著者である、医師にして神経生理学者であるマルチェッロ・マッスィミーニさんと、精神科医であるジュリオ・トノーニさんが医学生時代にともに同じ経験をしたことから来るそうで、お二方ともその時、とても不思議な感慨に包まれたと言います。
でも、本当にそうですよね。この、手のひらにのる重さにして約1.5キログラムほどのものの中に、かつては人の<意識>と呼ばれるものがあったはずなのに……今はそれがないだけでなく、頭蓋骨内から死後に取り出され、医学生の解剖の授業の役に立っているとは!!――この戸惑いというのはおそらく、わたしの乏しい想像力によって想像するには、次のようなことではないかと思います。
魂・心・精神といった尺度ではかった倫理的な問題としては、「こんなことが果たして許されていいのだろうか?」ということであり、と同時に、医学生なら誰もがやっている、それは<ただの解剖の授業である>ということの矛盾……医師を志す方というのは、医学生時代からこうした矛盾に心を慣れさせていかなくてはいけないのでしょうけれども、「このことに自分は本当に慣れていいのか?」、「だが、慣れなければいい医者にはなれない」ということにもまたさらに矛盾が含まれるという、非常に難しい問題がここにはあるような気がします(^^;)
それはさておき、わたしたちの脳には、ニューロン(神経線維)やシナプスといったものが詰まってるってよく聞きますよね。で、わたしたちが今この瞬間も生きているということは、このニューロンといったものが四六時中発火して、色々なやりとりをしているということであり、わたしたちが今この瞬間「何かを考える」、「何かを考えてそのことを実行しようとする」間も、わたしたちがニューロンやシナプスといった存在をまったく意識しないにも関わらず、彼ら(笑)は引っきりなしにずっと活動しているわけです。
前にどこかの記事で、わたしたちが「神さま」とか宗教に関わることを特に考えたりする時、左の側頭葉が関係している……といったことを書いた気がするんですけど(正確には『脳の中の幽霊』という本の中に、そうしたことを扱った章があるというか)、これでいくとおそらく、わたしが神さま、イエスさまに祈りはじめると、特にこの部位が激しく発火しているのが測定できる――ということになるのではないでしょうか(^^;)
つまり、人間の脳の中にはこのニューロン(神経線維)というのが約千億ほどもあって、そのうち、大脳の占める割合が約二割、小脳には残り約八割ほどもニューロンが詰まっていることがわかっているそうです。
あの、一瞬これ、わたしの書き間違えかなんかじゃないかと思いますよね(^^;)
普通、どう考えても、大脳にあるニューロンの割合が約八割、小脳にあるニューロンが残り二割と考えたくなるのではないでしょうか。昔、中学生か高校生くらいの時に、理科の授業か何かで脳の構造について習った時――小脳に関しては、「おもに運動などを司る」といった、非常にざっくりした説明しか書き記されてなかった気がする……といったように記憶されてる方は、とても多いと思います。
でも現在は、小脳というのはただ運動機能を司るだけでなく、他にも色々と複雑なやりとりを脳内で行っていることがわかっているそうです。そして、交通事故等によって脳の手術を受けた方が、この小脳の中のニューロンの多くを奪われてしまった場合――その方の手術後の姿というのは、まずバランス感覚を失っているので歩き方がおかしかったり、その他速い動きをするのが困難、ふるえがある、言葉を一音節ごとに区切るように話していたかと思えば、爆発したようにしゃべりだすこともある……といったようになってしまうと言います。
それで、この本をわたしが「どうしても読まねばならぬ」と思っていた動機については、読み終わったあとにまた記事にしようと思うんですけど……とりあえずわたし、この本のさわりの部分と、自分にとって「これはどうしても知らねばならぬ」と思っていた箇所を先に読んでしまって思うに――結局のところ、わたしたちの怒りも憎しみも生に対する呪いも、歓喜も快楽も神や人や動植物を愛する心というのも、この重さにしてたった1.5キログラムのものから生じているんだな、と思ったのです(^^;)
なんと言いますか、マーリン・キャロザース先生の「神さまへの感謝と賛美」を実践して、わたしもそれなりに長いと自分では思うんですけど……この事実を前に、「そりゃそーだよな☆」みたいにあらためて思ったというか。。。
>>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章28節)
>>だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
(テサロニケ人への手紙第一、第5章15~18節)
だって、この1.5キログラムの小さな脳の中のニューロンやシナプスの活発なやりとりを何で満たすかといったら……神さまへの祈りとか、隣人に対する愛とか、そのようなもので常に満ちているか、あるいはそのようであろうとする人の肉体の脳、あるいは魂の心といったものを神さまが特別に愛し、恵もうとされるのはあまりにも当然のことのような気がするのです。
けれども、人間は弱いので、この脳の中をよくない思いや穢れた思いが時にゆき巡ることがあっても――そのことも神さまは赦してくださるわけです。その方が真にイエスさまに立ち返って悔い改めるとしたなら……。
さて、ここまで書いたところで再び、矛盾した問題が出てきましたよね?(笑)
神さまがわたしたちの心の中を読み取るというのはようするに、脳の中のニューロンやシナプスの活動を読み取るのか、という問題です。これもよくある質問ですが、「人の心は脳にあるのか、それとも心臓のあたりにあると思いますか?」というのにとてもよく似ています。
わたしたちの直感としては、心というのは心臓のあたりにある気がするのに、科学的には脳の中にあるという、奇妙な矛盾。そして、神さまがわたしたちの祈りを聞いたり、心を読み取るといった場合は、一体そのどちらを――だなんて、なんだかあまりに馬鹿げてますよね?(^^;)
聖書には、>>神は霊です(ヨハネの福音書、第4章24節)とあります。そして、個人的にはこれがすべての答えと思います。
霊は(基本的に)目に見えず、物質的な意味での質量もありません。
神さまにもし<重さ>があるとしたら、それはこの世界全体、あるいは宇宙全体をも含めたすべての重さであるのと同時に、まったくのゼロでもあるということです。
神さまはこの人間の目に矛盾と思えることを、すでに霊において乗り越えておられ、わたしたちもいずれ、血肉の体を捨て、霊の体を持ったとすれば――メビウスの輪のようなすべての矛盾は断ち切られる……ということですよね。
ただこれは、科学的な意味合いにおいては、どうにも証明しようのないことです。父と子と聖霊なる神が、人智によっては理解することが不可能であるように、未信者の方や無神論者の方にも理解できるように説明するのはほぼ不可能てあるように感じられることなので(^^;)
また、「意識はいつ生まれるのか」という本の理論を突き詰めていくと……どうも死後の世界などありえない、人の意識というのはなんらかの不具合によって途切れてしまったら、そのまま消滅してしまう、また、そのような形で一度消滅したように思われる意識が復活することがあるにせよ、そこに<神>などという概念を差し挟めるのは科学的な意味合いにおいては何やら憚られる――といったように感じられるのですが(いえ、「意識はいつ生まれるのか」は本当に素晴らしい本ですし、書かれた著者の方もユーモアセンスのある、人徳の高い方であるように思います)、この理論を前に、また以前お書きしましたとおり、宇宙物理学を突き詰めていくと、<すべては偶然の連なりによって存在し、ゆえに神が宇宙創造に関与したとは考えにくい>といったことになるのかもしれませんが……にも関わらず、わたしは こうした科学的事実を前に何故<神>、<イエス・キリスト>を信じていられるのか、ということになるかもしれません。
ですが、神はやはり霊なのです(笑。いえ、笑いごとでなく、本当に^^;)。
わたしが死んだ瞬間、肉体は腐ってゆきますし、当然それまで<意識>と呼ばれるものがあったはずの脳も腐っていくでしょう。この脳とやらをホルマリン漬けにしようがどうしようが、とにかくそれはもうただの物質としての脳であって、「♪わたしはそんなところにいません~」(『千の風になって』笑)ということになるのだと思います。
では、どこへ行ったのか?天国、とか言ったらぶっ殺すぞとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。ですが、わたしたちが親しい人が死んだ時、「○△くんは今、苦しみもなく天国にいます」とか、「△□ちゃんはの魂は今、天国で安らいでいるに違いありません」という時――それは、つまりはそういうことなのではないでしょうか。
天国、という存在や概念には、人の気休め以上のものが間違いなくあると思います。
わたしは自分がクリスチャンになる以前、よく自殺することを考えていましたが、正直、天国などというものがあるとはまったく信じていませんでした。というより、死んだら自分の意識は<無>になるのだという、その<無>ということに、とても深い安らぎと慰めを覚えていました。
ですから、元のわたしの考え方でいくと、「死後の世界は無である」でも、まったく構わなかったはずなのです。もちろん、病気などで死が差し迫った時、自分の存在が消え去る、無になってしまうということに何よりの恐怖を覚える……そこで、急いで宗教的なものに縋ることにした、といった方もたくさんいらっしゃいます。でも、本当に真実<無>であるということは――苦痛も恐怖もないことを意味しますし、そのかわり歓喜も安らぎもなく、寒さも熱さといったことも一切存在しない……わたしはそれをとても素晴らしいことだとずっと感じていました(あくまで自殺を考えていた時、ということですけれども^^;)。
でも、自分に関してはそれで良くても、誰か他の方が死んだと聞いた時には、「あの人は無の世界へ行った」などとは一切考えませんでした。「死んだら無」というのはあくまでわたしの死生観であって、他の方に関しては、その方がいい人であっても、仮に生前評判が悪かったという人でも、「天国へ行った」と思ったり、「そうなれているといい」と考えるのです。
そして、イエスさまのことを信じることが出来た今となっては、聖霊さまを通して天国のことは堅く信じることが出来ますので、なんの疑問もわきません。つまり、霊で神を信じるとは――「もう議論の余地はない」という超越した境地でイエス・キリストの十字架を信じるということなので、宇宙物理学がどーの、科学的にどーの、医学的にはこーの、「霊の世界はそんなもの、すべて超越してるんだから、関係ねえのさ♪」といったことになってしまうのです(笑)
おわかりになりますか?つまり、本の冒頭で、手のひらに人間の脳をのせた医学生は、かつてこの脳に詰まっていた色々なもののことを思って呆然としたのだと思います。つまり、銀河の彼方にあることを想像したり、自分の好きな人が振り返ってくれることを妄想したり、家族や友達や恋人、あるいは犬や猫や鳥といった動物をかつては愛していたであろうわたしたちと同じ人間の脳、ここにはもうそんなものがかつて宿っていた痕跡などない。では、人が生きることには一体どんな意味があるのか?……ですが、わたしたちの脳は常に矛盾したことを考えたり想像したりします。
つまり、月にうさぎがいて餅つきをしていることにはじまり、遠い土星の環のところに美少女が座っている絵をイラストとして描いてみたり、火星にありえないほど目の飛び出た、半分体のとけかかったカニ星人がいると想像したりします。
普通に考えた場合、宇宙空間では人は呼吸できないはずですから(カニ星人はどうか知りませんが・笑)、こうした世界は存在しないと<科学的に>わたしたちにはわかっているはずです。ですが、希望的観測に縋って「あるかもしれない」、「いるかもしれない」、「火星にカニ星人がいたっていいじゃないか!」、「ところで、カニ星人の主食はなんですか?」と思っているわけでもなんでもなく――魂・精神・心・霊の世界で見た場合、宇宙空間では人は呼吸できないという常識を超えた何かがあるはずだ、と信じる方は多いのではないでしょうか。
この、イエス・キリストに結びついた肉体の内にある霊、魂といったものはすでに死を超えている……というのは、ノンクリスチャンの方には説明が難しいのですが、この本の中では、一本の線を引いたこちら側が生(意識のある世界)、向こうが死(医学的な意味で意識のない世界)、また間にあるグレーゾーンについても論じています(植物状態にある方の意識があるかないかということなど)。
でも、どんな科学的な事実も、イエス・キリストの愛と天国を信じることから人を引き離すことは出来ません。無神論者の方にとっては、何故そこまで確信的に言い切ることが出来るのか、不思議なことかもしれなくても。
>>私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
(ローマ人への手紙、第8章38~39節)
ですが、こうした厳然たる科学的事実を元にした本のみならず、『ダ・ヴィンチ・コード』といった映画を見たり本を読んだりして信仰が揺るぐ方というのは、おそらくそもそも聖霊を受けていないのです。それと同じことで、霊によって神さま、イエスさまのことを信じてさえいるなら――本当に、わたしの中ではなんの疑問もわかなければ、議論の余地すらありませんでした(^^;)
とはいえ、この答えで納得できない方というのは、一般的に多いだろうというのは承知しておりますので、こちらの本を読み終わってから、再び記事にしてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
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